04-02.
翌日、仕事を終えた私は、更衣室で着替えながら大きく息を吐き出した。
仕事が終わってしまった。
つまり、ここからは余計なことを考えてしまう時間のスタートだ。
そう思うとうんざりしてくる。
アメリカでは医師の就業時間は厳密に管理されていて、時間になれば就業を終えなければならない。
終業後に電話で呼び出されるなんていうこともない。
プライベートの時間を確保できる素晴らしいシステムではあるけれど……贅沢なことに、今の私は寝る間もないくらい仕事に忙殺されている方が気が楽だ。
少しだけ日本のシステムを羨ましく思いながら更衣室を出ると、通用口に足を向ける。
「あっ、ドクター! 一緒にホールへ行きませんか?」
ソフィアに声をかけられて振り向くと、日勤のスタッフたちが集まっているのが見えてハッとした。
(……ホール? あ、そうか、『定期公演』が今夜だって言ってた)
すっかり忘れていた。
でも気が塞いでいてあまり気分が乗らないから断ろう。
すると2歳年下の男性医師・アレンが声を上げる。
「気晴らしも必要ですよ。行きましょう」
気が付けば「さぁみんなで楽しみましょう」と言わんばかりの、皆の期待とワクワクのまなざしが一斉に私へ向いていた。
これは断りにくいわ……。
そんなことができる強者がいるなら見てみたい。
……あぁ、いるわ。弘臣なら迷わず断るわね。空気が読めないから。
そんなことを思ってクスッと笑う自分に気づいてちょっと驚く。
前ほど胸が痛まない。
「早く行きましょう」
アレンの声にハッと我に返る。
何はともあれ、私には弘臣のようにはっきりと断る図太さはない。
『断りにくいから一緒に行く』の一択だ。
疲れていて頭もぼんやりするものの、どうせ一人で過ごしても余計なことを考えるだけだ。
だったら皆と過ごした方が少しは有意義なのかもしれない。
何だか日本でナオやバンドメンバーたちと過ごした時と同じ状況に思えて、チクリと胸が痛みながらもクスッと笑みが零れた。
「では……私も一緒に行きます」
仕事用のファイルに挟んだままだったチケットを急いで取りに戻ってから、皆と共に会場のコンサートホールへ向かった。
病院から程近い場所に、そのホールはある。
「音響の素晴らしさから世界三大ホールの一つと言われているんですよ。今日演奏する交響楽団が本拠地としているホールで――」
アレンの説明を聞きながら、私はその佇まいを見上げる。
外から見ると古めかしさが感じられる建物だが、中に入るとその美しさは圧巻だった。
伝統的な建築様式から歴史的建造物とされており、そこにいるとまさに時代を遡ったかのような不思議な感覚に包まれた。
格調の高さが感じられる内装には古代ギリシャをイメージするような彫刻が数多く飾られ、高い天井からは落ち着いた色合いの照明がホール内を厳かに照らす。
その荘厳さと芸術性にしばし圧倒され、そこにいるだけで癒されるような煌めく空間に、久しぶりに心躍る感覚がした。
指定席に座ると、ステージはすぐ近く。最前列だった。
生の音が迫力たっぷりで聞こえてきそうな場所だ。
コンサートなんていつぶりだろう……。
そういえば遥か昔、日本で弘臣と年末のクラシックコンサートに出掛けたことがあったな。
そう思って改めて気づく。
こういうことを思い出すと、前は苦しくて寂しくてズキズキ胸が痛くなっていたのに、今はさほどそういう痛みがなくなっている。
弘臣のことを好きな気持ちは未だ残っているのに不思議だ。
「ショパンもいいけれど、リストのピアノ協奏曲、第一番も第二番も私、大好きなんですよ」
唐突に左隣に座るソフィアにそう話しかけられ、私は我に返ってハッとソフィアに目を移す。
「え?」
「今夜演奏される曲ですよ」
来ておいてどうかと思うが……そっか、今夜ってクラシックコンサートなのね。
今更そんなことを思う自分を笑う。
何のコンサートなのか知らずに来たのだった。
しかもピアノって言った?
