09-01.
夏海視点に戻ります( ´^`° )グスン
「ドクター、ナオヤ・タカナシとの恋は順調ですか?」
当直で仕事をする合間、ソフィアに問われて私は苦笑いを浮かべる。恋……か。
「順調……って言うのかな」
「何です? その返事」
「そもそもまだ恋人ではないし」
「そうなんですか?」
「うん。それにね、ヨーロッパでコンサートが終わってから直行で日本に行ったから……もう1ヶ月くらい会えてないのよ」
「へー、さすが有名ピアニストですね。忙しい」
ナオは今、イベントでの演奏のため、日本にいる。
ほかの仕事をこなしつつ1週間くらいは都内にいるらしいので、合間にまたジャズバンドのみんなとセッションでもしているのかもしれない。
ジャズバーのステージに上がるなら、何かの被り物をしているんだろうな、なんて白馬やヤンキーの被り物姿のナオを思い出してフフッと笑った。
「寂しくはないんですか?」
「うーん、寂しくないと言ったら嘘になるけど……ナオにはピアノを自由に弾いていてほしいから、仕方がないかな」
天馬空を行く。ナオにはそういうのが似合う。
「ピアノを弾いてる姿、素敵ですものね~」
それは本当にそう思う。
そしてナオにとって体の一部みたいに大事なピアノ。いつだって思うままに弾いていてほしいのだ。
ヨーロッパのコンサートツアーは大盛況だったと聞いている。
『小鳥遊尚哉らしい迫力ある演奏に、今回は時折混じる切なさが痛々しいほどに心に響いてくるのが魅力だ』なんて書いてある記事をネットで見た。
恐らく、日本での演奏も盛況なことだろう。
すっかり私もピアニスト・小鳥遊尚哉のファンの一人になっていた。
またホールに聴きに行きたい。
そしてナオがアメリカに戻ってくるのが楽しみだ。
ちょっと惚けた私を見て、ソフィアはクスッと笑う。
「もう『愛しのダーリン』って感じですね」
「えっ!? そ、そんなことは……」
「ドクター、ぐずぐずしていると、彼の方が待てなくなって会ってくれなくなっちゃいますよ?」
「で、でも、まだそんなに会ってないし……」
と言ったものの、アメリカに戻ってから会った回数は、6回……7回くらいだろうか。案外会っている。
ぐずぐず……しているだろうか。
勿体ぶってるわけではない。
20年も続いた恋心があっさり覆るなんて、まるで20年分の自分を否定するようで足踏みしてしまうだけ。
それに重い恋心を向けることにまだ迷いがあるだけだ。
それに加えて、最近ナオが前ほどアプローチをしてこない感覚。
おかげで言うタイミングが難しくて、いつ言おうか迷ってる間に、「じゃあまたね」となっている。
(ナオがこっちに帰ってきて、一緒に海に行った時にでも伝えようかな。その時に『尚哉』って名前で呼んじゃおうかな。そうしたらキスされる? 恥ずかしい……)
そんなことを思ってこっそり照れていると――
「ドクター・フジモト、お電話が入っております。何でも、緊急の用事だそうで……アルバート・ブラウンさんという方からです」
ブラウンさんから電話が来るなんて珍しい。緊急の用事って何だろう。
不意に嫌な予感がして胸がざわついた。
「はい、フジモトです」
『あぁ、ドクター……すまない、仕事中に……』
「いいえ、どうかしましたか?」
『落ち着いて聞いてくれ』
「はい?」
『ナオが……』
ブラウンさんのただならぬ様子に、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ナオが……どうかしたんですか?」
『それが……事故に遭ったんだ』
事故? ナオが? それを聞いてすぐに思った。こんなふうにわざわざブラウンさんが電話してくるくらいだ。たぶん、軽い事故ではない。そう思うと身が竦むほどの恐怖がゾワリと込み上げた。
私は震える唇をキュッと結んで、ブラウンさんの話に耳を研ぎ澄ませた。
『駐車場で暴走した車が、ナオの近くにいた小さな女の子の方へ向かってきて……それでナオは咄嗟に子供を庇って……車に撥ねられた』
今、ナオが車に撥ねられたって言った?
