05-02.
コーヒーを一口飲んで一息つくと、ホッとしたせいか一気に疑問が湧き上がってくる。
今夜の出来事が未だどこか夢心地で、現実について行けていない自分がいる。
「あのね、ナオ……ちょっと一回スマホであなたのことを調べていい?」
「えー、目の前に俺がいるのに調べるの?」
ナオは不満そうだけれど……きちんと現実を見るために必要だと思うのだ。
「うん。だって、プロのピアニストだなんて驚いて……」
「そんなに驚くことだった? 俺のピアノ、ビミョーってこと?」
「そんなわけないじゃない。そうじゃなくて……まさかそんな人が身近にいるだなんて思わないってことよ」
「ふぅん、そう?」
ナオはやっぱり不満そうだが――
「お願い。ちょっと頭の中を整理したいの。調べさせて」
「わかったよ。じゃあ、俺シャワー浴びてくるね」
渋々承諾してバスルームに向かうナオを横目に、私はスマートフォンで検索を始めた。
「調べた?」
しばらくしてバスルームから戻ってきたナオに声をかけられハッとする。
「う、うん、まぁ、少しは……」
ナオは日本で会った時のようなフワフワした髪に戻っていた。
それが今の私の心境をずいぶんホッとさせる。
だって、ナオの経歴が想像以上だったから。
「それで、何かわかった?」
「うん……『タカナシ・ナオヤ』って、こういう漢字を書くのね」
小鳥遊尚哉。
名字がちょっと珍しい漢字だ。
するとナオがフフッと悪戯っぽく笑う。
「『小鳥遊』はピアニストの時の Surname(名字)で、本当のは違うんだ」
「えっ、そうなの? 芸名?」
「ゲーメー?」
「あー……Stage name」
「Stage nameと違うよ。『小鳥遊』は……何て言うの? Previous surname」
「えっ、旧姓?」
「『小鳥遊』はDad(父)の Surname 。Mom(母)が新しい人と結婚したから、俺も違うのになったんだ」
つまり両親は離婚しているということで……複雑な家庭環境である可能性も考えると、それ以上聞けずに黙ってしまった。
「名前を変えるとキャリアが面倒くさくなるから、ピアニストの時は『小鳥遊尚哉』のままなんだ。俺の本当の名前は家族だけ知ってる。そのほうが新しい家に迷惑じゃないからちょうどいい」
母親の再婚相手に配慮しているということなのだろう。
「そう……」
「夏海には隠さなくてもいいんだけど……ちょっとだけミステリアスな方が、夏海が俺のこと気になるかもしれないでしょ? だから秘密にしておくね。俺、夏海に好きになってもらうためなら何でもする」
そんなふうに言われると、ギュッと心を掴まれてしまいそうだ。
「何でも、だなんて……」
「夏海には、お嫁さんになってくれる時に伝えるね」
出た、嫁。
相変わらず軽い調子で嫁にしようとするナオには呆れる。
軽い。軽いわ……。
ただ、経歴は重量感たっぷりだ。
「コンクールで色々受賞歴があるのね」
「まぁね」
10代の頃からアメリカ国内や国際コンクールで数々の受賞歴があり、そして20代中頃からは、大きなオーケストラとの共演やイベントへの出演、日本・アメリカ・ヨーロッパで度々ツアーを行っていることもわかった。
プロもプロ。超一流プロピアニストだ。
そして手当たり次第にいくつもの記事を読んでいった結果、ふと英語で書かれたゴシップ誌の記事が気になった。
「『ピアノ界のプリンスは夜の街でもプリンスだった』っていう記事を見つけたの。ナオってそういう人だったのね。残念だわ」
白けた表情を向けると、ナオの顔は途端に青ざめる。
「待って! まだそんなの出てくるの?」
「あったわよ」
うぅっ、と小さく息を漏らしながら手で顔を覆うナオ。
