07-05.
スイーツタイムを終えると、ナオは不意に立ち上がって伸びをする。
「よーし、夏海のためにピアノを弾くよ」
「うん。嬉しい」
私がリクエストをしたから、今日はここに招いてもらったのだった。
「何を弾こう?」
せっかくだから「すぐそばで見たい」と伝え、鍵盤蓋を開けるナオのそばに近づく。
「ナオは、好きな曲ってあるの?」
「うーん、いろいろ弾くけど……リストとかラフマニノフとか難しくて好き」
ラフマニノフはよく知らないが、もう一人のリストは確か、ソフィアの口から聞いた人物だ。
そういえば、ソフィアがナオのことを『リストの生まれ変わり』と言ってたっけ。超絶技巧? そんなことも言っていた。
「難しいのが好きなの?」
「うん。『弾けるものなら弾いてみろ』っていう感じの Score(楽譜)が好き」
ふわふわしてるようで、案外負けん気が強いのだろうか。そしてそれを弾く技術も持ち合わせているということだ。
プロのピアニストなんだな、と改めて思う。
こうして普段の様子を見ていると、そこまで凄い人には見えないんだけど……。
「じゃあ、そういうので、私が好きそうな素敵な曲を弾いて?」
「そうだなぁ……じゃあ、メジャーな曲にしようか。リストの『Liebesträume』No.3」
「Liebesträume……愛の夢?」
「うん、そうだね」
曲名は何となく聞いたことがあるような……。でもどんな曲かは浮かんでこなくて首を傾げた。
「メジャーな曲……よね?」
「うん。聴いたことがあるんじゃないかな」
ナオはニコッと笑うと、ピアノを弾き始めた。
するとすぐに気づく。あ、この曲知ってる……。
ただ、それは伝えずに心の中で思うに留めた。
この人がピアノを弾く姿は、邪魔をせずにただただ見ていたい。
ただひたすらに、この輝く音を体に纏い、包まれていたい。
ピアノを弾くナオは、普段のニコニコした柔らかな表情とは打って変わって硬い表情で、普段見ているナオとは全く別人の硬派な男性という感じだ。
かっこいいな、と素直に思う。
そしてピアノに向ける視線は色っぽく、滑らかな肢体の動きは芸術的にさえ映る。
ナオ自身がピアノに溶け合うように、曲に溶け合うように一体となり、その音は心の奥深くまで染み入ってくる。
それにしてもこの曲……泣き出したくなるほど切なくて、胸が締め付けられるようだ。
ピアニストとしてのナオの才能ゆえなのだろうと思う。
音にナオの感情が乗る。
その音が、私の感情を揺さぶる。
音楽を聴いて泣いたことなんてなかったのに、ナオのピアノは聴くたびに泣きたくなる。
心を惹きつけられてやまない。
こんなふうになるのはナオのピアノだけだ。
しばらくして『愛の夢』を弾き終えると、ナオは困ったような顔で微笑んで私を見つめる。
「夏海……抱きしめていい?」
「な、何よ。今さら聞くの? 散々勝手に抱きついてきたじゃない」
ピアノを聞いてボロボロに泣いてる自分が恥ずかしくて、涙をグイグイ拭いながらかわいくない言葉が口をついて出る。
「違うよ。そういう軽いハグじゃなくて、ちゃんとってこと」
答えられずに黙って俯いていると、ナオは椅子から立ち上がってそばに来る。
「変な意味じゃないよ。夏海が泣いてるからヨシヨシしたいだけ」
確かに今は、そういうのが恋しい気分だ。
目を逸らしながらも首を縦に振ると、優しくナオの腕に包まれる。
すると必死に堰き止めていたゲートが決壊したみたいに、ブワッと涙が溢れ出た。
トントンと背中を優しく撫でられると、泣いていいよと言ってくれてるみたいで余計に泣きたくなる。
「夏海は泣いてもかわいいね」
「……こんなぐちゃぐちゃなのに、そんなわけないでしょ」
こんなふうに悪態をついているのに、ナオはクスッと笑って何度も「ううん、かわいいよ」と言ってくれた。これも、リップサービスではないと思っていいのだろうか。
