04-06.
「ごめんなさい。ちょっと私には意味がわからないのですが……」
私が困惑していると、ブラウンさんはちょっと呆れたような顔を向ける。
「もしかして……ナオから話を聞いていないんですか?」
話を聞く? それを言うなら、どちらかというと――
「私ばかり話して、助けてもらったかも……」
日本で一緒に過ごした2日間は、たわいもない話をして気分転換に付き合ってもらい、私の失恋や過去の話を存分に聞いてもらったのがほとんどだったと言える。
「ナオの話を聞いてやってください。彼なりにあなたへの想いがあるのですから」
「私への……ですか?」
「はい。ナオはジャパンツアーを終えて、少し日本でゆっくりしてからアメリカに戻ってきたのですが――」
「ジャ……ジャパン……ツアー……?」
「ええ。しばらくは酷く落ち込んでいましてね。ずっと悩んでいた様子でした。僕が手を貸そうとしましたが、無理矢理あなたを探し出すのだと意味がないんだ、とか、普通に再会したって俺は見てもらえない、とか何とか言って、何か思うところがあるようでした」
ツアーとかするんだ……。
何だか規模が大きくて混乱してきた。
私が目を点にしてブラウンさんを見つめていると、ブラウンさんがハハッといかにも楽しげに笑う。
「ドクター、申し訳ない。楽しいおしゃべりはここまでにしましょう。ジェラシーの炎に焼き殺されそうだ」
「え?」
ブラウンさんの視線に従ってナオに目を向けると、滑らかなピアノの音色は響いてくるのに、不機嫌そのものという顔でこちらを――特にブラウンさんを睨んでいた。
「この曲、物凄く難しいんですよ。あんなふうに気を散らしていたら演奏に響く。ドクターはナオだけを見てやってください」
そう言って、ブラウンさんは私のそばを離れた。
再びナオに目を向けると、未だ不貞腐れたような顔をしている。
あ、そうか。私のために弾くって言ってた。
でもね、ナオ。プロなんだから、ちゃんとお客さんのために弾いてよ。
そう思いつつ、その特別感に嬉しい気持ちは隠せなかった。
それからは、演奏中のナオをひたすら見つめていた。
ブラウンさんは難しい曲だと言っていたけれど、時折こちらを見つめるナオの表情は穏やかで、難しさなんて伝わってこなかった。
ナオのピアノは自由気ままで、華やかで、まん丸い粒子みたいな優しい音なのに、オーケストラに負けない強さと迫力がある。
眩しい音を放つナオの手は、淀みなく真っ直ぐにピアノと向き合ってきた手なのだろう。
だから紡がれる音も淀みなく美しい。
休憩の前に弾いていた曲の切なさいっぱいの様子とはまた違った魅力だった。
堂々としたナオの姿に見惚れ、心奪われるほど美しいピアノの音に涙しながら聴き入った。
2曲続けて演奏され、演奏開始から40分ほど経った頃、曲は盛大な盛り上がりを見せてフィナーレを迎えた。
ステージに立つナオは輝いて見えた。
客席からのアンコールにも堂々たる姿で立ち、日本にいる時に見せていたかわいらしさなんて微塵も感じさせない。
ナオが華やかな雰囲気なのも納得だ。こんな大きな舞台に立つ人なのだから。
ゆるふわどころか、凜々しくて誰だかわからないくらいだ。
それにしても……私はナオを見つめつつ、ブラウンさんの言葉を思い出していた。
『何度も病院に来ていたじゃないですか』
日本人男性なんて来ていただろうか。
それなら気が付きそうなものだけれど、全く記憶にない。
それにブラウンさんはナオが『日本からアメリカに戻って』きたと言っていた。
つまりナオは日本在住ではなくて、アメリカ在住ということだ。
そういえばソフィアもナオについて『アメリカでの活動がメイン』と言っていた。
プロの演奏家ならあり得ることだけれど……。
そして入院していたブラウンさんのそばにいたということは、もしかして最初から私が医師だということも知っていたのだろうか。
謎をいくつも抱えたまま、ステージを下りるナオを迎える。
予定とは反対側の、私がいる舞台袖に下がったナオは、私の手を取って嬉しそうに微笑んだ。
「夏海、ただいま」
「う、うん……お疲れ様。今まで聞いたどの演奏よりも素敵だった」
「そっか、嬉しいな。さ、行こう?」
どこへ? 聞く隙もないうちに、ナオに手を引かれて舞台袖を後にした。
コンサート終了後、私はステージを下りたナオにグイグイ手を引かれて再び楽屋に連れ込まれた。
そして先ほどの休憩の時と同様、現在いる場所も再びナオと入口ドアとの間だ。
「ナオ、ちょっと話を――」
「俺、頑張ったから……キスしてもいい?」
キス魔か、と思わずツッコミたくなる。
「ま、待って、だから話を――」
「いいって言ってよ」
自分で気付きつつあるが、普段のゆるふわなかわいさとは真逆とも言える、切なげで切羽詰まったような色っぽさを纏うナオの顔に、私はちょっと弱い。
不安に満ちた懇願するような顔。
「いいよ」と言ってしまいたくなる。
やっぱりナオって、どこか狡い気がする。
すると背にしているドアがノックされて、ブラウンさんの声がドア越しに聞こえた。
「ナオ、がっつきすぎると嫌われるぞー。俺は帰るのが遅くなるから、家に帰ってゆっくり二人で話せ」
そのブラウンさんの言葉で気づく。
ねぇナオ、思いっきり会話が外に漏れてるんじゃない? 恥ずかしすぎるわ。
私の顔が熱を持つのとは対照的に、そんなことはどうでもいいとばかりに気に留めない様子のナオは、ハーッと深く息を吐き出して「邪魔するなよ……」とぼやく。
マイペースだ。
「夏海はこの後時間ある?」
「……あ……るような……ないような――」
「あるね」
言葉を被せるように言ったナオがクスッと笑うと、私も思わず笑う。
「夏海と話したいんだ。一緒にいたい」
「私もナオと話したい。たくさん聞きたいことがあるの」
「ここはあと少しで空けなくちゃいけないから、アルの家に行こうか」
「アル?」
「アルバート。さっきの声の……夏海が話してた人」
「あぁ、ブラウンさんのこと?」
「うん。俺、アルと一緒に住んでる。夏海も一緒に来てくれる?」
「わかったわ」
ナオは楽屋を出る時からタクシーに乗って家に着くまで、手をギュッと握ったまま放さなかった。
大きくて力強い手が、安心させるように包み込んでくれる。
ぽっかり空いた心の穴が少しだけ埋められていくように感じた。