ゴシップ誌とはいえ、『火のない所に煙は立たぬ』と言うくらいだ。
つまりは――
「ナオって実は、お盛んなタイプってことかしら?」
不快さ全開で問うと、顔を上げたナオがきょとんと私を見つめる。
「えっ……お魚タイプ?」
あぁそうだ、この人日本語苦手なんだった……。
お魚タイプ。
何なのよ、そのかわいらしいワードは。
勢いを削がれた私はガックリと項垂れる。
気持ちの行き場を失うわ……。
いや、ここははっきりすべきだろう。
最初こそ肝心とばかりに、エンジンを掛け直して追求に徹する。
「『お魚』じゃなくて『お盛んな』よ! 魚類の話はしてないわ。Womanizerなのかって聞いてるの」
「ちっ、違うよ! 本当に違うんだ」
途端に困り果てた表情で眉尻を下げるかわいらしいナオを見ていると、トーンダウンしてしまいそうだ。
上がったり下がったり。私の気持ちは実に忙しい。
「よしよし、違うのね。わかったわよ」と頭を撫でてしまいそうな自分を明後日の方まで放り投げて、ツンとした態度で告げる。
「少しでも疑わしいなら、今すぐ『さようなら』って言って帰るから」
「帰らないでよ。夏海の『さようなら』はもう聞きたくないんだ」
日本を発つ直前の電話でそう言ったことが響いたらしい。
申し訳ないと思いつつ、あえてその気持ちを隠す。
「じゃ、じゃあこの……と〜っても素敵な女性たちに囲まれてる幸せそうな写真は何なのかしら?」
我ながら実にトゲトゲしい追求。
でも仕方がない。
ナオが女性達に囲まれて、両サイドから頬にキスをされている写真を見つけてしまったのだから。
するとナオは萎れた向日葵みたいにがっくりと肩を落とした。
「幸せと違うよ。俺の顔、よく見て? 25歳の時に大きいコンクールで優勝したんだ。ガラコンサートの後、アルに無理矢理『そういうお店』に連れていかれて……そしたら撮られてた。その時にしか行ってないよ」
「ふぅん」
と、いかにも不機嫌そうに返事をしたものの、ふと我に返る。
まるで浮気性の旦那を追及する嫁のようではないか。
一体どのポジションからこんな追及をしているのだろう。
そしてなぜ私はこんなに必死になって弁解を求めているのだろう。
すると、しょんぼりするナオが私を見つめる。
「ねぇ、俺、つい1時間くらい前に『たぶん好き』って言ってもらったのに、もうフラれるの? 夏海から2回もフラれるの嫌だよ~」
しょぼんと泣きそうになっているナオは、コンサートでピアノを弾いていた時の堂々とした姿とは似ても似つかないくらいかわいらしい。
「本当にナオはWomanizerじゃないのね?」
「違うよ! 神様とピアノに誓う!」
神様はいいとして、ピアノに誓うって。変わったものに誓うわね。
ナオの必死さとかわいらしさに、私は堪えきれずにプッと笑った。
「そうまで言うなら信じてあげてもいいわ」
そう答えた瞬間、ナオの向日葵のような笑顔がパッと花開く。
「夏海! 好き好き大好き! 夏海だけが好きだよ」
ナオに勢いよく抱きつかれた。
洗い立てでいい匂いのフワフワなナオの髪が、頬に触れると心地いい。
こういうスキンシップをされると、本当に子犬ちゃんみたいにかわいいのだけれど――
「もう、勝手にくっつかないでよ」
そう言って引き剥がす際に触れたナオの腕にドキッと胸が高鳴る。
上腕二頭筋がモコッと発達。
急に男っぽさが垣間見えるナオに、私の心は振り回されっぱなしだ。
「夏海、会いたかった。何も言わないでこっちに戻るなんて悲しかったよ」
寂しそうな顔をするナオを見て、私の胸はキュッと痛みを覚える。
男らしさが見えた後の、グッとくるかわいらしさ。
私の口から「くぅぅっ……」と耐えきれずに声が漏れる。
ナオといると感情が忙しい。




