08-02.
十代の頃から、俺は恋に対してどこか冷めた目で見ていた。
かの著名な作曲家たちは恋に奔放。好んで曲を弾くフランツ・リストも『美男子』として有名で、お世辞にも女癖がいいとは言えない人物だったらしい。
そう学んだのは12歳の時。
そこに両親の離婚が重なればもう、恋心どころか家族愛すらよくわからなくなった。
恋愛も結婚も、自分の中で何の重みもなく、幻想・錯覚・私欲・利害――そういうものだと考えていた。
だから恋に恋してるような人たちを冷めた目で見てしまう。
どうせそんな気持ちは一瞬の幻だ。
『小鳥遊尚哉』の名前に近づいてくる女性には興味がない。
近づいてほしいのは、素の俺に一途で深い愛を向けてくれる人。
簡単に壊れたりしない『真実の愛』を築いてくれる人。
『永遠の愛』を誓える人。
俺が欲しいのはそんな人だ。
でもそんな理想的な愛情を持つ人なんていないし、俺の重い愛情を受け入れてくれる人もいないだろう。そう思っていた。
だから5年前「本当に長い間片想い」と言っていた夏海の顔が、そして子どもみたいに泣く夏海の顔が、今もずっと焼き付いて離れない。
長く相手を思い続けるナツミ・フジモトという、輝きに満ちた人を知りたくなった。
その光に近づきたくなった。
“この一途さがもしも自分に向いたなら、どんなに幸せだろう”
疑念しか抱いていなかった恋心というものが、途端に憧憬の対象に変わった。
夏海の20年にわたる恋の話を聞いて気づいたことがある。夏海には愛おしい気持ちとは別の気持ちも抱いていた。
「ねぇシンタニ……『かわいそう』とはちょっと違うんだけど……見てると悲しくて痛くて、でも好きで、苦しくてどうしたらいいのかわからない感じ。英語だと……Bittersweet(ほろ苦い)? なんか足りない感じ。ちょうどマッチする言葉が出てこないんだよね。ねー、こういうのって日本語では何て言うの?」
国語教師のシンタニに聞いたら教えてくれた。
「そういうのは、『切ない』って言うんだよ」
「セツナイ?」
「そう。『大切』の『切』の漢字を使って『切ない』って言うんだ。『心が切れるほどの想い』だから、『切る』っていう漢字を使うんだよ」
心が切れるほどの想い……。
あぁ、そうかもしれない。夏海の失恋の話を聞いた時、何度もそんな気持ちになった。
好きな人が苦しんでいるのを見て、心が千切れそうなほどに痛かった。
何もできないことが悔しくて悔しくて……。
「切ない、か……」
この心の痛みがあるからこそ、夏海に深い愛情を向けたくて仕方がない。
夏海が苦しまなくてもいいように、ずっと笑っていられるように……。
だから――
(夏海……叶わない相手じゃなくて、こっちを向いてよ。丸ごと受け止めるから、深くて重い愛を、俺だけに向けて?)
そう願った。
そして空っぽだった俺の愛情の器を、この人で一杯に満たしたくて仕方がなくなった。
夏海のリクエストどおり、ピアノを弾くことにした。
リストの『Liebesträume』No.3。日本語で『愛の夢』。
超絶技巧で有名なリストだが、この曲は技巧よりも美しいメロディーが特徴だ。
そばに立つ夏海を時折視界に入れながら、思いを込めてゆったりとしたメロディーを奏でていると、夏海が泣いていることに気付いた。
どうして泣くのか、何を思って泣いているのかは、何となく予想が付いた。あの人のことを思っているのだろう。
未だに夏海の心の多くを占めるのは弘臣という人。
俺には立ち入ることのできない部分に、夏海はあの人を抱いたままだ。
20年という長く切ない時間をひたすら一人を思って過ごした夏海の心は、そう簡単に動くものではないと最初に話を聞いた時に悟った。
悟ったのだが……夏海を目の前にすると、余裕なんてどこにもなくなる。
泣いている夏海を慰めたくて抱きしめたが、夏海は気持ちが落ち着いた頃にパッと離れていってしまった。
恋人同士のような関係を夏海は俺に求めていないのだから当然だろう。
そういうことを求めているのはただ一人。20年も思い続けたあの人だけ。
(抱きしめたのは進みすぎだったかな……)
夏海が帰って静まり返る家の中で再び溜息をついて思う。
俺の気持ちになかなか気づかない夏海のことを、最初は鈍感な人だと思っていた。
でも思い返せば、夏海は弘臣さんの気持ちにはつぶさに気付いていたようだ。
つまりは、興味を持った相手の気持ちにしか敏感になれないのではないか。
その結論は、心に暗い影を落とした。
(俺の気持ちに気づかないのは、俺に興味がない印ってことだ……)
そう考えると気持ちが深く沈んでいく。
初めて知る、片想いの苦しみ。アプローチへの手応えの無さ。
こういう状態を、日本語では確か……そう、ドクターが言いそうな怖い言葉。……あぁそうだ、と思い出してボソッと呟く。
「ミャクなし、だ」
夏海の気持ちが自分に向かないまま会っている現状。
これ以上一方的に思いをぶつけることに、俺は躊躇いを感じ始めていた。
あまりしつこいと嫌われてしまうかもしれない。嫌われるのだけは絶対に避けたい。
このまま進んでいい時なのか、止まるべき時なのか、今は押す時なのか引く時なのか、判断する術はない。
(あー……どうしようかな……)
こうやって答えが見えずに迷った時は、ピアノに助けを求める。
俺は防音室のピアノに向かった。
何を弾こうか、と考えて思い出す。
(あぁ、そうだ。依頼されたデモ音源を作らなくちゃ……)
虚しいことに、曲を作るには今のような気持ちのほうが冴え渡る。恋い慕う一途な気持ちを曲に込めるのだ。
今の状況が、切なさのこもった淡い音を奏でるのに最適、というのは、どこまでも皮肉としか言いようがない。




