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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第三楽章 運命なんて

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03-07.


「なっ……何言ってるのよ。恋愛なんてもうしないわ。それに運命なんて……」


そんなものを素直に信じるような純粋な自分は、もうとっくに捨て去った。

私だって学生の頃は、弘臣への恋心を『人生を変える運命の恋』だと思っていた。

でもそれは叶わずに終わったのだ。

だから運命論なんて信じない。

そして私はアメリカでナオは日本。

どう考えても会える気がしないのに、『もしもまた会えたら』だなんて……。


「ねぇナツミ、ハードルだらけで真っ直ぐ進まなかった道は、たぶんその後もずっとハードルだらけでうまく行かなかったと思う。それは違うものだったんだと思う。もしも俺と真っ直ぐ進んだら、その時はほかの道を忘れて……俺だけを見てほしい」


いやいや、何を急に真面目な顔をして言っているのよ。

ナオと真っ直ぐ進むなんてありえないんだって。

私は明日アメリカに戻るんだから。

納得いかずに不満な顔を向けているのに、ナオは気にする様子もなく微笑んだ。


「また会えるのを楽しみにしてる」

「だから会えないってば」

「会えた時は俺を受け入れてね……甘い蜂蜜ちゃん?」

「ちょっ……何よそれ。変な呼び方しないで!」


するとナオが座っていたベッドから立ち上がる。


「じゃあ俺、帰るね」

「えっ……?」


待ってよ、何なのこの人、意味不明。

散々口説くようなことを言っといて、こんな中途半端に帰っちゃうの? 

だって、そうしたらもう二度と会えないのに……。

そう思って気付く。

あれ……? 私、ナオに帰らないでほしいの? 寂しいって思ってる? 

あぁ、でもこの『寂しい』はダメだ。

優しい人に甘えて縋りたいだけの自分。

悪い自分。


「少しは寂しいって思ってくれた?」


ナオにからかうようにそう言われると、どう考えてもそれを認めるのは難しい。


「別に平気よ!」


そうよ。電話番号だって知っているわけだし、話そうと思えばいつでも話せる。

それでいいじゃない。

こんな寂しさは間違ってる。

不機嫌を装っていると、ナオが硬い表情ですぐ目の前に立ち、右手がこちらに伸びてきて私の髪をゆっくりと撫でる。


「うーん……信じてないナツミには、きちんと態度で示しておいたほうがいいかな……」

「……え?」

「逃げる時間はあげるね?」

(何の話?)


ナオを見上げていると、私の顎の下にナオの繊細な指がそっと触れる。

そしてゆっくりとナオの顔が迫ってくると、私の視界にはナオのブラウンの瞳が映る。

吸い込まれそうなほど透き通った魅惑的な瞳が、私を捉えて放してはくれない。


(なんて綺麗な瞳……)

「ねぇ、避けないの?」

「……へ……?」


うっとりと見惚れていると、ナオの顔がさらに近づき、私は反射的に目を瞑る。

その瞬間、ふわふわなマシュマロが唇に触れたような感覚が。


「ナツミ、避けなかったね」

「へっ!? あっ……えっ? な……何して……」

「何って、キス? 嫌なら避けられるように、ちょっとだけ待ったよ」


ナオの綺麗な瞳にぼんやりと見入っているうちに事後だった。

避けなかったというより、キスをされるなんて微塵も思っていなくて無防備だった。

そもそも大して知りもしない相手にキスをしてきたナオもナオだ。

っていうか、なんで避けなかったの!? と後悔してもすでに遅し。

本当に何なのこの人、意味不明なんだけど……。


「一つ教えて? ナツミの名前の漢字はどう書くの?」


急に問われてハッと我に返る。


「えっ? ど、どうしてそんなこと……」

「いいから早く」


優しく見えるようで、案外強引なナオに唖然。


「なっ……夏の……海」

「そっか。……じゃあ、夏海。今のキスを思い出しながら、俺とまた会えることを祈ってて。じゃあね」

「えっ!? ちょっ、ちょっと待っ――……」


呼び止める間もなく部屋を出て行ったナオ。

嵐が過ぎ去ったかのように静まり返る室内で、私は呆然と佇んでいた。

恐る恐る、手で唇に触れる。

キス……された。

一瞬のことだったけど、柔らかい髪が少しだけ頬に触れてくすぐったかった。

ボーッと思い出してハッとする。

そんなことより――


「何なのあの人! ナオと再会? 無理よ……。ほんと何なのよ、あの子犬!」


なんて勝手で意味不明な人物なのだろう。

口から飛び出すのは文句ばかりなのに、ドクドクと鳴る心臓。


「……何なのよ」


違う。こんなの決して恋じゃない。

あんな不意打ち、誰だって驚いてドキドキする。

ナオにペースを握られて、思考をかき回されているだけだ。

ただそれだけだ。



翌朝午前6時過ぎ。

薄暗い部屋のカーテンの隙間から、徐々に明るくなっていく外の様子がうかがえる。

それをベッドで横向きに寝転んだまま、ただじっと眺めていた。

もう2時間も前から目は覚めていた。……というより、眠ったのだろうか。

それすら定かではない。

私はゴロンとベッドに仰向けになり、ぼんやりと天井を眺めながら呟く。


「……帰らなくちゃ」


ベッドからおりるとキャリーバッグを開け、アメリカへ戻るための準備をノロノロと始める。

二日酔いのせいなのか、失恋したせいなのか……それともそれ以外が原因なのか、頭も体も重くて仕方がない。

本当は昨夜準備をするはずだったのに、全く手に付かなくてできなかった。

どうしよう、こんなにも帰りたくないなんて……。

そう考えてハッとする。

帰りたくない? 

そんなことを思う自分を嘲笑う。

ほんの2日前の朝は、アメリカ行きを早めようかとも思っていたのに、この変わり様はどうだろう。

ずっと打ちのめされた気分で過ごしていた日本での1か月のうち、最後のたった2日間。

それがあまりにも刺激的で楽しくて幸せで……そして優しくて儚くて――私は深い溜息をつく。


(あんなの冗談でしょ。忘れよう)


カフェでの朝食も、今朝は全く食べようと思えなかったから行くのをやめることにした。

私は帰り支度を整えながら、鏡に映る冴えない顔の自分を憂鬱な気持ちで見つめる。


(……うわ、ひっどい顔。今日はファンデーションの厚塗りが必要ね)


メイクを済ませると、妙に重たく感じられるキャリーバッグを引きずって空港へ向かった。


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