ちょっと接触した、ではなくて、撥ねられた?
信じがたい言葉に声を失う。
脳裏にナオの明るい笑顔ばかりが過ぎる。
ドクドクと心臓が重苦しい音を立てていた。
『……――。……――ター? ドクター! 頼むからきちんと聞いてくれ!』
「……はっ、はい! すみません。あの……ナオ……っ……ナオはどうなったんですか? け……ッ……怪我……は?」
喉が締まるような感覚がして声が出しにくく、話すのが難しいほどに声が震えた。
『今、処置をしてる。頭や体をあちこち打ってはいるが、そっちは恐らく大したことはないだろうということだ。それは幸いなんだ。ただ……腕が……』
「え? 腕? 腕がどうかしたんですか?」
『それが……右腕を酷く骨折している』
体からサーッと血の気が引いた。
右腕を酷く骨折って、ちょっと待って……。
「それは……ど……どんな状態なんですか?」
『上腕の、肩と肘の間の骨があるだろう。それを骨折していて、それが……酷い状態で……皮膚の……上に……っ……』
ブラウンさんの震える声で、状況の酷さを悟る。
開放骨折。重傷だ。
しかも右腕……。
(待って……合併症は大丈夫なの? 血流が悪くなれば機能不全や壊死だって……切断だってあり得る。それに雑菌で髄膜炎になるかもしれない。そうなれば最悪、命の危険だって……)
恐怖で歯がカチカチと音を立て、手足が冷えて小刻みに震える。
私の頭の中にはナオの姿が思い浮かぶ。
ピアノを弾く右手、私の頬に触れた右手、私の腕を掴んだ右手、私の頭を撫でてくれた右手、バッグの金具で引っかけてしまった右前腕、ミルクレープを食べさせてくれた右手……。フラッシュ映像のように次々と頭に浮かぶ、ナオの右手……。
輝きを失った私の手とは違って、眩しい音を奏でられる純真な手だ。
あの手がもしも失われてしまったら……ナオはどうなってしまうの?
『――ター? ドクター、聞いてるか?』
カタカタと震える体を自ら抱え込む。
落ち着け。落ち着け。
必死に自分に言い聞かせる。
「は、はい……」
『僕には日本に医師の知り合いなんていない。詳しくもない。あなたが頼りなんだ。ナオの腕を早急にきちんと治してやりたい。いい専門医を知らないか?』
専門医――そう言われて私は一瞬頭の中が真っ白になった。
私自身も日本を離れて長く、知り合いの脳外科医は幾人かいるものの、外傷を専門に学んだ腕のいい整形外科医なんてわからない。ましてピアニストの腕ともなると……。
落ち着け……落ち着け……考えるんだ。
そう思って真っ先に浮かんだのはナオの友人でもあるマサヤだった。
恐らく彼は整形外科医だが、外傷専門かどうかもわからないし、そもそもナオと親しい間柄。ナオの怪我を目の当たりにして、落ち着いて処置できるかわからない。
それならほかに誰か……。
どうしよう……ダメだ、浮かばない。
――しかし、そう思ってから一人だけ何とかしてくれそうな人を思いついた。
「ブラウンさん、少しだけ待ってください。知り合いの医師に連絡を取ってみます」
『ああ、わかった』
電話を切ると、ぐらりと視界が歪む。
一気に目の前が暗くなって、近くのデスクに手をついて体を支えた。
「ナオ……ッ……」
右腕の開放骨折。
ナオはピアニストなのに……。
「ドクター? ナオヤ・タカナシがどうかしたんですか? ……大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
ソフィアが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ソフィア……ちょっとごめんなさい。電話をしてくるわ」
「え、ええ、わかりました」
グラグラと視界が揺れる中、フラフラと医局を離れた。
『彼』ならきっと……。




