04-03.
ステージ上には、まず楽団員たちが順番に揃った。
最初はオーケストラのみの曲から始まったため、ピアニストはステージに現れなかった。
(ダメだ……全く曲なんて頭に入ってこないわ……)
落ち着かずソワソワしながらしばらく座っていると、突然辺りから拍手が響いて肩を跳ね上げる。
1曲目は10分ほどで終わったらしい。
「次はショパンのピアノ協奏曲第一番。ピアニストも登場しますよ」
「えっ!? あ、うん」
「どうかしましたか?」
「うっ、ううん! 何でもない!」
アハハハ、と声では笑うのに、顔が引きつってどうしようもない。
まさか、そんなはずはない……と自嘲するのに、気持ちが静められない。
(もしも、ナオだったら――……)
ナオだったらどうだというのだろう。
胸の奥から湧き上がる抑えられないこの気持ちは……。
すると木製の床を硬く打つ足音が耳に入る。
ハッと顔を上げると、舞台袖からステージ中央に向かって姿勢良く歩いてくる男性の姿が見えた。
私はその人物が一歩一歩近づいてくるのを、スローモーション映像でも見ているかのように、息を詰めて見つめる。
盛大な拍手と、眩いほどの舞台照明に包まれながら堂々とした姿で登場したのは、このステージのピアニスト、ナオヤ・タカナシであろう。
ゴクリと唾を飲み込み、目をこらして彼を見つめる。
髪がオールバックにきっちりと纏められていて、黒のキリッとしたスーツ姿。
日本で会ったナオは髪がピョコッと跳ね、上下ダボッとした服装でフワフワした緩いイメージだった。
だからナオとは別人。
――そう思ったのに、その姿が近づいてくると、はっきりと顔が確認できた。
「うっ、嘘……ナオ……」
そんな私の呟きは、ナオの紳士的な礼と共に盛大な拍手でかき消される。
「ナオヤ・タカナシは相変わらずクールね」
そんなソフィアの言葉に目を見開く。
(クール!? ソフィアにはそう見えるんだ……)
日本で見た姿は、クールとはずいぶんかけ離れた印象だった。
でも確かに今のナオはかわいいというよりは、どちらかというとセクシーでかっこい――
……いや、そんなことはどうでもいい。
(え、待って。今日ってジャズコンサートじゃないわよね? そもそもナオってプロのピアニストなの? えぇぇっ!?)
もう何が何だかわけがわからなくなってきた。
困惑したままステージ上のナオを見つめていると、ナオと視線が交わる。
私がビクッと肩を揺らすのと同時に、ナオも目を見開いて固まってしまった。
そのままじーっと見つめ合うこと数秒。
ナオは小声で何かを呟き、フッと笑ってからピアノの椅子に座った。
「ドクター! 今、ナオヤ・タカナシが微笑んでましたよね? しかもドクターに向かって何か言いませんでしたか? 『アマイ』 なんとかって……日本語? 何て言ってたんですか?」
ソフィアからヒソヒソとした声で立て続けに質問が挙がり、呆然としていた私は我に返って苦笑いを返す。
「べ、別に、日本語で挨拶をされただけよ。えっと……そう、『アマイ』じゃなくて『雨いっぱいですね』っていう日本語があるの! 天気の話! 日本は今、雨のシーズンだから!」
「そうなんですか?」
「ええ」
アハハ、と頬を引きつらせる私の都合の悪さを推し量ってくれるかのように、ちょうどオーケストラの演奏が始まった。
『甘い蜂蜜ちゃん、おとなしく俺と恋愛して?』
いくら日本語のわかる人が少ないとは言っても、なんてことをステージから言うのだろう。
しかも真面目な顔で、キリッとしたその姿で、最後にフッと色っぽく笑って……。
(うぅ……だから『甘い蜂蜜ちゃん』って何なのよ……って、あ、そうか。『Sweet honey』だ。もーう、こっぱずかしい呼び方しないでよ……)
ここが英語圏で、そして会場が暗くてよかった。ソフィアにも顔が赤いのがバレなかったはずだ。
周りに同僚がいなかったら、確実に蹲って悶絶していただろう。
ピアノの前に座るナオは、オーケストラの演奏を聴きながら、出番まで待機中だ。
見たことのないような余所行きの硬い表情で佇んでいる。
ナオってこんな顔もするんだ……。
そんなことを思う自分を戒める。
知らない顔だらけで当然なのに、何をわかったようなことを……。
そもそも人間は奥深い生き物だ。
20年も好きだった相手ですら、彼女の前で見せていた穏やかな顔を、私は一度も見たことがなかったのだから。
それなのにたった2日で全てを知ることなんてできない。
まして『好き』だなんてありえない。
やっぱり私もナオもおかしいと思う。
(楽しい雰囲気に流されただけじゃない? ……いや、ナオに至っては『恋愛して』って言ってるだけで、そもそも私のことを『好き』だなんて一言も言っていないし。……あれ? よくわからなくなってきたわ。そもそも『恋愛する』って何? もしかして、好きじゃなくても恋愛ってできるもの? それか……セフレ的な? そんなのも『恋愛する』に入るのかしら?)
