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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第六楽章 真綿のような人

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06-04.


日本語で話すと『いっぱい人がいても秘密の話ができて楽しいよ』とナオが言っていたことを思い出す。

確かに少し特別感がある。

ナオと私だけの、パーテーションで区切られた空間のようなものが存在する感覚。

それがちょっとくすぐったいようなソワソワするような気分。

私はナオと手を繋いだまま、その場に居続けることにした。


ナオと女性二人が英語で会話を交わす様子を傍目に見つめていて気づく。

オリヴィアと呼ばれているラテン系の女性は、恐らくナオのことが好きなのだろう。

恋する乙女の目をしている。

そうとなれば私の存在は邪魔でしかないはず。

ただ、それとは別に気になることがある。

ナオに何か違和感を覚えるのだ。


「――ところで、ナオはここで何をしているの?」


エミリーと呼ばれるヨーロッパ系の女性が問うと、ナオは――


「その質問には答えられない」


そう冷淡に告げる。


「もうっ、少しくらい教えてくれてもいいじゃない。じゃあ、そちらの方は?」


チラリと私を覗き込むエミリーの視界を、ナオが体で遮る。


「プライベートだから詮索はやめて」

「ナオは秘密ばかりよね。日本人の方かしら?」

「教えない」

「もしかしてデーティング中? ナオってほかにもデーティング中の相手はいるの?」

「何も答えるつもりはないよ」

「それぐらい教えてくれてもいいじゃない」


そんな会話を耳にしていて思う。

……ナオ、妙に受け答えが淡泊じゃない? この人たちとあまり仲が良くないのだろうか。

見上げるとナオの横顔は硬い表情。

私には最初からニコニコしてて人懐っこい印象だし、いつも優しくて、あまり壁を作らないタイプのような気がするのに……。

臆面もなくいくつか会話を交わした二人の女性は、やがて諦めて去って行った。


「夏海、一人にしてごめんね」

「ううん。ねぇ、ナオは……今の子たちと仲が悪いの?」


するとナオは、さも何を言っているのかわからないと言いたそうな顔で首を傾げた。


「普通のオケの仲間」

「そう……」


無愛想な顔をしていたから、てっきり嫌いな相手なのかと思っていた。

そして今はよく知った表情だ。


「夏海、反対側からの景色も見よう?」

「うん……」


私の手を引いて前を歩き、時折振り返るナオは、ニコニコと可愛らしく笑う。


(……あれ? 気のせい?)


丘の上で風を浴びながら、ナオは「暑っ」と言って腕まくりをした。

そして服の胸元や裾をパタパタさせる。

かわいらしい顔をしているけど、腕も、胸元も、お腹も筋肉質。

ついチラチラと見てしまう。

かわいらしい顔とのギャップが最高――じゃなくて、何考えてるのよ私。違うわ。アンバランスよ、アンバランス。

そんなふうに一人で百面相を繰り広げていると、ナオは不思議そうに私を見つめていた。


「どうかしたの?」

「えっ? う、ううん、何でもないわ」


するとナオが真面目な顔にちょっと不安を混ぜ込んだような顔で告げる。


「夏海……俺、デーティング中の相手なんていないからね。夏海だけだよ」

「そうなんだ……へーえー」


大して興味なさそうな返事をしつつ、内心はホッと胸をなで下ろす自分がいる。

私は一体何にホッとしているのだろう。

そんな自分の困惑を隠すために、私は話をすり替えた。


「ナオは次、どこで仕事なの?」

「ヨーロッパのいろんなところ」


いろんなところって、ツアーってことよね。

さすがとしか言いようがない。

あちこち飛び回って演奏活動をするんだ。

きっと楽しみに待っているファンもたくさんいるに違いない。


「そっか。ナオってやっぱり凄い人なのね。頑張って。こっちから応援してるわ」


心からの笑顔でそう伝えると、ナオは少しだけ寂しげに笑った。


「夏海は仕事、どうするの?」


仕事。仕事か……。


「うーん……まだ迷ってる」

「ずっとここで Brain surgeon(脳外科医)なのはダメなの?」

「そうね……こんな中途半端な気持ちで続けるのはどうかと思うわ」


元々勉強ができただけで、立派な脳外科医になりたいという強い思いがあったわけでも何でもない。

ただ弘臣を追いかけただけ。

きっと弘臣から見たら、さぞかし私の道は穢れて見えたことだろう。

失恋してしまえば脳外科医の道すら見失い、今は目指す先が見えずにさまよっている。

私は視線を落として自分の手のひらを見つめる。


「私の手には、光が見えないのよ……」


日陰の中にいるかのようにくすんでしまった私の手に、何ができるのだろう。

重苦しい気持ちが胸に満ちて俯いていると――


「そうかな? 俺には、夏海の手がキラキラに見えるよ」


日の光をいっぱいに浴びたかのように輝いて見えるナオの手が、優しく私の手を包む。

まるで私の手まで輝きに満ちていくかのようだ。


「俺は、夏海がドクターとして頑張ってるのを知ってる。それが弘臣さんのためだったっていうのも聞いた。でもそれだけじゃないと思うんだ」

「えっ……」

「5年前のアルのSurgery(手術)の時にね、ほかの Patient(患者)が教えてくれたよ。『あなたは運がいいね。彼女は若いけど Skillful doctor(腕のいい医師)だよ』ってね。だからアルもすごく安心してた。俺もきっと大丈夫だって思ってたんだ」


差別的なことを言われた一方で、そんなふうに患者さんに言われていたなんて……。

嬉しくて視界がじわりと滲む。


「夏海が今、ドクターとして迷ってること知ってる。でも俺には大切な人を助けてくれた Best doctor(最高の医師)なんだ。アルはすごく夏海に『ありがとう』って思ってる。もちろん俺も。きっと俺とアルだけじゃないと思うんだ。だから夏海は立派なドクター。すごくキラキラの手だよ。だから自信を持って?」


脳外科医であった目的は歪んでいたとしても、がむしゃらに医師として努力していた私を、そういうふうに見てくれた人がいるなんて……。

優しい微笑みを向けるナオから、私は慌てて目を逸らした。

涙が零れそうだった。

ナオのピアノも泣きたくなるけれど、ナオの言葉も同じぐらい泣きたくなる。

たぶん、ナオの優しさや温かさがそうさせるのだろう。

もっと強い風が吹かないかな。

零れる前に涙を乾かしてほしい。


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