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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第九楽章 弱み

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09-04.


事故から2週間後、私はアメリカで仕事を続けていた。

その間、一度もナオには会いに行っていなかった。

自分の仕事がずっと埋まっていることも理由ではあったが、それだけなら調整をつけて会いに行っていただろう。

会いに行けなかった、という方が正しい。


『会いに来ないで』


手術前、ナオからそんなメッセージが届いたのだ。

ナオに拒否される理由は身に覚えがありすぎて、返す言葉もなかった。

『私を嫌ってもいいから手術を受けてほしい』――その言葉が残酷だったことは、落ち着いて考えてみればわかる。弘臣に片思いしていた時に同じことを言われたら、きっとショックを受けていた。

ナオに放った自分の言葉に後悔ばかりが膨らむ。


ナオの状況はブラウンさんを通じて聞くだけという、もどかしい状態が続いている。

ブラウンさんによると、ナオはあと数日で退院して自宅療養に入るらしい。

再び深い溜息をつくと、ソフィアが苦笑いした。


「ドクター、いい加減に会いに行ったらどうです?」

「だって、『会いに来ないで』ってメッセージが来たし……」


それに、『嫌ってもいいから』という私の言葉に、ナオは『わかった』と言っていた。さすがに愛想を尽かされたのではないだろうか。そう思うと怖くて動けない自分がいる。


「忙しいドクターに気を遣って言ったことかもしれないですよ。それに利き腕が使えないなら、生活も不便そうじゃないですか。そばには誰か付いているんですか?」

「それは『大丈夫』ってブラウンさんが……」

「こっそりでもいいから様子ぐらい見てきたらどうです? もうそろそろドクターの溜息は聞き飽きましたよ」

「ごめん」

「仕事に支障を(きた)さないのはさすがですけど……顔色が悪いですよ」


よくなっていた不眠が、ナオの事故以来、再発していた。


「気にしてくれてありがとう、ソフィア」


確かに、そろそろ連絡の一つくらいしてもいいだろうか。

メッセージ……いや、きちんと声が聞きたい。



あー……物凄く緊張する。

帰宅後、電話をかけられないまま30分ほどが経過していた。

そしてさんざん葛藤した挙げ句に、震える手で勇気を振り絞って電話をかけてみると――


『あぁ、夏海? 久しぶりだね』


想像以上に明るく元気な声が耳に届いて面食らった。


「あ……うん……。腕の調子はどう?」

『うん、順調。リハビリ頑張ってるよ』

「そ、そう……それならよかった」


随分元気そう。本当によかった。

ただ……そこで会話が途切れた。正直、何を話したらいいのかわからなかった。


『夏海、ちょっと元気ない?』


怪我人に気を遣わせてどうするんだ。私は決意するように背筋を伸ばした。


「そうじゃなくて……どうしたらいいのかわからなかったの」

『何が?』

「ごめんね。だって、私のこと怒ってるでしょ? 嫌われたんだろうなって……」

『へーえー。ねぇ夏海、嫌ってもいいって言ってたけど……夏海は、俺に嫌われても平気なんだ?』


ちょっと揶揄うようなナオの口調が胸に刺さって、私の目には涙が滲む。


「ごめんなさい……平気なんかじゃないわ。私、酷いことを言ってしまって……」


苦しんでいるナオをさらに傷つけて、こうやって謝るだけ。

それでも嫌われたくないと思う私は、なんて身勝手なのだろう。

するとナオが電話越しに小さく笑うのが聞こえた。


『わかってるよ。だから俺は手術を受けたんだ』

「……え?」

『最初言われた時はショックだったよ。でも夏海は頑張って言ってくれたんでしょ? だから夏海の気持ちに応えたんだ』

「ナオ……」

『ねえ、俺が夏海のことを嫌いになれると思ってるの? 酷いなぁ。夏海は何もわかってない』

「ごめん……」


謝りつつも、確かに何もわかってない自分がいるのは確かだ。

ただ……それなら『会いに来ないで』と言われた意味がわからない。


「ナオ……どうして会いに行ってはダメなの?」


すると僅かな沈黙の後に、ナオがフフッと笑う声が聞こえた。


『夏海には、コンサートでクールにカムバックする俺を見せたいからだよ。甘い蜂蜜ちゃん、おとなしくそっちで待っててね』

「だから変な呼び方しないで」

『英語のほうがいい? My sweet honey』

「英語でも同じよ。やめて」


クスクス笑っている声が電話越しに聞こえて、相変わらず軽いナオにちょっと気が抜けた。

時間はかかると思うけれど、そういう前向きさが復帰を早めることにも繋がるだろう。それにリハビリが順調だということかもしれない。

ナオの明るさに、私もつられてフフッと笑った。


「わかったわ」


会えないことは寂しい。

でもピアニストとしての復帰が目標になっているなら、私の寂しさなんて後回し。邪魔はしたくない。

手術前は怪我で弱気になっていたナオ。でも手術を受けて前向きになり、気持ちが浮上したのだろう。

さすがにカムバックするまで会わないつもりはないけれど、もう少し落ち着いたらナオの方から「会いたい」って言ってくれるかもしれない。

私はそう思って、会いに行くのを一旦控えることにした。


「ナオの華麗なカムバックを楽しみに待ってるわね」

『うん!』




それから1ヶ月が経った頃、自宅で休む私の元に、弘臣から着信が入った。


『今話してもいいか?』


何の用事だろう、と冷静に思う私。

以前なら弘臣からの電話なんて飛び跳ねて喜んでいたのに……。

自分の変わり様に驚きつつ、「うん」と返事をして言葉を待った。


『小鳥遊尚哉の件だが……話を聞いているか?』

「電話で時々話してるけど……どうかしたの?」

『最初に頼まれた手前、お前にも念のため報告しておいたほうがいいと思ってな』


報告? なんだろう……。

私が黙っていると、弘臣が告げる。


『小鳥遊尚哉だが、治療期間半ばで、うちへの通院並びにリハビリを終了することになった』

「えっ?」


どういうこと……?


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