09-05.
「待って。終了って、それは、治ったから……ではないわよね?」
弘臣が『治療期間半ば』と言っているのだから、返ってくる答えがわかっているような質問だ。
『そんなに早く治るわけがないだろう。まだ麻痺が残っている状態だと担当医から聞いている。少し前に宛名が空欄の紹介状を渡したらしいから、どこか別の病院できちんとリハビリを受けているといいんだが……そうでなければ、場合によっては関節が硬くなって動かなくなるぞ』
それは脳外科医の私にもわかることだ。脳外科医として、術後に麻痺の残る患者のケアのため、リハビリについては浅薄ながらも一通り学んでいる。
「そう……よね……」
ナオはどうして通うのをやめてしまったのだろう。しかも私には一言も告げずに。
すると弘臣が告げる。
『俺も時々様子を見に行っていたが、あまりリハビリに気が進まなかったようだ』
「……気が進まないってどういうこと?」
『どういう理由なのかは本人がはっきり言わなかったらしいが、もうやりたくないと申し出があったそうだ。それでも何とか続けてはいたんだが、紹介状を書いたあとから来なくなったと報告があったんだ。一応、お前にも伝えておこうと思ってな』
ドクドクと心臓が重い音を立てる。
そんな話はナオから一言も聞いていなかった。
リハビリは順調だと言っていた。明るい声で「頑張ってる」と言っていた。
ナオの言葉と弘臣の言葉の隔たりが大きくて、わけがわからない。
「やりたくないって、そんな……。元気そうにしてたのに……」
『よくわからないが、お前と小鳥遊尚哉はそういう関係だったのか?』
「……そういうって?」
『弱みを見せられる関係』
そう言われて胸を強く衝かれたような感覚がした。
「弱……み……?」
『ああ。深く詮索するつもりはないが……『大切な人』というのは仕事の関係なのか? てっきりプライベートだと思っていた』
「仕事では……ない……けど……」
ナオとの関係。
曖昧で中途半端な関係。私がはっきりさせなかったから。
そう言えずに黙り込むと、弘臣がポツリと話し始めた。
『俺は小鳥遊尚哉のピアノを好んでよく聴く。好きなピアニストの一人だ』
「そうなんだ……」
『彼は人一倍ピアノや楽曲と融合するタイプの演奏家だ。だから長くピアノを弾けないことは、自己表現の術を失い……恐らく自身の存在の大半を抉られたような感覚ではないかと思うぞ』
事故の後すぐこそ弱気な発言をしていたものの、その後はそんな辛さなんて、ナオからは微塵も感じられなかった。
短い時間ながらもナオと電話で話すと、以前と同じで明るくてリハビリにも前向きな言葉を言っていた。
でももしかして、本当は言葉以上に苦しんでいた?
それを私に隠していたとしたら……?
「そんな……」
『大事な人なら、きちんと向き合え』
私は何を迷っていたのだろう。きちんと話そう。会って、顔を見て話さないと、わからないことだってあるはずだ。
「ありがとう。連絡を取ってみる」
私は弘臣との電話を切ると、すぐさまナオに電話をかけた。
『夏海? 何?』
ナオはいつも通りの明るい声で電話に出た。
これが、本音を隠すために演じている声? 声だけではわからない。
「ナオ、今どこにいるの?」
『ん? 家だよ』
家ってどこなんだろう。ナオのことを知らない自分に気づく。
「リハビリ、ちゃんとやってるの?」
『……やってるよ』
「でも、弘臣から連絡が来たの。病院に来なくなったって心配してた」
そう言うと、ナオは黙り込んだ。
「ナオ? リハビリが辛いなら、一人で抱え込まずに――」
『平気。夏海は気にしなくていいよ』
優しげな口調だが、被せるように言葉を遮られたことからも伝わってくる。
もしかして、また弘臣の名前を出したから不快に思ったのだろうか。
「ごめんね。でも気にしないなんて、そんなの無理よ」
『大丈夫だよ。リハビリは別のところに通ってるから問題ないし、辛くもない。夏海は心配しないで』
明るい声だが、こちらに踏み込むなと言われているように聞こえる。
「そ、そうなの? あのね、そろそろ少しくらいナオに会いたいなって思うんだけど――」
『へー、押してダメなら引いてみろって言うけど、本当だね。夏海の方から会いたいって言ってもらえるなんて嬉しいな』
ハハハッとナオは軽い調子で笑った。ごまかされたのだと思う。何か違和感がある。
「ねぇ、会いに行ってもいいわよね? 家ってどこ? 場所を教えて?」
ちゃんと顔を見て話したい。そうじゃないとナオが何を考えてるのかわからない。
すると数秒の沈黙のあとに、ナオの色のない声が耳に届いた。
『会いたくないよ』
「え……?」
『夏海には会いたくないんだ。だから教えない』
拒絶するようなナオの言葉に、さすがにガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。
「どう……して?」
『ごめんね夏海。もう電話切ってもいい?』
「……あ……えっと……」
『ごめん……本当にごめん。じゃあね』
「あっ……」
プツッと電話が切れて、いつもより冷たく感じられる話中音が耳に響いた。
私はソファーに体を投げ出してぼんやりと考える。
あんなに距離の近かったナオに一気に距離を置かれた感覚は、反動でショックが大きかった。
「ナオ……どうして……?」




