09-08.
ナオがそんな状態だったなんて……。
何も知らずにいた自分への失望と苛立ちが、私の胸に激しく渦巻く。
「そう……でしたか……」
『悪く思わないでくれ。あなたに情けない姿を見られたくなくて、ナオなりに必死だっただけだ』
「はい……」
『リハビリって、すぐに効果が出るものでもないだろう? だけどナオは早くピアノの世界に戻りたかったんだ。あなたが好きだと言ったピアノを取り戻すためにね」
「――ッ……私……」
『ああ。だから最初は苦しみながらも、歯を食いしばって必死にリハビリをやっていたんだ。それなのになかなか右手が動くようにならなくて、とても焦っていた。すっかり元通りに戻すのは難しいと聞いてからは、もう元のようにピアノは弾けないんだって……諦めたくなる気持ちと懸命に闘って、リハビリを続けていたよ』
「そう……ですか」
『事故の後2週間ぐらいは、頭をぶつけた影響でしばらく耳鳴りも酷かったみたいで、眠りが浅くてね……悪夢ばかりを見ると言っていた。右手が一生動かなくなる夢で魘されるから、眠るのが怖いって言って震えていたよ。顔色も悪くて、どんどん痩せていった。そんな姿をあなたには見られたくなかったんだ。今は……どうだろうな。眠れているといいんだが……』
視界がグラッと歪んで暗くなる。
魘され、震えていたナオを思うだけで胸が張り裂けそうだ。
私は今まで何をしていたのだろう。
会いに行きもせず、ナオから直接聞こえてくる言葉だけを真に受けて、ナオの本心を見抜けなかった。
呑気で馬鹿な私……。
『夏海には、コンサートでクールにカムバックする俺を見せたいからだよ』
1ヶ月前、ナオはどんな気持ちでこの言葉を口にしていたのだろう。相当無理をして言っていたのではないだろうか。
何がナオは『前向き』だ。何が『リハビリが順調だということ』だ。何が『ナオの明るさ』だ。
思わぬところで大怪我をして、ナオにとって体の一部のようなピアノが急に弾けなくなって、それで平気なわけがないのに……。
ピアノという光のない世界に突然立たされたナオは、どんなに苦しかっただろう。
心を抉られ、光を見失い、息をすることすら苦しかったに違いない。
脳外科医としての輝きを失った私の手のように、ナオの手も今、輝きを失って――
……そう考えて、私は首を横に振る。
違う。ナオはまだ輝きを失ってはいない。
純真にピアノに向き合ってきた人だから。
今はただ曇り空なだけだ。
だったら私の手でも……私の光を失った手でも、ナオの手に光を導くことができるだろうか。
(違うわ。できるかどうかじゃない。やらなくちゃ。ナオから光を失わせはしない。私が、必ず導いてみせる)
「あの、ナオの居場所がわからないのですが、何か知りませんか? 本人は教えてくれなくて……」
『あー……家庭の事情があるらしくて、僕も知らされていない。僕は仕事の事情でアメリカに戻ることになって……ナオを残して日本を発つのは心配だったんだけど、ナオが “家に帰るからいい” って言ったんだ』
「家?」
『そう。入れ替わりでナオの母親が来たようだ。だから今は母親の方の家に戻っているんじゃないのかな』
「そうですか……。私、ナオの家のことも家族のことも全然わからないんです。私って本当に……何してるんだろう」
苦しさを隠して自虐を含んでそう呟くと、ブラウンさんがフッと笑う。
『ドクター、あなたはスタート地点に立ったばかりだろう? これからだ』
「はい……すみません」
苦さでいっぱいの後悔を噛みしめる。
これが今の自分の立場だと、言い聞かせるように。
「あの、ナオの家のことで何かわかることはありませんか?」
『うーん……父親の方は少し聞いてるけど、母親の方はな……。あぁでも、そういえば随分前だけど、ナオが変わった楽器の話をしていたな』
「変わった楽器?」
『ああ。家にある楽器が楽しいって話していて……何だったかな。俺は聞いたことのない名前だった。オーボエみたいな古い楽器らしくて……ヒ……ヒティリカ? ちょっと違う気がする。名前は忘れたけど、とにかくそれの音も魅力的なんだって話していたことがあるよ』
オーボエも名前を知ってる程度で詳しくはわからないが……ヒティリカ? 何それ……。
「えっと……そもそもナオの家って、日本なのでしょうか?」
『あー……わからないけど、たぶん日本じゃないかな。母親の再婚相手は日本人だって言ってたし、日本に仕事に行くとフラッと数日どこかへ出かけてたからね』
「そう……ですか」
『一応、うちで所有する家のどこかに、ナオが戻ってないか探してみるよ』
「はい、よろしくお願いします」
僅かな手がかりを得て、ブラウンさんとの電話を切った。
「ナオの……お母さんがいる家」
日本……だよね?
弘臣の病院の紹介状を持っているということは、日本国内の病院に移った可能性が高い。
でも紹介状を使わない可能性も考えると……全くどこだかわからない。
どこかにあるナオの母親がいる家。ナオはそこにいるのだろうか。
ブラウンさんが言うように、まだナオの右手には麻痺が残っている状態。一人で生活するのは難しく、アメリカに戻って一人で生活しているとは考えにくい。
手がかりは、オーボエみたいな古い楽器がある、たぶん日本国内の家。
……これでナオを探し出せたら奇跡だわ。
もう少し情報がほしい。
「……あ、そうだ」
私はミキさんに連絡を取ることにした。




