08-03.
1ヶ月後――
「ふぅ~……終わった……」
時刻は夜8時半過ぎ。
俺は楽屋に入って大きく息を吐き出すと、堅苦しい服装を解いてソファーに身を沈めた。
ヨーロッパ各国をコンサートツアーで回った後、アメリカへは戻らずに直行で日本へやって来た。
都内で行われた音楽イベントに招待され、演奏を行ったのだ。
(夏海……元気かな)
あまりしつこくない程度に電話をして声を聞いてはいるが、顔が見えないため、その実はわからない。
抱きしめた日の後から、夏海は会っていても妙に目を逸らしたり、上の空だったり、よそよそしさがあったりした。
やっぱり抱きしめたのは進みすぎだったかもしれない。
(参ったな……本格的に嫌われてたらどうしよう……)
ぼんやり過ごすこと数分、楽屋のドアがノックされた。
「裏口にタクシーを呼んである。それに乗ってホテルまで移動するぞ」
アルに声をかけられ、ジャケットと荷物を持って楽屋から出た。
会場を出ると、日本の夏らしいムワッとぬるい空気が体に纏わりついた。
「ナオ、今日の演奏もよかったよ。二曲目、いい仕上がりだったな。ドクターのおかげか?」
裏口にある駐車場に向かう途中のアルの言葉に、チクリと胸が痛んだことは秘密にしたいが……この人にはバレそうだ。
「そうだね……。夏海は俺のビーナスだから。曲もどんどん浮かぶよ」
何となく察したのであろう。アルは俺の肩をポンポンと叩く。
「まぁ、頑張れ。ほかの曲も楽しみにしてるぞ」
「ああ」
裏口から外に出ると、出待ちをしているファンが幾人もいた。日本のファンは温かい。
すると俺の元にチョコチョコと子供が近づいてきた。6歳か7歳ぐらいに見える女の子だ。
それに気づいたアルが、俺の前に出て女の子を制す。
「No, no, no. Please――(ダメダメダメ。悪いけど――)」
「アル」
今度は俺がアルを制した。
こんな小さな女の子に危険なんてない。
それになんだかこの子……。
俺はフッと笑ってその子に話しかけた。
「どうしたの?」
「たかなしなおやさん、ピアノカッコよかったです」
緊張しながらも照れた様子で小さな花束を差し出す女の子がかわいい。
ジャケットと荷物を置いてしゃがみ込み、目線を合わせて花束を受け取る。
「どうもありがとう」
夏海が小さい頃はこんな感じかなぁ、なんて思う。
全くの他人だろうけれど、そんなことを彷彿とさせる目の前の女の子に、ちょっと気持ちが緩むのを感じた。
「君もピアノを弾くの?」
「うん。あのね、りなは、トルコこうしんきょくをれんしゅうしてるの」
「そっか。じゃあ、りなちゃん、いつか一緒に弾けたらいいね」
「うん!」
バイバイ、と手を振って、少し離れたところで見守っていた母の元に戻ろうとする少女。
すると突然、急発進するようなけたたましいタイヤのスリップ音が耳に入る。そして唸るようなエンジン音をたてた車が、後ろ向きに猛スピードでこちらへ向かって来るのが見えた。
え? これ、ヤバいんじゃない?
そんなふうに妙に落ち着いた頭で考えた時には、もう俺の体は動いていた。
『ナオは素晴らしいピアニストなんだもの。自分を大事にしなくちゃダメよ』
あーあ……また夏海に怒られるかな。
でも小さい子を守ったって言ったら、怒らないでくれるよね、夏海。
――ん?
俺……何を……?
「ナオ! あぁっ……なんてことだ……。誰か! 誰か早く救急車を!」
アルの英語の叫び声が、ぼんやりと頭の中に響く。
何を言っているのかボーッと考えるものの、いまいち頭が働かない。
それにしても、聞こえてくる音がいつもよりユラユラと反響して聞こえるのはなぜだろう。
周囲の音が妙に耳障りだ。
薄く開いた視界に映るのは……アスファルト?
体を起こそうとしても、妙に重くて動かない。
「莉奈!? 莉奈ーーッ!」
女性の悲痛な叫び声が聞こえて、少しずつ頭が冴えてくる。
誰の声……? りな……?
ふと、俺は胸元に温かさを感じる。胸元を見ると、霞む視界に幼い少女が見える。
あぁ、そうだった。この子が――
「りな……ちゃん……?」
そう声をかけると、びっくりした顔をして固まっていた少女は、途端にワーッと泣き出した。
それをきっかけに何となく思い出す。
あぁ、そうだ……車が……。どうにか助けられたみたいだ。どこも怪我をしてないといいんだけど……。
少しだけホッとしたのも束の間、少女を解放しようと右腕を動かそうとしたのに、なぜだろう……鉛のように重くて動かない。
ぼやけた視界で自分の右腕を確認すると、白いはずのシャツがドロリとした深紅色に染まっているのが見えた。
いや、それだけではない。
急に意識がはっきりとしてきて、目の前の惨状に一気に血の気が引いて体が震えた。
(えっ……? ……何? ……何だよ……これ)
浅く繰り返される自らの荒々しい呼吸音だけが、俺の脳内に響き渡る。
だらりと力なく垂れ下がる右腕。
ぬっと表出する鋭利な骨幹。
それを意識できた瞬間、俺は息を詰めてギリッと歯を食いしばる。
右腕が焼け付くほどの熱を持ち、ドクドクと脈を打つような激しい痛みに襲われた。
そして一度痛みとして知覚されると、それはもう止まることなく右腕を燃やし尽くすかのように容赦なく襲いかかる。
「……ぅぐ……ッ、うあぁぁ……ッアァァーー……ッ……!」
のたうち回るほどの激痛が体の全てを支配し、俺の心の中から光を奪い去っていく。
暗い闇へと、俺は、深く、深く、落ちていく。
闇が、俺の心を覆い尽くしていく……。
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