そんなことをごちゃごちゃと考えていたら混乱してきた。
結局ナオって何を考えているのだろう。
(あぁもう、意味不明で頭痛いわ……)
額を押さえて俯いていると――
頭の中を一気に支配するような重いピアノの和音が響いて、私は息を詰めてステージ上に目を移す。
いくつかの和音が解き放たれた後には、流れるようにポロポロとピアノの音が紡がれていく。
その美しくノスタルジックな旋律が頭にくっきりと刻み込まれるかのように、心の奥深くまで響いてきた。
(何……これ……)
体中がピアノの音を纏い、柔らかに包まれていく。
まるで体のありとあらゆる皮膚から音を吸収しているかのよう。
体を支配されるような感覚が心地よくて、私は身を震わせる。
考えていたことなんてどこかに吹き飛んでしまうくらい、瞬く間にナオのピアノに引き込まれた。
ステージ上でピアノを弾くのは、本当にあのナオなのだろうか。
ストリートピアノでの演奏を聴いた。ジャズバーでも聴いた。電話越しにも聴いた。
でも、そのどれよりも美しく響き渡るこのピアノがナオの本当の実力であり、プロピアニストとしての姿なのだろう。
理由なんてわからないが魅了される。
体を丸ごと支配されるかのように引き込まれる。
うっとりと聴き入ってしまう。
そんな音だ。
……あぁ、でもわかる。この音はナオのピアノだ。
まん丸な光り輝く音で、でも集まると迫力となって聞こえる不思議な音。
そういえば、ピアノを弾いているナオの表情を見るのは初めてだ。
日本で会っていた2日間とはまるで違うその姿に、頭が酷く混乱した。
優しくて穏やかな人。
放っておけなくて世話を焼いてあげたくなるようなニコニコ笑う子犬っぽい人。
そういう人だったのに……。
今は全然違う。
このホールを統べるかのような強さのある支配者で、ステージ上で誰よりも輝いている人で、色っぽい大人の男性で……でも時折泣き出しそうなほど切なげにピアノに向き合う人。
それを見ているだけで私まで泣きたくなってしまった。
ナオは何を思ってピアノを弾いているのだろう。
誰を想ってそんな顔をしているのだろう。
願うことなら、ナオの頭の中に自分の姿があればと……あなたの目に映るのは自分でありたいと、そんな浅ましいことを思う。
誰かに甘えて縋りたい私は、もうきっとナオの蜂蜜沼に落とされてしまったのだ。
「ドクター? 大丈夫ですか? 体調でも悪いんですか?」
俯いていることに気付いたソフィアが途中で声をかけてくれた。
「ううん、違うの……平気。ちょっと……感動してるだけだから」
「それならいいんですけど……」
ソフィアがフッと笑みを零したタイミングで、私はバッグからハンカチを取り出しながら考える。
あー、もう……鼻を啜らないようにしないと。こんな素敵な演奏に雑音なんて混ぜたくはない。
先ほどソフィアは曲名を何と言っていただろう。
ショパンのピアノ……何とかかんとか。
これからこの曲を聞く度に泣いてしまいそうだ。
「……ナオのバカ」
頬を緩めながら零した私のぼやきは、オーケストラの華やかな演奏の波に乗るように溶けて消えていった。
夏海が20年片思いしていた相手・弘臣の恋愛模様を描いた作品を、明日夜より投稿予定です。
W連載がんばりまーす(๑•᎑<๑)ー☆