「ねえ夏海、知ってる曲だった?」
「うん」
「何か思い出の曲だから泣いてるの?」
「違うわ。ただ聴いてるだけで泣きたくなったの」
「そっか」
「ナオのピアノは……どうしてだかダメなの」
「ダメ?」
「泣きたくなる」
するとナオがフッと笑って告げる。
「Music should strike fire from the heart of man, and bring tears from the eyes of woman(音楽とは、男の心から炎を打ち出すものでなければならない。そして女の目から涙を引き出すものでなければならない)」
「……え?」
「ベートーヴェンの言葉だよ」
それを聞いて、思わずフッと笑う。
「まさに今がそう? 私の目からは涙が出てるけど……じゃあナオの心からは炎が出てるの?」
「うん。メラメラゴウゴウだよ。でも泣きたくなるなら……夏海は俺のピアノ嫌い?」
「ううん……苦しくなるけど……好き」
そう伝えると、ナオの抱きしめる腕にグッと力が入った。
「ありがとう。嬉しいよ。俺、夏海にもっと好きになってもらえるピアニストになるよ」
「私一人じゃなくて、世界中の人に愛されるピアニストになってよ。……あ、もうなってるか」
「俺はね……夏海一人に好きになってもらいたいんだ。頑張る」
「頑張る方向がおかしいわ。どう考えても世界中の人に愛される方が大事だもの」
そう言ってもナオは何も答えなかった。
抱きしめられてしばらく経つと、だんだん泣きたい気持ちが落ち着いてきた。
……と同時に、ナオの温かさを感じる。
ドキドキするのに穏やかな気持ち。
とても不思議な感覚だ。
『子犬ちゃん』なんて言ってるけれど、すっぽりと包んでくれる安心感はやっぱり大人の男性だなと思う。
もうナオには何度泣き顔を見られているだろう。
不思議と、ナオの前では素の自分でいられるのだ。
優しくて柔らかな声と逞しい腕に包まれていると、年下なのに甘えたい気持ちになる。
抱きしめられることが嫌ではない。
ナオの体温はホッとする温かさで、とろけるように全部を委ねたくなる。
とても心地がいい。
同時に、ナオにも体を委ねてほしいとも思う。
ナオにギュッとしてもらって、私からもギュッと抱きついて、溶け合うみたいにぴったりとくっ付いたら、この上ないほど幸せなのではないだろうか。
今は置き場に困ってナオの胸に置いているだけの手を、ナオの背中に回したら、もっとギュッとしてもらえて、そうしたらもっと私からも抱きついて、もっと幸せな気持ちに――
……あぁ、そうか。もうずっとこんな気持ちを忘れていたけれど……20年の片想いの間にぐちゃぐちゃに歪んでしまったけれど……恋心の本質はこういうものだったかもしれない。
一緒にいられるだけで幸せを感じるもので、ボーッと惚けてしまいそうなほどにうっとりと心地よいもので、ドキドキするけれど、温かくて柔らかくて優しい気持ちで満たされる。
そして今、そんな気持ちをナオに対して抱いて――そう思って私はハッと目を見開いた。
自覚すると一気に恥ずかしさが込み上げてきて、私はナオの胸をグイッと押し、慌ててナオから離れた。
「……ねぇナオ、ほかの曲も弾いて? 聴きたい」
気まずさを隠すように俯いてそう言うと、ナオの優しくて、少しだけ憂いの混じった声が耳に届く。
「うん、わかったよ……夏海」
頭を撫でるナオの右手がフワッと優しく温かで、また泣きたい気持ちになった。
「じゃあ次は、夏海の元気が出そうな曲を弾こうかな」
優しく微笑むナオをまともに見られなくて、俯いて小さく答えた。
「うん」
ナオの気持ちを真っ直ぐ受け取って、ほんの少し素直になるだけで簡単だった。
甘い甘い蜂蜜みたいなナオに、私はずっと包まれたい。
そして私もナオを、彼が望むように包んであげたい。
私は、この人のことが……好き。




