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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第三楽章 運命なんて

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03-04.


「久我さんのお兄さんは、名前、何ていうの?」

「弓へんにムの漢字の『弘』に、『臣』の字は弟と同じよ。弘臣(ひろおみ)

「へー、お兄さんも『臣』が付くんだ。なんか久我さんの名前かっこいいなっていつも思うんだけど、お兄さんもかっこいい名前だね」

「うん、そうね。私も『弘臣』って名前を呼ぶのが好きだったわ……」


でももう、名前で呼び捨てになんてしないほうがいいかしら……なんて思ったら、ズキズキと胸が痛くなった。

次に弘臣に会う時は、きっと喜びよりも苦しみの方が強いのだろう。

彼の一番近くにいるのは、私ではないのだから。

谷底まで沈むような気持ちでいっぱいになった私を、穏やかなナオの声が包む。


「ナツミを久我さんのバーに連れて行ったのは間違いだったね。ごめん、怪我したところに塩塗っちゃったよね?」


怪我したところに塩塗る? 

あぁ、『傷口に塩を塗る』って言いたいのだろうか。

時折、独特な言い回しが飛び出すナオの言葉。

「ナオ語録ができそう」なんて思って笑ってしまう。


「ううん、別にナオが謝ることではないわ。お酒、美味しかったもの」

「さすが久我さん、美味しかったよね」


フフッと微笑み合うナオとの穏やかな時間が心地よい。


それから私は、閉じていた箱を開けた。

封じ込めていた思いは、少し解放するだけで次々と溢れ出し、ナオはじっと聞いてくれた。

20年に及ぶ長い恋を、大学で出会ってから現在に至るまで、順番に話した。


「恋人として過ごす時間は夢みたいで、自分だけを見てもらえる優越感や特別感に浸っていたわ。でも……そんな時間はなかったほうがよかったのよ。そのほうがきっと今、もっと楽だった」


途中から歯車は狂い、夢のような時間があったからこそ、落ち始めれば這い上がれない地獄のようだった。

だから追い求めた。

ただひたすら、あの夢のような時間を取り戻したくて。


「でも……私ではダメだったのよ……」


私が好きだったから付き合い、私がそばにいたくて同じ専攻を選び、別れてからも私がそばにいたくて仕事を頑張った。

話せば話すほど、私という人間が弘臣中心に形成されていたということが如実にわかる。

これがダメだった理由の一つであることは、今になればわかることだ。

脳外科医の道そのものに、使命感や情熱を抱いていなかったのだから。


正反対に弘臣は、私になんて惑わされもせず揺らぎもせず、ただ自分の道を進んでいった。

きっと弘臣から見たら、さぞかし私の動機は穢れて見えたことだろう。


そして先日目にした弘臣の彼女は、彼の隣に並んでいた。

凜とした彼女を、むしろ弘臣が追いかける様子すら見えた。

そして折れてしまいそうな彼女を、弘臣が支えようとしていた。

あまり人に興味を示さない人なのに、自分から彼女に歩み寄っていた。

だから彼女は特別なんだってすぐわかった。

自分の道を選んでいない私じゃダメなんだってわかった。

もう諦めるしかないんだって、認めるしかなかった。


私が追いかけ続けた20年に及ぶ恋は、実ることなく、こうして惨めに虚しく終わりを告げた。

そうしたら、私の中身はがらんどうになった。

輝きなんてなくて、ただくすんで暗い空虚だけが残った。

何で埋めればいいのか、何なら埋められるのか、どうすれば輝きを取り戻せるのか……苦しみから逃れたいのにその術がわからない。


「私には何もないから……代わりに何かで埋めることも、別の方向に逃げることもできない……」

「そっか……」

「上手く息もできなくて……苦しい……痛い……ッ……」

「うん……苦しいね。痛いね……」

「うん……ッ……」


俯いて涙を零す私の背中を、ナオがトントンっと撫でてくれる。

その優しい手は、まるで息の仕方を教えてくれているみたいにゆったりとしたリズムを刻んだ。


「ねぇナツミ……好きな気持ちは消そうとしなくたっていいんだよ。その気持ちだってナツミの一部だ。無理矢理引き剥がしたら、きっととても痛いよ」

「今も痛いのに……もっと痛くなるの? 嫌よ……早く終わりにしたい……」


怖くなって肩を縮めると、ナオが背中を摩ってくれる。


「俺ね、ある人に教えてもらったんだ。『閉じ込めてないで全部言葉にして出してみろ。それで、いいことも悪いことも全部認めてやれば、ちょっとはスッキリするぞ』って。辛い時や苦しい時、自分の気持ちを言葉に出して、それを認めてスッと取り込むんだ。いいことも悪いことも全部そのまま。そうすると、きっと少し楽になると思うよ?」

「言葉に……出す……?」

「うん。弘臣さんに思ってることを、思いつくままに声に出してみるといいよ」


仕舞い込むのではなく、声に出す。

20年にも渡る想いなんて長すぎて纏めるのが難しいけれど、言葉にできるだろうか。

半信半疑ながら、思いつくまま、言葉に自分の気持ちを乗せてみることにした。


「弘臣に出会えて嬉しかった。最初は……憧れみたいなものだったと思う。こっちを向いてくれた時は夢みたいだった。初めて話した時……浮かれるほど幸せだった」

「うん、その調子だよ」

「夢に向かって頑張ってる姿を見るのが好きだった。ほんの一時だけ恋人になれて……その時は一番幸せだった。でも私を見てもらえなくて寂しくて……悔しかった。仕事より優先されない自分が……気持ちは理解できても、やっぱり悲しかった。努力した私を褒めてほしかった。関心をもってほしかった。誰よりもそばにいたかった。ほかの人じゃなくて、私を……ッ……望んでほしかった……。い……いつか私を好きに……なってくれればって思っ――……ッ……好きになってくれなくて……寂しかった……悔しかった……っ…………好き」


認めてしまえば簡単だった。

結局、私は未だ弘臣のことが好きなのだ。

それを無理矢理消そうとするから苦しい。終わりにしようとするから痛くてどうしようもない。

声に出したら、それがよくわかった。


「ナツミ、よく頑張ったね」


ナオの優しい声に、私は子供みたいに大泣き。

そして涙と一緒に心の中から何かが流れ出ていったような感覚がした。

これを『憑き物が落ちたように』というのだろうか。

決して痛みがなくなったわけではないのに、霧が晴れていくかのように、心の視界が少しずつクリアになるのを感じた。

好きな気持ちを無理矢理消そうとするのではなく、否定もせず、解決しようともせず、今はただ受け入れる。

好きな気持ちは消さなくていい。

そういう自分を認めて自分の中に取り込む。

ナオの言ったとおりだった。

それだけで、行き場のなかった気持ちがストンと落ち着く感覚がした。


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