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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第六楽章 真綿のような人

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06-01.


2日後、私の住むアパートメントのすぐそばで、ナオと待ち合わせ。

約束の5分前に外に出ると、すでにナオの姿があり、私に気づいたナオは微笑みを浮かべて近づいてきた。


「夏海、おはよう」

「お……おはよう」


その立ち姿に、思わず頬が引きつる。

ダークブロンドのウィッグにカジュアルな黒いハット、黒縁の眼鏡、白いカジュアルテイストのシャツに、ゆったりシルエットの黒いパンツ。

モノトーンでシンプルな装いのはずなのに、長身・小顔・長い手足が組み合わさると、閑静な住宅街には微塵も溶け込まない。

ナオが自然と放つオーラのようなものが華やかで、立っているだけで非常に目立つ。

近くを通る人たちがチラチラ見ていき、まるで芸能人が変装してもオーラが隠せていない、みたいな、そんな感じだ。

変装の意味はあるのだろうか。


「夏海、行こうか」

「う、うん」


この2日で、私はナオについて様々なことを考えた。

どうしても訝しんでしまうのは、ナオが私のことを好きだと言っていることだった。

その無邪気さと軽さが相まって、ナオが私に向けているものは本当に恋愛感情なのだろうかと疑問に思ってしまう。

ナオの『好き』は、日本の感覚で言う『Love』ではなくて『Like』なのではないか。

そう思えるのだ。

それに――


(私なんかを選ばなくたって、若くて綺麗な子がたくさん近くにいるでしょ……)


こんな美青年がモテないわけがない。

それにここはアメリカ。つまり『デーティング』というものが存在する。

デートやキス、さらにはその先の関係に進んでもまだ恋人ではなかったり、ほかの相手と同時進行だったり……。


(その感覚、私にはついて行けないのよね……)


ナオはアメリカ育ち。だからデーティングの感覚が染みついているはずだ。


(息をするように褒め言葉と口説き文句を並べるような男が、この国には五万といるのよ……)


こうして、ナオに好意の言葉を並べられながらも、残念ながら何とも複雑な気分になるというのが本音だった。


そんなことを考えながらぼんやりとナオの隣を歩いていると、車のタイヤの甲高いスリップ音が耳に入る。

その車は後方から猛スピードでこちらに向かってきた。

すると瞬時に、ナオにグイッと腕を引かれた。


「…Whew, that was close. Are you all right?(……ふぅ、危なかった。大丈夫?)」


肩を抱かれるようにして私の体が納まったのは、ナオの胸元。

日本語を話すより早口で滑らかな声が、すぐ間近から聞こえた。

ゆっくりと見上げると、ナオが走り去った車を苦々しく見やる。

そして私に目を合わせて微笑んだ。


「 I think it's safer if you walk on this side(こっち側を歩いた方が安全だよ)」


ナオの腕の中から解放されると、道路側から離れた方に肩を押して誘導される。

車に驚き、力強く抱き寄せられたことにも驚き、そして何より、咄嗟に英語を話したナオが、妙に落ち着いた色っぽい男性に見えて――


「夏海、変な顔」

「えぇっ!?」

「目も口も、まん丸」


ナオがクスクス笑う。


「へ……変……て……言わないで」

「ごめん。どうしたの?」

「う、うん……ナオは……英語ダメ」


ドキドキするからダメよ。

するとナオは――


「ん? ……あぁ、ごめん。急な時は英語が出ちゃうみたいだ。日本語がいいって言ったのは俺なのにね。気をつけるよ」


ダメというのはそういう意味ではなかったのだが、よく考えたら本当の意味がナオに伝わらなくて良かった。


「そ、そうよ……ダメよ」


私がブツブツ呟くのをきょとんと見つめたナオは、再びかわいらしい子犬系に逆戻り。


「へへ、ごめんね」


あーもう、このギャップに面食らうわ……。

いつもかわいいくせに、急にスイッチが入ったかのように男らしさを見せるナオにドキドキして堪らない。

……いや、ドキドキって何よ。

ハプニングにちょっとビックリしただけだわ。

吊り橋効果みたいなものよ。

ときめいてなんかない。

――と必死に言い聞かせようとしている私は……何なのよ。


早鐘を打つ心臓が落ち着いた頃、私はハッと顔を上げる。


「そうだ……ナオ、怪我はない? 手を痛めたりしなかった?」


ピアニストにとって、命の次に大切と言える手なのに。


「大丈夫だよ」

「ちょっと見せて? ……あ、ここ、傷になってる」


恐らく私のバッグの金具にでも当たったのだろう。

右前腕内側、手首に近い辺りにピッと引っかいたような赤い擦過傷ができていた。


「こんなの大丈夫だよ」

「ううん、大事な手なのにごめんね」


ピアノを弾く大事な手――私は思わず、ナオの手をパッと離す。


「ん? どうしたの」

「えっ……ううん、何でもない」


光り輝く音を奏でる神聖な手。

輝きを失った私の手なんかが気安く触れていいものではない。


「と、とにかく……私のことなんて庇わなくていいわ」

「私のこと『なんて』って何? 夏海は俺が大切に想う人だよ」

「私はいいの。ナオは素晴らしいピアニストなんだもの。自分を大事にしなくちゃダメよ?」

「……うん、わかったよ。でも夏海も大事なんだ」


ナオは納得していない顔でそう返事をする。


「ありがとう。でも、ナオの手の方が大事」

「夏海も大事」

「ナオの方が大事」

「夏海が大事」


ナオも引くつもりはないらしい。


「わかった。じゃあ、私は自分のことを大事にするから、ナオも自分のことを大事にして? お互い大人なんだし、自分のことは自分で守りましょう。うん、それがいいわ」


するとナオの顔が不満そうに歪む。


「夏海はわかってないなぁ」


むぅ~っと文句ありげに口を尖らせるナオは……どうしよう。すっごくかわいい。

ヨシヨシしたくてウズウズする。

そう思っていると、ナオが眉間にしわを寄せて真剣な顔で私を見た。


「夏海は黙って俺に守られていればいいんだ」


そう言ってプイッと顔を背け、私の手をグイッと引くナオ。

ズッキューーン。

私の胸に巨大な槍でも刺さったのではないだろうか。息苦しくてクラクラする。


(何よそれ~。そんな俺様キャラ、どこから出してきたのよ~)


男らしかったりかわいかったり、なんて忙しいのだろう。

もしかしたら私は、すでに振り回されているのでは? 

またナオの術中にハマっている? 

ナオが手招きする甘い蜂蜜沼にチャポンと浸かりたくなってしまう。

いいや、日本で会った時から、すでに片足くらいは突っ込んでいる。

脱出しようとしたのにできなかった。

この人の甘くて魅惑的な蜂蜜沼。

今はもっと甘さを増し、私をさらに深く甘美な沼底へと誘い込む。


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