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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第四楽章 ホールを統べる支配者

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04-01.


アメリカに戻って3ヶ月が経った。

私は新しい職場に移り、緊張感漂う医療現場の中で仕事に追われながら過ごす。

ただ、モチベーションが下がっているのは確実。

心にぽっかりとあいた穴を見ないようにして、自分を保ち続けることに精一杯だった。

先の成長が見えない現状。

ビジョンのない刹那的状況。

こんな私を弘臣が見たら、「最低だな」と言って、医師としての私にすら見切りを付けるのだろう。


(わかってる……本当に最低だわ……)


気を取り直して仕事に取りかかろうとすると、先輩医師のスミス氏が私に近づいた。


「一昨日、君が脳挫傷で手術したイーサン・コリンズ氏は、やはり右片麻痺が残ったよ。リハビリにまわれるよう準備を頼む」

「……はい」


きちんと治せなかった。

こういう時は遣る瀬無さでいっぱいになる。


「君でなかったら、命の危機すらあった。君はよくやったよ」

「ありがとうございます。でも……コリンズさんの苦しい闘いはこれからですね」

「そうだな。それでも我々にできることはやったんだ。あとはリハビリ担当者に任せよう。ああそうだ。君の元気が出るように、今夜一緒に――、――」


私はぼんやりしながら考え込む。

時折、脳外科医という仕事にやり切れなさを感じる。患者の命を助けても、苦しみを残してしまうことがあるからだ。

できることなら何も後遺症を残さずに助けたい。常々そう思っている。

ただ医療にも自分の技術にも限界があり、苦しみを全て取り除くことができない現実。

それに外科は切って終わり。その後も闘う患者の日々には寄り添えない。

切ったのが自分でなかったら……弘臣だったらもっときちんと救えたかもしれない。

そんな自分に葛藤を抱え、迷い、苦しむ。

それはもうずっと続いていた。

心にぽっかりと空いた穴が、さらに広がった気がした。


「ドクター・フジモト」


私を呼んだのは、同じ科の女性看護師・ソフィアだ。


「はい?」

「明日も日勤ですよね?」

「ええ」

「もし夜にお時間があるようなら、ドクターも一緒にこの近くのホールへ行きませんか?」


ソフィアから小さくて細長い紙を差し出される。


「えっ……何これ?」

「毎年この時期にホール関係者の方から『医療従事者への感謝を込めて』と、うちの病院のスタッフ宛てに定期公演のチケットが贈られるんです」

「そうなのね……」

「日勤のスタッフみんなで行こうって話しているんです。ドクターも一緒にいかがですか?」


確かに、すぐ近くに大きくて有名なコンサートホールがあることは把握している。

ただ、悶々と迷いを抱えていて、はたして就業後に行きたい気分になるかどうか――


「ドクター! ハンナ・テイラーさんが急変しました。お願いします」


看護師のそんな声に、少々弛んだ気持ちが一気に引き締まる。


「はい、すぐに行きます。……ソフィア、ありがとう」


とりあえずチケットを受け取ると、患者の元へ走った。



その日の夜、仕事を終えた私は家でぼんやりと過ごしながら、日本で過ごした最後の2日間を思い出していた。

アメリカに戻ってからの3ヶ月、私は見事なまでにナオの術中にはまった形となっていた。


『もしもまた会えたら』


会えるはずがない。

そう思っているのに、街中で、家の近くで、病院で、ナオみたいな人を見かけると目で追ってしまうのだ。


『でも会えたらいいなって考えて過ごしてたら、少しだけ毎日が楽しくならない?』


それは無理だった。全然楽しくない。

最初の1ヶ月くらいは腹が立って、それからは寂しいだけだった。

自ら断ち切ったはずのナオのことを全く断ち切れておらず、今は思い出さないようにして、そういう気持ちから逃れている。

たった2日間の楽しかった出来事のあとの、苛立ちと寂しさ。

それが20年も続いた片想いの失恋のショックを上回るように、頭の中を何度も駆け巡る。


(20年って言っても、ほとんど恋の形を成してなかったからな……)


恋というよりも、ほぼ必死に仕事をしていただけだ。

落ち着いて考えられるようになった20年の片想いは、一方的に頑張っていただけで、楽しい思い出なんてほとんどなかったことに気づいた。


(不毛なのに、よく続いたわ……)


こうやって整理できているのは間違いなく、話を聞いてくれたナオのおかげだ。

感謝はしているけれど……

私は今、ナオの連絡先を消さなかった3ヶ月前の自分を悔いている。

ナオからの連絡が一度も来ていないことが如実にわかる形になってしまったからだ。

『嫌い』と言って関係を切ろうとしたのは自分なのだから当然の結果だが、向こうが本当に本気だというのならば、何かしら連絡をしてきてもいいはずだ。

それなのに何も連絡が来なかった。

だから思う。

やはり退屈しのぎに揶揄われただけだったのだろう。

それなのに私はこんなにも未練がましく、いつまでもあの2日間を思い出す。

頭に浮かぶのは楽しかったことばかりだ。


(あの時間が、ずっと続いたらよかったのに……)


後になって、ナオが弘臣の弟に聞いていた言葉を思い出した。


『これってどういう意味のカクテルなの?』


カクテルには『カクテル言葉』というものがあるらしい。

スマホで調べてみると、『ブランデー・クラスタ』のカクテル言葉は――


『時間よ止まれ』


この時間がいつまでも続いたらいいのに。

そんな甘くてうっとりしたくなるような意味があるようだ。


(あの弟、どういうつもりであのカクテルを出したのかしら。全てお見通し? だったら侮れない人だわ)


今思えばあの2日間は夢のようで、時が経てば経つほど現実だったのかあやふやな感覚。

カクテル言葉のまま、あの時間がいつまでも続いていたら……。

でも残念ながら時間は止まらず、無情にもどんどん過ぎていくだけ。

現実は残酷だ。


(私は追いかける恋ばかりね……)


いや、そもそもナオに恋なんてしていない。

もう二度と恋なんてしたくないと思ったぐらいなのに、たった2日で好きになるなんておかしい。

そんな簡単にほかの人に気持ちが移ってたまるか。

だいたい、あんな年下の軽~いゆるふわ系、好みじゃない。

私の好みは『ザ・大人の男』だ。


……こんなふうに考えていること自体、もう既にナオのことを意識している証拠なのだと、この3ヶ月で徐々に分かってきた。

でも、それを認めたくない自分がいるのも確かなのだ。


(……もうちょっと弘臣みたいに硬派で落ち着いた感じの人だったら、すんなり受け入れられたかもしれないのに)


文句を連ねつつも子犬のかわいい笑顔を思い出し、悶々としながら今日も眠れない夜を過ごす。


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