05-01.
コンサートホールからタクシーで5分ほどの場所に、アルバート・ブラウン氏の一軒家があった。
柵で囲まれただだっ広い庭の先に、木々で囲まれた二階建ての家が見える。
「夏海、入って」
「おじゃまします」
外見も立派だったけれど、中も広々としていて圧迫感がない。
入ってすぐのリビングルームで周りを見回すと、ドアが開け放たれた一室に見えたのは――
「あ、ピアノ」
「うん。あの部屋は……えーっと……あぁ、もうがんばらなくてもいいかな」
「え?」
何を? と聞くよりも早くナオが話し始めた。
「あの部屋はSoundproof room(防音室)。俺が弾いてるけど、ピアノはアルのだよ」
わぁ、本当に英語の発音が素晴らしいわ、なんて思いながら話を続ける。
「ふぅん、そう。ブラウンさんもピアノを弾くの?」
「アルは弾くのは下手だよ。でも耳がいいからPianotuner(調律師)になったんだって。アルの家族はみんな楽器を弾くって聞いた」
ナオにソファーに座るように促される。
そしてナオはコーヒーを淹れにキッチンへ向かった。
「ナオがここに住むようになったのって、いつぐらいからなの?」
「うーん……15年ぐらい前かな」
「そんなに前からアメリカにいたの?」
「子供の頃からだよ。Dad(父)の仕事で来て、こっちのMusic school(音楽学校)行ってた。だから日本語が下手」
「えっ?」
「難しい日本語は聞いてもわからない。漢字難しい。話すの遅い。夏海にアメリカから追いかけてきたヤバいやつって思われたら嫌だから、頑張って日本語使ったよ」
へへへ、とナオはかわいらしく笑う。
『日本語が下手』とまでは思わないものの、ゆったりとした口調、言葉に詰まる様子、ちょっと子供っぽい話し方。
耳がいいからか発音は自然。
時々変わった表現をするから『ナオ語録』なんて思っていたが……なるほど、日本語が苦手だったのか。
私はようやく腑に落ちる感覚がした。
それと同時に、気になることが一つ浮かんだ。
「ねぇナオ、それなら……私の失恋した話もちゃんと理解していない?」
私は息を詰めるようにして問う。
もしそうならちょっと悲しいのと……腹が立つ。
だって、すごく理解してくれたみたいに思っていたから。
するとナオは眉尻を下げて微笑む。
「本当のことを言うと、わからないところもあったよ。でも俺は夏海を見てたから……夏海が笑いたいのか泣きたいのか、Happy(幸福)かBitter(苦痛)か……そんなこともわからないほど俺はバカじゃない」
きっとここでナオに「ちゃんと全部理解してたよ」と言われていたら、疑いの気持ちが湧いたと思う。
でもこの人は、正直に答えてくれたのだ。
だからスッと言葉が入ってくる。
日本で会った時もそうだったが、ナオという人は澄んだ水のような人で、心にスッと浸透するように言葉が届いてくる不思議な人だ。
「そう。それならよかった。じゃあ、これからは英語で話すようにする?」
「えー、日本語で話せる人は少ないから、日本語がいいな。練習。それにこっちで日本語を使うとね……いっぱい人がいても秘密の話ができて楽しいよ」
ナオはパチッとウィンクをして微笑む。
……秘密の話って何かしら。
あぁ、そういえばこの人、ステージ上からとんでもない発言をした人だったわ……。
もしかして日本語なら何を言っても平気とばかりに、人前で好きだのなんだのと言うつもりだろうか。
そう考えたら顔がポッと熱くなった。
「む、無理せず英語でいいんじゃない?」
「じゃあ、夏海は英語でいいよ。俺、日本語話す」
ナオはそう言ってフフッと笑う。
……それじゃあ意味がないのよ。結局『好き好き』言われる状況に変わりない。
「わかった。私も日本語で話す。その代わり……変なこと言わないでね?」
「変なことって?」
「人前で……好き……とか言わないでってこと」
「あぁ、それなら変なことじゃなくて正しいことだから大丈夫だよ」
へへへっとナオはかわいらしく笑う。
大丈夫って何。
ダメだ……相変わらず糠に釘打ってる気分だわ。
諦めも肝心。私は溜息を一つ溢す。
「それで……ミキさんたちと知り合ってるんだから、日本にもいたのよね?」
「16歳の時に少しだけ日本に住んだよ。日本の高校の音楽科に行って、その時に会った。6ヶ月くらいでアメリカの学校に戻って……大人になってからはこっちがメイン。ほかには日本とヨーロッパにもツアーで行く」
ブラウンさんも言ってたことだけれど……ツアーなんてするんだ。
いまいちピアニストの世界はよくわからないけど、それってすごいピアニストということではないだろうか。
するとナオがマグカップを手にキッチンから出てきて、テーブルにそれを置くと私の隣に座った。
「18歳の時にアルと初めて会って、『Student housing(学生寮)出たら一人で住む』って話したら、『ここで一緒に住むか?』って言ってくれたんだ」
「ブラウンさんは長くお世話になってる人なのね」
「うん。お父さんみたいなお兄さんみたいな……弟みたいな人かな」
弟って……ブラウンさんって50代なんだけど。
私の困惑を余所に、ナオはニコニコと機嫌良さそうに私を見つめている。
その姿は日本にいた時の姿に近くて、見ていてホッとする。
ステージ上でピアノを弾いていたナオのことを素敵だとは思ったものの、遠い人のように感じられて、少しだけ寂しさのような怖さのようなものがあった。
「ナオはそういうほうがいい」
「そういうって?」
「ゆるゆるふわふわしたかわいい感じ」
「……女の子を褒めてるみたいな言葉だね」
「ダメ? じゃあ……子犬っぽい」
「それは喜んでいいのか悲しんでいいのか……いや、悲しいね」
しょんぼりするナオを見て、私はクスクス笑う。
「そう? かわいいわよ」
「夏海は、かわいい男がタイプなの?」
「ううん、全然」
「ほらー、俺かわいそう」
確かにかわいいタイプの男性は好みではなかった。
でも隣でしょんぼりするナオを見ていると、ギュッとし抱きしめてあげたくなる。
この気持ちは何だろう。
弘臣のことを好きな時は、その気持ちが過熱しすぎている部分があって、エキセントリックさすらあったように思う。
それなら今のこの気持ちは……?
ゆったりと穏やか。
弘臣に抱いていた気持ちとは似ても似つかない、正体不明な気持ち。