ちょっと苦笑いする自分がいる。
すると右隣に座るアレンが、私を挟んでソフィアに言葉を返した。
「僕はリストなら一番のほうが好きだな。ピアノとオーケストラが対決するみたいなマッシブさとトライアングルのモダンさ。そしてブリリアントな感じが僕は好きだよ」
「確かに一番もいいですけど、二番もいいじゃないですか。詩的で叙情性豊かで、あのラプソディ風の自由さが堪らないんですよ」
……全っ然、話についていけないわ。何かの呪文を聞いてるかのようだ。
どうやらクラシックが好きらしいソフィアとアレンは演奏される楽曲に詳しい様子。
私はというと、嫌いなわけではないがクラシックには疎い。
だから曲名を聞いてもちんぷんかんぷんなのが正直なところ。
そもそも芸術系はどれも弱い。
何せ医学にまっしぐらだったから。
私は間に挟まれたまま、ソフィアとアレンの口から出てくる呪文みたいな言葉をただひたすらぼんやりと聞いていた。
「そういえばドクター、ピアニストは日本人ですよね」
突然ソフィアに話を振られて、私は目をぱちくりさせた。
「えっ? そうなの?」
「あら、チケットをご覧にならなかったんですか?」
受け取った時、すぐにファイルに挟んでしまったので、きちんと見てなかった。ここに来る時も急いで持ってきただけだった。
「うん、見てない。それに……たぶん見てもわからないんじゃないかな」
あまりにも業界に詳しくないから。
そう思って苦笑いしていると、ソフィアがクスッと笑う。
「アメリカでの活動がメインで、今はここを本拠地とする交響楽団のピアニストを務めている人なんです。ヨーロッパの大きな管弦楽団や交響楽団とも共演するような有名なピアニストなんですよ」
「へー、すごい」
「『リストの生まれ変わり』なんて言われていて、リサイタルでもリストの曲をよく弾く超絶技巧を得意とするピアニストなんです。名前くらいはご存じなのでは? ナオヤ・タカナシ」
その名前を聞いた途端、ブルッと体が震え、全身の毛が逆立つのを感じた。
「なっ……ナオ……ヤ……タカナシ……!?」
「あら、ご存じでした?」
「う、ううん……知らない……」
「そうですか。彼のピアノはアグレッシブで――、――」
いやいや、落ち着こう。そんなわけはない。
未練タラタラでずっと考えているから、こんなことで過剰反応するのよ。
バカね、私。
名前に『ナオ』がつく日本人なんて五万といるわ。
そう思って自嘲しつつも考える。
でも……『ピアノを弾ける人』で『ナオ』がつく人は一体どのくらいいる?
再び寒さを感じて腕を摩った。
「どうかしたんですか?」
アレンが不思議そうに私を見つめる。
「え!? ううん、何でもない」
「今夜、ナオヤ・タカナシがどう表現してくれるのか、僕は楽しみで仕方がないんですよ」
「そ、そうなのね……」
あっはっはっはー、なんて笑って見せるが……鳥肌は立っているし、寒さを感じるのにちょっと汗をかいているしで、体がおかしな反応をするくらい動揺。平常心を保つのが難しい。
いやいや、まさか。違うって。落ち着こうよ、私。
そう思って深呼吸を繰り返すものの、気になってどうしようもなかった。
私はバッグからスマホを取り出し、震える手で『ナオヤ・タカナシ』の検索を進める。
まさか……まさかね。違うよね。そんなわけ――
ところがすぐにホール内の明かりが暗くなり始める。公演開始時間だ。
「ドクター、始まりますよ。楽しみですね」
目を輝かせるソフィアに、私は苦笑いしか向けることができなかった。
調べられなかった……。
仕方がなく、スマホの電源を急いで切った。
自分の心臓が、初めて耳にするほどの爆音を奏でているのを感じた。
ナオヤ・タカナシ♪




