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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第三楽章 運命なんて

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03-05.


ひとしきり泣いた私は、涙を拭うとナオに向かって微笑む。


「ナオ、ありがとう。私ね、ずっと苦しかったんだってわかった。並べてみたらほとんど苦しい言葉ばかりだったもの」


口に出してみて初めて気付いたことだった。


「そっか。次は、もっと楽しい気持ちが多いといいね」


ナオの言葉に、私は目をぱちくりさせる。


「次って?」

「次の恋だよ」

「何言ってるのよ。まだ弘臣を好きなままだし……もう恋なんてしないわ。年齢も年齢だし、そんなのないわよ」

「あるよ。年齢が何? おじいちゃんおばあちゃんだって恋をするんだ。ナツミだってできるよ」


ニコニコと笑うナオは何をもってそんなに確信めいた様子で『あるよ』と言っているのだろうか。

首を傾げつつ話をナオに振る。


「そういうナオはどうなの? 付き合ってる人はいるの?」

「いないよ。でも……ずっと好きな人はいる」

「へーえー。その人と付き合ったりしないの?」

「うーん、したいけど……遠い人なんだ」


遠い。遠距離? まさか……亡くなった人という意味だったらどうしよう。

そう思うと突っ込んで聞けなくなった。


「そ、そう……」

「それにね、家にいないことが多いから、嫌われちゃうかも」

「ナオって、そんな嫌われるぐらい家にいないの? それって……どのぐらい?」

「うーん……3ヶ月ぐらいとかかな」

「さっ、3ヶ月!? えっ……何の用事で? 仕事?」


ナオはへヘッと悪戯っぽく笑う。


「秘密だよ」


地方へ出稼ぎにでも行っているのかしら……。


「ナオは……仕事楽しい?」

「そうだね、好きでやってるかな。ナツミは?」

「私は……今は目標を見失ってるかな。自分に続ける資格があるのかどうかもわからない。やればやりがいのある仕事ではあるから、職業自体は悪いとは思っていないけど……今の分野をどうしてもやりたいとは思ってないわね」

「そっか」


恋心の向かう先を失って『残った自分』が医師であっていいのか、続けていけるのか、何を目指していくのか。それは依然わからないままだ。

するとナオがニッコリと笑みを浮かべる。


「ふぅん。目標がないなら、俺がナツミのヒモ的なものにでもなろうか?」


一瞬、フリーズして頭が真っ白になった。


(今……何て?)


話の流れの中であまりにもサラッと信じられない言葉が聞こえてきた気がして、自分の耳を疑う。


「……はい?」

「だから、ナツミのヒモ的なもの?」


何を言ってるんだ、この子犬は。

しかも、ヒモ『的なもの』って……それって何なの? 

するとナオの言葉が続く。


「俺を……何て言うの? 育てる?」

「……もしかして、『養う』って言いたい?」

「あぁ、それかな。そういう目標ができるよ」


ニコッと微笑むナオに、私は心底呆れた。


「あのね……そんなの冗談じゃないわ。私は働かないヒモ男なんて興味ないわ」

「働かないわけじゃないんだけど……。あっ、じゃあ、ナツミが今の仕事を辞めたとしたら、俺のお嫁さんになるっていうのはどう? そうしたら俺、仕事もっと頑張れるかも」


またもやニコッと微笑むナオ。

再びフリーズして頭が真っ白になった。

驚きすぎて声も出ないとはこういうこと。

この子犬は、何を軽〜い口調でとんでもないことを言っているのだろう。


(なっ……何ですって? ヒモの次は、嫁ぇぇ!?)


新手の勧誘か、それとも契約結婚的な誘いだろうか。

だいたいヒモになろうとしてる男が、嫁なんてもらったってどうにもならないだろう。

そこでハッとする。

SNS上という手法ではないが、この男、かわいい顔を武器に近づいて、引っかけやすそうな弱っている女性を巧みに口説く――


「あなたもしかして……ロマンス詐欺みたいな感じ?」

「何それ?」

「恋愛にかこつけて騙そうとする人。あなたも私を騙そうとしてる?」

「えーっ、そんなんじゃないよ」


ナオはアハハハと笑う。

私は全然笑えないんだけど。


「じゃあ何なのよ。そもそも、今は仕事を頑張れていないわけ?」

「そうだね、ダメダメグダグダ。……でもナツミがそばにいてくれたら、ぐんと回復するかもしれないなぁ。たぶんそう」


たぶん、と。

緩ーい。緩いわ。

その上チャラくて軽い。

とりあえず今はやる気のないタイプの社会人ってことかしら。


「仕事を頑張れてない男もごめんだわ」


そもそも、こんなことを大真面目に答えている自分もどうかと思う。

するとナオが顎に手を当てて考え込む。


「うーん……じゃあ、どうやったらナツミは前に進めるのかなぁ」

「え?」

「俺のお嫁さんになるの、結構いい方法だと思うんだけどなぁ」


何これ。私が前に進めるように言ってくれてるの? 

もしかして『目標を見失ってる』って言ったからこういう話になってるってこと? 

それにしたって、なんて軽いノリで嫁探ししてんの、この子犬。


「嫁になんてならないわよ」

「そっか、やっぱりダメか。残念。また今度チャレンジするね」


へへへ、とナオはかわいらしく笑う。

また今度? 何だそれは。

冗談よね。軽い。軽すぎる。どう考えても遊ばれてるっぽい。

そしてお願いだから一旦『お嫁さん』の発想をやめてはもらえないものだろうか。

その響きにいちいちちょっとだけドキドキしてる自分が恥ずかしくてたまらない。

どうやら弱った私は相当チョロいらしい。


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