09-06.
その翌日、ブラウンさんから電話が来た。
『ナオが病院を移ったと聞いたものですから、あなたにこれまでのお礼をきちんと言っておきたくてね』
「ああそれは……私は大したことをしたわけではありませんので、どうぞお気になさらず」
沈む気持ちでは何を話したらいいのかわからず、ブラウンさんとの間に沈黙が走る。
『ドクター、どうかしましたか? 落ち込んでいるようだ』
「えっ? あー……ナオに『会いたくない』と言われてしまって……ショックで」
涙混じりにハハッと乾いた笑いを零すと、ブラウンさんは数秒の沈黙の後、重々しく口を開いた。
『ショックねえ……。僕はあなたにとても感謝している。命の恩人だ。ナオの手術のことも上手く計らってくれた。だからもう充分、医師としての責務は果たしてくれたよ。ありがとう』
お礼を言われても素直に喜べなかった。『医師としての責務』という言葉に、ブラウンさんの僅かな皮肉を感じたからだ。
私が黙っていると、ブラウンさんは口調にやや厳しさを乗せた。
『あなたは、どういうつもりなんだ? ナオの気持ちを少しは理解しているのかな』
それには「はい」と答える資格なんてどこにもなく、黙り込むしかなかった。
するとブラウンさんの言葉が続いた。
『あなたにナオがどう映っているのかはわからないが……ナオは繊細で脆い人間だよ』
「……え?」
『まぁそういう弱さが、ピアニストとしては良い面に働いている部分が大いにある。しかしその分、崩れればとても脆い』
ナオの脆さ――それに見当が付かない私は、ナオを理解しているとは到底言えないのだと思う。
『あなたは、ナオが心の底から欲しがっているものを知っている? ピアニストとしての栄光ではないよ』
「……わかりません」
『ナオにとってピアノは、自分の感情をストレートに表現する媒体なんだ。そして、相手の心を掴み取るための手段でもある。普段は飄々としていておおらかさのほうが目立つが……その実、とても愛情に飢えていて傷つきやすい。普段はそんな自分を見せていないだけだ。隠していた方が周りが幸せだと、子どもの頃に学んだからね』
私は胸の真ん中がギュッと握られるように苦しくなった。
仮にそうだとして、そこにナオの幸せはあるのだろか。
『ナオは両親の離婚が影響して、自分の元から大切に思う人が離れていくことを必要以上に怖がっている。だから大切な相手が離れて行く前に、自分から距離を取ろうとする。嫌われないように自分を隠して、嫌われない自分へと立て直すんだ。大切であれば大切であるほど、ナオは臆病になる』
そんなブラウンさんの話に、私はハッとした。
ナオが一向に私に会いたがらない理由は、まさか……。
「私、ナオの表面的な言葉ばかりに気をとられて……ッ……」
『ナオを嘘つきだと罵りますか?』
皮肉めいたブラウンさんの言葉に、私は震える唇を噛みしめる。
(何やってるのよ、私……)
ナオがこれまでどんな気持ちで私と過ごしてきたのか。
事故の後、どんな気持ちで私と話していたのか。
何もわかっていなかった私には、その苦しみを計り知れない……。
それでも私のために弾いてくれたナオのピアノは、美しくも泣き出したくなるような切なさで溢れていた。
心の奥深くまで染みる音。
それがナオの心からの感情なのだとしたら……。
私に向けられていた光は、ナオの心。
輝きを失った私をも照らしてくれた、眩しい光だ。
ナオはいつだって、ピアノで気持ちを伝えてくれていたのに……。
『ドクター、僕はナオをこれ以上傷つけたくない。怪我のこともあるし、あなたに失望したくもない』
違う。
『中途半端な気持ちなら、これ以上の深入りは無用だ』
違う。もうとっくに私の気持ちは……。
「あの……ナオのこと、きちんと教えていただけませんか?」
『……』
「失望なんてさせません。ナオときちんと向き合いたいんです」
『それは……医師として? それとも友人として?』
医師? 友人? 違う。
「どちらでもありません。私は……ナオのただ一人のパートナーになりたいんです」
ナオが気持ちを隠さずに、まっすぐ向けられる相手に私はなりたい。
弱さも脆さも全て受け止めたい……。
するとブラウン氏がハァッと大きく息を吐き出すのが電話越しに聞こえる。
『ナオの話を聞いていると、なかなかあなたに対して重量感がありそうなんだけど……本当に向き合うつもり? 逃げ出したくなるかもしれませんよ?』
重量感。それはたぶん『ナオの愛情の重量感』ということを言いたいのだろう。
私は思わずクスッと笑った。
「私もかなり重量感のあるタイプだと思うんですけど、似たもの同士ってことかしら? ちょうどいいかもしれません」
そう答えると、ブラウンさんがフッと笑うのが聞こえた。
『それなら、ナオが本当に欲しいものはわかった?』
「はい」
『そうか。あなたの気持ちはわかったよ。ただ……あなたに関しては、ナオはとても頑固だと思うよ』
「頑固……ですか?」
『ええ。嫌われたくない気持ちが、あまりにも強過ぎて』
それを聞いて、私もフッと笑う。
「望むところです。『嫌うわけがないでしょ! ナメてんじゃないわよ!』って言ってやります」
『へーえー、それはこれからが楽しみだ。……ナオは今、気持ちが迷子になってるんだ。どうか救ってやってくれ』
「はい」
『それならきちんと話すことにしよう。ドクターには言うなと言われていたが……ナオは怪我をしてからかなり精神的に苦しんで、リハビリも相当苦しかった様子でね。大きな怪我だから無理もないが、痛々しくて見ていられないほどだったよ』
私はギリッと奥歯を噛みしめる。
手術を受けて前向きになっただなんて思っていた自分が腹立たしい。
何も知らずにいた自分に、胸の奥から苦いものが込み上げてくる。
「そう……ですか……」
『例えばこの間、ドクターとの電話を切った後は――』




