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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第八楽章 深紅に染まる

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08-01.


*-*-*-*-*


〈sideナオ〉


夏海が帰ったあと、俺はソファーに座って溜息を零した。

夏海が長年片想いをしてくれていたおかげで、今回俺にもチャンスが巡ってきたわけだが……今日の様子からすると、俺の想いの半分も届いていないのではないだろうか。


夏海が来る前の午前中、近くのスイーツショップを数軒巡ってドーナツ・カップケーキ・ミルクレープを買ってきた。

恐らく夏海は甘いものが好きだ。そう確信していたからだ。


(夏海、喜んでくれたらいいな……)


コンクールの舞台でも緊張しないのに、夏海のことを思うと不安で仕方がない。



「カフェオレに最適なコーヒー豆がほしい」


コーヒーショップのスタッフにそう伝えると、カフェオレに向いているコーヒー豆を選んでくれた。

夏海は恐らく甘くてミルキーなカフェオレが好きだ。ブラックなんて無理して飲んでいるだけで、本当は好きではないことは顔を見ればわかる。

どうして無理して飲んでいるのか、理由が少しだけ予想が付いて溜息が溢れた。どうせ長年の片思い相手が関わっているに違いない。

せめて俺の前では緩ませてあげたい。そう願う。


家に戻ると、まだ夏海が来るまでに時間があり、待ちきれない気持ちを落ち着けるためにピアノに向かった。

鍵盤に指を置くと、柔らかに軽やかに、そして愛しい人への思いを込めながらピアノを奏でていく。

夏海を思って作ったこの曲は、昨日おおよその形ができたばかりだ。

タイトルもほぼ決まっている。あとは細かな調整を残すのみだ。

……あぁ、ここはもっと凜とした強さを出したいな。ここはもっとキラキラ輝かせたい。

夏空で輝く太陽のように。

弾き終わったタイミングでちょうど夏海が訪ねてきた。

今弾いていた曲を聴いていたらしく、曲のタイトルを問われ……ドキリと心臓が跳ねた。

まだ言えない。怒るか引くか、そのあたりの反応しか想像が付かないからだ。

いつか伝えられるだろうか。

それはきっと夏海が名前を呼んでくれる時。

重くて深い俺の愛を受け入れてくれる時。


医師の時、いつもキリッとしていてかっこいい夏海は、どうやらハニーミルクティーなんていうかわいらしい飲み物が好みらしい。

素直じゃない夏海は、そんな好みを必死に隠したかったようだが、隠せなくて白状した時の夏海の照れた顔といったら……恋心にゲージがあるなら、振り切りすぎてパンッと弾けていたに違いない。

夏海の新たな一面を知って、心躍る自分を必死に抑えた。

次に夏海が来る時には、蜂蜜にもミルクにも紅茶にもこだわって、夏海が喜んでくれるようなハニーミルクティーを用意しよう。


そんな甘党の夏海には、やはりスイーツを用意して正解だった。


「Open wide (あーん)」


フォークを差し出すと、夏海の艶っとしたセクシーな唇がパッと開く。

想像していたよりずっとクるものがあった。

パーツで言うと、俺は夏海の唇がかなり好きだ。

ぽってりとしていて柔らかそうで、見ているとキスしたくなる……というより食いたくなる。

ドクドク鳴る心臓を抱えたまま夏海を見つめていると、追い打ちをかけるように夏海のとんでもない一撃……いや、二撃が飛んで来た。


「ん~っ! おいひぃ。何これ、感動! いくらでも食べられそう」

「ん~っ、こっちも好き~! ナオ! チョコの方もすっごく美味しいよ」


いつもより声が高く、目もウルウルだった。

顔が緩んでいる上に、無邪気が上乗せ。

なんっっだこの無防備なかわいさは。

その調子で「ナオも好き~」なんて言われたら、もれなく昇天してしまいそうだ。

普段キリッとしているだけに、ギャップが大きすぎる。

食べてる時の夏海、危険。


5年前、病院で夏海が、祖母くらいの年の患者と廊下で話しているのが聞こえてきた。


「ドクターはお忙しそうね。恋人は? 結婚は?」

「いいえ、恋人はいませんよ。結婚もしてません」


へー、single(独身)なんだ……。ふぅん……。

それを聞いて少し嬉しかった。


「あら、うちの孫なんてどう? この間来た時にあなたのことを気にしてたわ。真面目で良い子なのよ」


すると夏海は何一つ迷うことなく、フッと笑って答えた。


「素敵なお話ですが、ごめんなさい。好きな人がいるんです」

「まぁ、そうなの?」

「ええ、もうずっと。本当に長い間片想いなんですよ」

「ほら、やっぱりうちの孫にしたらいいわよ」


へー、片想い。ずっと。ふぅん……。

その相手を思うと、ちょっと羨ましくて苛立つ自分がいた。

キリッとしたクールなこの人に好かれるってどんな気分だろう。

好きな人にはどんな顔を見せるのだろう。

この整った顔が、溺れて欲して崩れるところを見てみたい。

この時に抱いていたのは、決して小綺麗な気持ちではなく、情欲に近かったと思う。


でも、いつも姿勢よく凜としてかっこいい夏海は、泣く時だけは小さな子どもみたいだった。

縮こまってキレイな顔をくしゃくしゃにして、ワーンと声を上げながらポロポロと惜しげもなく涙を溢す。

その飾らない姿は、5年前に目にした時から頭に焼き付いて離れない。

肉欲的なイメージを持っていた夏海に対して、一気に純粋な気持ちに変わったのはその時だった。

だから夏海の泣いている姿はちょっと特別なものがある。

『泣いている夏海も大好きなんだ』なんて伝えたら、怒られる予感しかしなくて伝えていない。

でも、どうせ泣くなら、ほかの人を思って泣いているのは嫌だな。

『俺のことで泣かせたい』なんて伝えたら、もっと怒るんだろうな。


前に「ナオの嫌いなものって何?」と聞かれた時、「夏海の悲しい涙」と答えた。

それが半分噓だったのは秘密だ。

誰かのために流す悲しい涙は確かに嫌いだ。

でも、俺のために流す悲しい涙なら……。

悲しみの涙すらも愛したいこの強欲を、夏海なら受け入れられる?


あぁぁ……ついに第八楽章になってしまった……。

お届けするのが苦しい第八楽章。

しかし、避けては通れない第八楽章。

少々残酷な表現が含まれますのでご注意ください。

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