08-01.
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〈sideナオ〉
夏海が帰ったあと、俺はソファーに座って溜息を零した。
夏海が長年片想いをしてくれていたおかげで、今回俺にもチャンスが巡ってきたわけだが……今日の様子からすると、俺の想いの半分も届いていないのではないだろうか。
夏海が来る前の午前中、近くのスイーツショップを数軒巡ってドーナツ・カップケーキ・ミルクレープを買ってきた。
恐らく夏海は甘いものが好きだ。そう確信していたからだ。
(夏海、喜んでくれたらいいな……)
コンクールの舞台でも緊張しないのに、夏海のことを思うと不安で仕方がない。
「カフェオレに最適なコーヒー豆がほしい」
コーヒーショップのスタッフにそう伝えると、カフェオレに向いているコーヒー豆を選んでくれた。
夏海は恐らく甘くてミルキーなカフェオレが好きだ。ブラックなんて無理して飲んでいるだけで、本当は好きではないことは顔を見ればわかる。
どうして無理して飲んでいるのか、理由が少しだけ予想が付いて溜息が溢れた。どうせ長年の片思い相手が関わっているに違いない。
せめて俺の前では緩ませてあげたい。そう願う。
家に戻ると、まだ夏海が来るまでに時間があり、待ちきれない気持ちを落ち着けるためにピアノに向かった。
鍵盤に指を置くと、柔らかに軽やかに、そして愛しい人への思いを込めながらピアノを奏でていく。
夏海を思って作ったこの曲は、昨日おおよその形ができたばかりだ。
タイトルもほぼ決まっている。あとは細かな調整を残すのみだ。
……あぁ、ここはもっと凜とした強さを出したいな。ここはもっとキラキラ輝かせたい。
夏空で輝く太陽のように。
弾き終わったタイミングでちょうど夏海が訪ねてきた。
今弾いていた曲を聴いていたらしく、曲のタイトルを問われ……ドキリと心臓が跳ねた。
まだ言えない。怒るか引くか、そのあたりの反応しか想像が付かないからだ。
いつか伝えられるだろうか。
それはきっと夏海が名前を呼んでくれる時。
重くて深い俺の愛を受け入れてくれる時。
医師の時、いつもキリッとしていてかっこいい夏海は、どうやらハニーミルクティーなんていうかわいらしい飲み物が好みらしい。
素直じゃない夏海は、そんな好みを必死に隠したかったようだが、隠せなくて白状した時の夏海の照れた顔といったら……恋心にゲージがあるなら、振り切りすぎてパンッと弾けていたに違いない。
夏海の新たな一面を知って、心躍る自分を必死に抑えた。
次に夏海が来る時には、蜂蜜にもミルクにも紅茶にもこだわって、夏海が喜んでくれるようなハニーミルクティーを用意しよう。
そんな甘党の夏海には、やはりスイーツを用意して正解だった。
「Open wide (あーん)」
フォークを差し出すと、夏海の艶っとしたセクシーな唇がパッと開く。
想像していたよりずっとクるものがあった。
パーツで言うと、俺は夏海の唇がかなり好きだ。
ぽってりとしていて柔らかそうで、見ているとキスしたくなる……というより食いたくなる。
ドクドク鳴る心臓を抱えたまま夏海を見つめていると、追い打ちをかけるように夏海のとんでもない一撃……いや、二撃が飛んで来た。
「ん~っ! おいひぃ。何これ、感動! いくらでも食べられそう」
「ん~っ、こっちも好き~! ナオ! チョコの方もすっごく美味しいよ」
いつもより声が高く、目もウルウルだった。
顔が緩んでいる上に、無邪気が上乗せ。
なんっっだこの無防備なかわいさは。
その調子で「ナオも好き~」なんて言われたら、もれなく昇天してしまいそうだ。
普段キリッとしているだけに、ギャップが大きすぎる。
食べてる時の夏海、危険。
5年前、病院で夏海が、祖母くらいの年の患者と廊下で話しているのが聞こえてきた。
「ドクターはお忙しそうね。恋人は? 結婚は?」
「いいえ、恋人はいませんよ。結婚もしてません」
へー、single(独身)なんだ……。ふぅん……。
それを聞いて少し嬉しかった。
「あら、うちの孫なんてどう? この間来た時にあなたのことを気にしてたわ。真面目で良い子なのよ」
すると夏海は何一つ迷うことなく、フッと笑って答えた。
「素敵なお話ですが、ごめんなさい。好きな人がいるんです」
「まぁ、そうなの?」
「ええ、もうずっと。本当に長い間片想いなんですよ」
「ほら、やっぱりうちの孫にしたらいいわよ」
へー、片想い。ずっと。ふぅん……。
その相手を思うと、ちょっと羨ましくて苛立つ自分がいた。
キリッとしたクールなこの人に好かれるってどんな気分だろう。
好きな人にはどんな顔を見せるのだろう。
この整った顔が、溺れて欲して崩れるところを見てみたい。
この時に抱いていたのは、決して小綺麗な気持ちではなく、情欲に近かったと思う。
でも、いつも姿勢よく凜としてかっこいい夏海は、泣く時だけは小さな子どもみたいだった。
縮こまってキレイな顔をくしゃくしゃにして、ワーンと声を上げながらポロポロと惜しげもなく涙を溢す。
その飾らない姿は、5年前に目にした時から頭に焼き付いて離れない。
肉欲的なイメージを持っていた夏海に対して、一気に純粋な気持ちに変わったのはその時だった。
だから夏海の泣いている姿はちょっと特別なものがある。
『泣いている夏海も大好きなんだ』なんて伝えたら、怒られる予感しかしなくて伝えていない。
でも、どうせ泣くなら、ほかの人を思って泣いているのは嫌だな。
『俺のことで泣かせたい』なんて伝えたら、もっと怒るんだろうな。
前に「ナオの嫌いなものって何?」と聞かれた時、「夏海の悲しい涙」と答えた。
それが半分噓だったのは秘密だ。
誰かのために流す悲しい涙は確かに嫌いだ。
でも、俺のために流す悲しい涙なら……。
悲しみの涙すらも愛したいこの強欲を、夏海なら受け入れられる?
あぁぁ……ついに第八楽章になってしまった……。
お届けするのが苦しい第八楽章。
しかし、避けては通れない第八楽章。
少々残酷な表現が含まれますのでご注意ください。




