09-02.
私はスマホを手にすると、震える指先でどうにか電話をかける。
忙しい人だけれど、繋がるだろうか。私の電話になんて出てくれるのだろうか。お願い……どうか出て。
電話越しに数回鳴った呼び出し音が、プツッと途切れて耳に声が響いた。
『はい』
出てくれた……。それだけで涙が零れそうになった。
「弘臣……」
『何の用だ?』
面倒そうに返事をする弘臣のいつも通りの反応。それが妙に安心するものに感じられて、涙がポロポロと溢れた。
「ごめ……っ……ごめんね、急に……っ、聞きたいこと……、あって」
『……何があった?』
「あのね……誰か……腕のいい整形外科医を知らない? 外傷専門の……整形外科医。し、知り合いが……そっちで事故に遭って、恐らく上腕骨……骨幹部の……っ……開放骨折をしていて……病院に運ばれたの」
『運ばれた病院で治せないのか?』
「治せるかもしれないけど……ただ治すだけじゃダメなの」
『どういう意味だ?』
「ピアニストなの。ちゃんと治らないと…………ピアノが……弾け……なく――……ッ……」
怖い……。
自分の発した言葉にショックを受け、喉がキュッと締まってそれ以上言葉が出なくなった。
そんなの嫌。
ナオがピアノを弾けなくなるなんて嫌。
あんなに楽しそうに弾いているのに……。
ピアノはナオの体の一部みたいなのに……。
『おい落ち着け。そのまま少し待て』
すると電話越しに弘臣が別のところに電話を掛けているのが聞こえた。
その間、私は胸を押さえながら息を整えて待った。
気がつけば心臓が聞いたことのないほどにバクバク鳴っていて、呼吸も苦しくなっていた。
そしてしばらくすると、再び私の耳に弘臣の声が届く。
『夏海? うちの病院に搬送してもらえ』
「えっ……?」
『いいのがいる。外傷経験豊富で腕がいい』
「ほ、本当?」
『もちろん、きちんと状況を見ないと何とも言えないが……』
「うん、わかってる……ありがとう」
この人が信頼する医師ならば、躊躇なく信用できる。
そのくらい、弘臣は医療に関して厳しく確かな目を持っている人だ。
『お前はアメリカにいるのだろう? 大丈夫か?』
大丈夫か? この人からそんなふうに心配されるなんて思わなかったから思わず黙ってしまった。
『そんなふうに泣きながら頼んでくるくらいだ。大切な人なんだろう?』
大切な人。本当はもう、そう認めざるを得ないことをわかっている。
「うん……大切な人なの。だからお願い……お願いします。彼を助けてください」
電話越しで自分の姿なんて弘臣には届かないけれど、私は涙ながらに深々と頭を下げた。
『……また状況を見て連絡する。お前にはお前の救うべき患者がそこにいるはずだ。今はやるべきことをやれ。できるな?』
厳しいこの人の言葉に、私はハッとして涙声を飲み込む。
「わかってる」
そう返事をして電話を切った。
私のやるべきこと。私にできるのは、脳外科医として目の前にいる患者を治すこと。
そう思うとグッと押し潰されるように胸が苦しくなる。
どうして私は脳外科医なんだろう。
どうして整形外科医じゃないんだろう。
整形外科医だったら、今すぐにナオのところに飛んでいって何かできることがあるはずなのに。
どうして私は整形外科医を選ばなかったんだろう……。
そんなふうに、考えてもどうしようもないことを考える自分が嫌になる。
過去の自分が進んだ道を、今さら後悔しても遅いのに……。
私は頭を振って雑念を振り払うと、ブラウンさんに電話をかける。
『ドクター、どうだった?』
「ええ、病院が見つかりました。治療が一旦落ち着いたら――」
電話を切ってもまだ手は震えたままだった。
今すぐ、全てを投げ出して日本に行きたい。ナオのそばに行きたい。
何ができるわけではなくとも……。
「ドクター、頭痛と吐き気を訴えている患者さんが――……ドクター? 大丈夫ですか? やっぱり顔色が悪いですよ」
ハッと顔を向けると、ソフィアが心配そうに私を見つめる。
「……ううん、大丈夫。……私は、私のやるべきことをやらなくちゃ」
私は深呼吸をすると、今、目の前に見える道だけを見つめる。
「ソフィア、状況は?」
「はい。昨日夜に運ばれた方で――」
仕事を終えて帰宅すると、どっと不安が押し寄せた。
仕事で気を張っている時は何とか自分を保てた。でも一人になると、怖くて体がカタカタと震える。
ナオはどうなったのだろうか。日本はまだ未明の時間帯で、連絡すらできないことにもどかしさが募る。
怪我の状況も詳細まで把握できていないため、最悪の事態ばかりが頭を過った。
すぐに日本へ帰ろうか。
でも私には、不安を抱えながら今か今かと手術や治療を待っている患者が数多くいる。どうか命を助けてやってくれと、家族から託された患者が目の前にいる。
まだ帰れない……。
打ちひしがれながら、私は弘臣にフラれた時に言われた言葉を思い出していた。
「私はあなたのために頑張ってきたのに!」
「そんな主体性のないやつを、俺は好まない。後悔したって知らないぞ」
――10年ほど前に言われたその言葉が、今になって身に染みる。
主体性なく道を選べば、こうやって何かがあった時、どこまでも深く後悔することになるのだ。
彼の言うとおりだった。
私は愚かだ……。




