09-03.
何も手につかないまま数時間経った頃、着信音にビクッと体が跳ねた。弘臣からだ。
日本は早朝の時間帯だろう。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てる中、震える手で電話に出た。
「は、はい……」
『夏海、今いいか?』
「うん」
『状態をうちでも確認した』
どうやら、すでに弘臣のいる病院にナオが運び込まれたらしい。
「そう……。それで……彼の状態はどうなの?」
『痛みと発熱はあるようだが、とりあえず今は落ち着いている」
それを聞いて私はホッと胸をなで下ろした。
まだまだ安心なんてできないけれど、最悪の事態を迎えていないことに僅かながらも安堵した。
「そう……ありがとう」
『だがな、いまいち状況が掴めないんだが……なぜかうちの病院で手術は受けたくないと拒否されている』
「えっ、拒否?」
『ああ。怪我をしたばかりで精神的に不安定になっているせいもあるのだろうが、“ I don't need that man's help(あの人の助けなんかいらない)” と叫んでるそうだ。付き添いのブラウン氏が説得してるが……どういうことだ? あの人とは誰のことか知っているか?』
拒否ってどうして? しかも『あの人の助け』って……。
「あ……」
思い当たることは一つ。
『何だ?』
何だと聞かれても、まさか「あなたのことです」とは答えられなかった。
「ご、ごめんなさい。私のせいかも」
『よくわからんが、お前のせいなら何とかしろ。手が出せん』
「ナオ……じゃなくて、えっと、小鳥遊さんは電話で話せる状態?」
『起きていれば可能だ。個室にいるから通話も構わない』
「わかったわ」
弘臣との電話を切ると、私は深く息を吐き出す。
とりあえず、手術を自ら拒否できるくらいの状態ではあるようだ。
そうは言ってもまだまだ予断は許さない状態のはずだ。
私はブラウンさんに電話をかけることにした。
「ブラウンさん、おはようございます」
『あぁ……ドクターおはよう」
ブラウンさんの声にも疲れが感じ取れる。
無理もない。すぐそばにいる精神的疲労は計り知れないほどのものだろう。
「あの……ナオと話すことはできますか?」
『あぁ、大丈夫だと思う。それで……実はナオが手術を拒否していて……』
「ええ、聞いています。私が話してみますね」
『わかった。ちょっと待って』
電話越しにブラウンさんが『ドクターから電話だ』とナオに伝えているのが聞こえる。
そして――
『……夏海?』
いつもより弱々しいながらも、ナオの声が聞こえてきた。
視界がじわりと滲む。
「ナオ……っ……すごく心配したわ」
『うん……ごめんね』
「それで、『手術を受けたくない』って言ってるんだって?」
すると僅かな沈黙の後に、ナオの返事が聞こえた。
『……それ、誰に聞いたの?』
声が低くて口調が少しきつい。
恐らく大きな怪我のあとでナーバスになっているのだろうと思うと、言葉を選ぶ自分がいた。
「それは……」
答える前にナオの言葉が続く。
『嫌に決まってる。だってここ……久我病院って、弘臣さんの病院じゃないか』
あぁ、やっぱりそういう理由だった。
「そんなことは気にしなくていいのよ。いい医師がいるって聞いたから――」
『そんなこと? そんなことじゃない。よりにもよって、どうしてあの人に頼るんだよ』
私の選択は、事故で気持ちが不安定になっているナオを余計に傷つけたのかもしれない。
私には、ナオの怪我を何とかしたい気持ちしかないのに……。
「ごめんね。でもナオの怪我を治すことが最優先だわ。文句なら治った後でいくらでも聞くから……お願いだから手術を受けて?」
『嫌だよ。だって夏海を傷つけた人だ。そんな人に俺は頼りたくない』
「そんなこと言わないで。私は……ナオの腕を治すためなら何にだって頼るし、何にだって縋る。頭も下げるし土下座でも何でもする。それがフラれた相手だとしても……そんなのどうでもいいの。私の……っ……その気持ちはわからない?」
涙が溢れてきて声が震えた。
するとナオが電話越しに溜息をつき、ボソッと呟く声が聞こえた。
『こんなふうになった腕、どうせもう元には戻らないよ。ピアノが弾けなくなるなら、もう別にどうでも――』
「ナオ!」
私は大声を上げてナオの言葉を制した。
ギュッと握り締める自分の手が震えているのを感じる。
ナオは不安でいっぱいで、本心で言っているわけではないことはわかっている。
それでもナオの口からそんな言葉を聞きたくなかった。
いつも明るいナオが、暗い言葉を発するのが震えるほど怖かった。
「バカなこと言わないで! なんてこと言うのよ!」
『……』
「お願い……っ……お願いだから手術を受けて。もしも受けて後悔したら、そっちに行った時にいくらでも私のことを罵っていいから……。嫌っても……いいから……」
ナオがピアノを弾けなくなるよりはいい。そう思って言った。
でも――
『何それ……。嫌ってもいい? 本気で言ってる?』
冷ややかで静かなナオの声にハッとする。
「……っ……それ……は……」
私を嫌ってもいいから手術を受けてほしい――さっきは言えたのに、今度は言えなかった。
『夏海は残酷だね。そう……わかったよ』
その暗い声に体が凍りつく感覚がした。
私の選択が、またナオを傷つけた
そう思った。
数日後、ナオは手術を受けた。
久我病院の整形外科医・森山医師は、救命救急医療でも手腕を振るった経験のある外傷整形のエキスパートらしい。
開放骨折の症例や機能回復に関する手術も数多く経験を積んでおり、彼以上の適任はいない、と弘臣に言わしめるほどに。
実際、激しい骨折だったにもかかわらず、森山医師は難しい手術をきっちりと成功させ、骨折部からの細菌感染もないという最善の状態で経過。プレート固定によって腕の状態を維持し、骨がくっつくのを待っている状態だ。
森山医師はできうる限りのことをして、ナオの怪我の状況から考えると最良の状態まで引き上げてくれた。
ただ、上腕骨骨幹部を螺旋状に走る橈骨神経が骨折によって圧迫され、麻痺症状が残存。
右手首や指が動かない状態らしい。
そのため右腕の機能と感覚を取り戻すためのリハビリが必要とのことだった。
ピアノはしばらく弾けないだろう。
今後の麻痺の改善状況と骨折部の回復次第ということだった。




