10-03.
しばらくすると一台の車が門から入っていく。『わかば台病院リハビリセンター』と書かれた車から女性が降り、玄関から入っていく様子が見えた。それと同時にピアノの音がやみ、徐々に門が閉じられていった。
「あ……」
ガシャンと音を立てて完全に門が閉まると、ナオの姿は見えなくなってしまった。
それはまるで私とナオを隔てる心の壁のようにどっしりと立ち塞がる。
私は溜息をつくと、俯いて考え込む。
今の車は、ナオのリハビリを行う理学療法士が乗っていたのではないだろうか。きっと自宅でリハビリを行っているのだろう。リハビリをきちんと続けているんだ。ナオを支えてくれる家族がいる。家族に見守られながら、支えられながら、ナオは頑張っている……。
私は唇を噛みしめると、深く息を吐き出してその場を立ち去る。
(本当によかっ……た……)
来た道を戻ると、私は再び境内へ。
芸事に御利益がある比奈森神社。絵馬を奉納していくことにした。琵琶を持った弁財天が描かれた小ぶりの絵馬に、想いを込めて丁寧に願い事を書いていく。
『ナオの腕が治って、ピアノを思うように弾けますように』
ただそれだけを一心に願った。
そして私は比奈森神社を後にした。
翌朝、のろのろと身支度を整えながら一日の予定を考え始める。
今日は夕方から都内で行われる学会に行かなければならない。
午後2時頃にはここを離れる必要があるが……まだ時間はある。でもこのまま帰ってしまおうか。そんな意気地なしな自分が沸々と湧いてくる。
昨日は、もう一度ナオのところに会いに行こうと思えば行けたのに、ホテル内でただぼんやりと過ごした。
(だってナオには、ちゃんと支えてくれる家族がいる。だから私はもう……)
ナオを好きな気持ちは揺らがないし、自分がすべきこともはっきりしている。
でも、いざナオを目前にすると、私の足は竦んで動かなかった。
『夏海には会いたくないんだ』
ナオの言葉が頭を過って、臆病な自分が尻込みをしたのだ。
好きだからこそ、そこから先へ踏み込む勇気が出なかった。
優しくて温かなナオに、これ以上はっきりと拒絶されることは、弘臣に拒絶されるよりも怖かったのだ。
(どうしよう……)
迷いながらも向かった先は、帰途へと続く駅。こぢんまりした駅は構内に入ってから改札までの距離もごく僅か。すぐにでも電車に乗れそうな距離だ。
それなのに重い足取りではずいぶん遠く感じられて、溜息をついて俯きながら歩く。
ナオは家族とリハビリを頑張っているのだから、私の出る幕ではない。ナオの姿を確認できただけで良しとしよう。戻ったら、ナオのために何から始めようか。自分にできることを考えなくちゃ。そばにいられなくても何かできることがあるはず。早く帰って準備を……
――そう思うのに、胸の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような苦しみを覚えて足を止める。
足元のアスファルトに、ポタリと一粒の雫が落ちた。
(違う……。ナオに会いたい……私が誰よりもナオのそばにいたい……ッ……)
自分勝手かもしれない。ナオからすると迷惑かもしれない。それでもどうしても会いたい……。
私はその場で深呼吸をすると、丸まっていた背中をグイッと伸ばす。
(もう一度会いに行こう。でもそれでナオが会ってくれなかったら……その時はその時だ! 今は考えるな!)
そう覚悟を決めると、踵を返して勢いよく一歩目を踏み出す。
その瞬間、ドンッと後ろにいた人に接触して、背後に体が跳ね返された。
(嘘!?)
何だか身に覚えのある状況、とナオにぶつかった時のことを思い出していると、今度はどこにも体を打ち付けずに背中をグッと支えられる。
「……あっぶな。俺、左腕一本しか使えないんだから気をつけてよ」
何が起きたのかいまいち頭が追い付かないまま、目の前に立つ人を見上げる。黒いハットとサングラス姿の人物が目に映った。
元気な時より少しだけ低くて力のない声。それでもやっぱり心地よい澄んだ響きの声。
視界がジワリと滲んで、もっとはっきり顔を見たいのに、ぼやけているのが悔しい。
私はゴシゴシと何度も涙を拭う。
「ナオ……ッ……」
「今日は馬を被ってなくてよかったよ。夏海は急にクルッと回って歩き始めるのが癖なの? 危ないからやめたほうがいいよ?」
クスッとナオが笑う。
ナオの笑顔……久しぶりの笑顔……。
余計に涙が込み上げた。
「ナオ……どうしてここに……?」
その姿を確かめるように、ナオの頬に向かって震える手を伸ばす。
すると背中を支えてくれていたナオの左腕が離れていって、距離を取られる。
ナオの体温を感じていた背中は、急激に冷えていった。
「それはこっちのセリフだよ。会いたくないから来ないでって言ったのに」
ナオのサラリとした拒絶の態度と言葉は、覚悟していてもズキンと胸に刺さった。
「そ……そうよね。勝手に来たりして……ごめんね」
笑ってごまかしたのに、苦しさからポロッと涙が溢れ落ちる。
それを見たナオは、気まずそうに目を背けた。
「よくこの場所がわかったね。誰にも話してないのに……びっくりした」
「そうよ……っ、そのせいで、すっごーーく大変だったんだから」
「そうだろうね」
「でも『会う運命の人には会えるもの』……なんでしょ?」
不安に声を震わせながらそう伝えると、ナオは困ったように笑う。
「ここで待ってたら『夏海にきっと会える』って思ったんだ」
拒絶はされなくとも、「そうだね」と同意してはくれないナオにズキンと胸が痛む。
それでも私は、必死にナオの言葉を頭に思い浮かべていた。
『お互い会いたいなっていう気持ちでいっぱいになって、それで偶然会えたら……一緒にいる運命ってこと』
そうだ、迷ってばかりいた私には、運命の神様は微笑んでなんてくれない。
だから今は――
「本当に会えたわね。私たちは『運命』って言ったのはナオだもの」
そう伝えたら、ナオは苦笑いだけを返す。
その無言の返事が苦しくても、胸が痛んでも、もう迷いなんて捨てた。
今の私には、きっと運命の神様が微笑んでくれるはずだ。
そう信じて前へ進む。
もう逃げない。




