06-05.
「夏海?」
涙を誤魔化したくて、私はあえて明るく振る舞う。
「そんなふうに言ってもらえると気持ちが楽になるわ。ありがとう。まあでも、ちょっと早くセカンドキャリアを考えるというだけのことだから平気よ」
「セカンドキャリア?」
「うん。脳外科医は緻密で長時間に及ぶ手術が多いの。だから生涯現役は難しい。新しい道を早めに模索するほうが将来的にはいいのよ。きっと『今こそ道を見直しなさい』っていう神様からのお告げなのよ」
「ふぅん。新しい道はどういうの?」
「そうね……術後のケアをするリハビリテーション科専門医、内科にシフトして一般病院の医師、開業医、研究医……いろいろね」
何となく希望している道はある。
ただ、道を変えるにはこれまでのキャリアを捨てるほどの覚悟と勇気がいるため、踏み出すのは容易ではない。
「そっか……」
「どの道を選ぶにしても、日本に帰ろうかなって思ってる」
「えっ、帰るの? そうしたらずっと日本? 俺と離れ離れ?」
「そう……なるわね。でもほら、一緒にいられなくても、心はレモンに溶けた砂糖みたいにそばにいてくれるんじゃないの?」
バーでナオが言ったことを真似してフフッと笑うと、ナオは不満と悲しみを織り交ぜたような顔をした。
「まだ何年か先なんだから、そんな顔しないで」と補足すべきだろうけど……ちょっと悪戯心が湧く。
寂しそうにするナオがかわいらしいのだ。
だからあえて言わずにナオを見つめた。
ニヤけてしまいそうな顔を必死に堪えながら。
「ねえ、ナオはいつからヨーロッパへ行くの?」
するとナオは不満と悲しみを滲ませたままの表情で、ポツリと口を開く。
「明日」
「……えっ? あ、明日?」
「うん、明日」
こんなふうにゆっくり会ってくれているぐらいだから、もう少し先だと思っていた。
それなら会えるのは今日だけ?
ヨーロッパ各地を回るって、どのくらいの間アメリカを離れるのだろう。月単位だろうか。
そう思うと想像以上に寂しさが込み上げてくる。
「そ、そう……なのね。……あ……えっと……」
仕事なのだから「いってらっしゃい」と告げて送り出そう。
そう思うのに言葉が出なかった。
「夏海……寂しい?」
心臓がドキッと激しい音を立てた。「図星」と言わんばかりだ。
違う、そんなんじゃない。
だいたい、私はそんなことを言える立場にもない。
「う、ううん、別に。忙しいのに、今日会ってくれてありがとう。……い、いってらっしゃい」
よし、言えた。ちょっと声が震えたけど。
ナオの顔は見ないようにしよう。涙目なのがバレそうだから。
そう思って顔を背ける。こんなにも泣きたい気分になる理由。
強がってみたものの、結局寂しいのだ。
この寂しさは、執着なのか依存なのか、どこから来るものなのかはわからない。
でも最初に日本で会った時から3ヶ月間離れて過ごし、ようやくナオに再会できた。
それだけに、もう少しそばにいてナオという人を知りたかったというのが本音だ。
「夏海」
ぽつりと呼ばれた私の名前。
そして腕を引かれて、そっとナオの胸に抱き寄せられた。
私を包む腕は、真綿のようにやさしい。
「なっ、何よ、急に……」
その拍子にちょっと涙が溢れたけれど、腕の中にいればバレないはずだ。今のうちに早く涙を引っ込めよう。
そう思って、寂しさを追いやって気持ちを立て直す。
ところがそうしている間にも、ナオに顎をクイッと持ち上げられる。
体よく隠せたつもりの涙が、結局ナオの目に晒された。
「あっ、やめて。放して」
「あーー……ごめん夏海。俺、失敗した」
「な、何が?」
「夏海が全然俺と離れることを寂しがってくれないから、ちょっと意地悪したくなったんだ」
「……何よそれ」
困惑しながらナオに問うと、ナオは苦笑いを返した。
「ごめん。ヨーロッパに行くのは1ヶ月あとだよ。しばらくはこの間のホールで定期公演」
それを聞いた時のこの気持ちは何だろう。
喜び? 拍子抜け? 苛立ち?
なんだかよくわからないごちゃまぜの感情が押し寄せてきて、決壊したように涙が零れた。
「明日じゃ……ないの?」
「まだ行かないよ」
「酷……っ、ナオの嘘つき」
「ごめんね。俺、意地悪した」
優しくナオにハグされても腹が立って、ナオの胸をグイグイと手で押す。
それでも離してくれないから、今度はバシバシと叩いた。
「ナオ、離して! 嫌い!」
「うっ……それは言わないで」
私は涙目のままナオを睨むように見上げる。
「ナオの嫌いなものって何?」
「……どうしたの、急に」
「いいから答えて」
「嫌いなもの? うーん、夏海の悲しい涙……なーんて」
「ふぅん。じゃあ、今度嘘を言ったら、ナオの前で大泣きしてやるんだから」
「えー」
「ナオが引くくらい、困るくらい大泣きする。年甲斐もなくわんわん泣く」
「それは、ただかわい――……」
「え?」
「ううん、何でもない。わかった。もう嘘言わないから」
困り顔で眉尻を下げるナオに、私は念を押すように問う。
「本当に、明日ヨーロッパに行ったりしない?」
「しない」
「今度は本当の本当?」
「うん。夏海の涙に誓うよ」
またナオのペースに呑まれているようで悔しくて、ナオのことを思い切り睨もうとした。
でも――あぁ、またこの顔だ。ナオは私を見つめて優しく微笑んでいた。まるで、心から愛おしい人を見るかのよう。
勘違いしたくないのに……。
「ナオのバカ」
「ごめんね」
ナオと離れることを寂しく思った自分。
ヨーロッパへ行くのは1ヶ月先だと聞いてホッとした自分。
私は一体ナオとの関係をどうしたいのだろう。20年積み重ねた弘臣への思いは未だに確かに存在するのに、少しずつナオの占める割合が大きくなっているような気がする。
私の気持ちが動いているというよりは、ナオがグイグイ入り込んで、気持ちのゲージをどんどん染めていく。
存在感を示すから、ついついその存在を意識してしまうという感覚だ。
「ナオは……強引ね」
そうボソッと呟くと、ナオが首を傾げる。
「Go in? 俺、ペナルティーでどこか入る?」
「入らなくていいわよ!」
あーもう……。とんちんかんなナオのおかげで、いろんな気持ちがあっという間に吹き飛ぶわ。
でも悔しいから笑ってる顔なんて見せてあげない。
ひたすらに不貞腐れた顔を作るのみよ。
そう思うのに――
「あーあ、ここまで登ってきたら、俺、お腹すいてきちゃったな」
「えっ!? あんな大きいサンドを食べたじゃない!」
「足りなかったよ。もう一本くらいヨユーで食べられるよ」
「……底なしね。どんなお腹の作りしてるのよ」
「タカノに四次元ポケットって言われたよ」
あぁ、ダメだわ。
この人、おかしくて笑っちゃう。




