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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第三楽章 運命なんて

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03-03.


「水、いる?」


ナオはそう言って、ベッドに座る私の前でしゃがみ込む。

しゃくり上げながら泣いたのなんていつぶりだろう。

そして5つも年下の男性に、しかも世話を焼きたくなるようなタイプの男性に、なぜか世話を焼かれている私。

ナオの温かさに気持ちを緩められた私の顔は、きっと涙でぐちゃぐちゃ。

すごくみっともなくて、くしゃくしゃに歪んでいるに違いない。


「ごめ……ね……っ……迷惑、かけ……」


情けなさと申し訳なさでどんどん自分が嫌になり、再びうわぁぁぁーーんと声を上げて泣くと、ナオは私の頭をふわりと撫でてくれた。


「わかったから。もう謝るの禁止。それで、どうして泣いてるの? 無理には聞かないけど、話してくれるなら聞くよ?」


迷いはあるけれど、酔った勢いの軽口で少しくらい話してみようか。

ナオになら話せそうな気がする。

隣に座るように、ナオを導いた。


「あのね……笑わないで聞いてくれる?」

「えっ、笑える話で泣いてるの?」

「違う! ……けど……笑うかも」


きょとんと首を傾げるナオに、私はギュッと手を握りしめて告げる。


「私ね……ずっと、ずーーっと好きだった人にフラれたの。失恋……したの」

「……失……恋?」

「そう。いい年して笑っちゃうでしょ? 失恋したくらいでこんなボロボロになってるの。ほんと、バカよね」

「……そんなふうには思わないよ」

「ナオは優しいのね」


そんなナオの優しさに甘えるように、私は話を続ける。


「付き合ってた時期もほんの少しだけあったけど……ずっと片思いだった」

「付き合ってたのに、ずっと片思いだったの?」

「うん。だってその人には、私なんかより遥かに大切な夢があったから」


彼は私との結婚より、海外での臨床研修を選んだ。脳神経外科医の道を優先したのだ。

でも自分が同じ道を歩んでみればわかる。

自分の腕を磨き、一流の脳神経外科医となるには、海外で多くの症例を積むことのできる臨床研修が千載一遇のチャンスと言える。


「落ち着いて考えてみれば、私にも彼の気持ちがわかったから……結局嫌いになんてなれなかった。だから彼の背中を、仕事で追いかけることにしたの」

「ふぅん……。それで、ずーーっとって、どのくらい片思いしてたの? 10年くらいとか?」


10年。

ナオにとってはそれが『ずーーっと』に値するらしい。

私は気恥ずかしさを隠せずにモゴモゴと告げる。


「……に……じゅう……年……弱」

「ん?」

「だから……20年よ、20年! 悪い?」


苛立ちをプラスしてムッとした顔をすると、目を見開いていたナオが、俯いて肩を揺らす。

隠していてもわかる。どう見ても笑っている。


「ちょっと! 笑わないでって言ったじゃない! 私は真剣……に――……ッ……」


また涙が出そうになって言葉を詰まらせると、ナオが私の背中を優しく撫でてくれる。


「ごめん。別にバカにしたんじゃなくて、ナツミすごいなって思って。最高だよ、ナツミ」

「最高? すごいって何よ」

「だって20年も思い続けたってことでしょ? ずっと一人の人を思い続けるのって、想像するよりも、ずーーっと難しいことだと思うんだ。それができるナツミは……本当にすごい。うん……すごい」


ナオはしみじみとそう言うけれど――


「でも結果は失恋だから意味がないのよ」


まさにこれだ。

再び視界が潤んでキュッと唇を結ぶと、ナオの右手が頭上に伸びる。

そしてふわふわと頭を撫でられると、その優しさと穏やかさにホッとする。

よしよし、とゆっくり大きな手で撫でられると、頭のてっぺんに温かさを感じて、途端に涙腺が緩んだ。

ダメだ。ナオの前ではもう既に泣き虫な自分を隠せない……。

うわぁぁぁーーん、と子供みたいに泣く私に逆戻りだ。


それからずっと頭を撫でてくれたナオは、私が泣き止んだのを見てフッと微笑んだ。


「そっか……ナツミはそんなに長く久我さんのお兄さんのことが好きだったんだね」

「うん、そうな――ッ……えっ?」


今、ナオの口から『久我さんのお兄さん』って聞こえた気がしたんだけど。なぜ……。


「ナオ、まさか……私の心の声を読んで……」

「またずいぶんびっくりな方に向かったね。俺エスパーじゃないよ」

「だって……じゃあどうして?」


唖然としていると、ナオがふわりと笑った。


「バーで最初、様子が変だったよね。それに『兄弟揃って優秀』って言った時のナツミが、今日イチ寂しそうな顔をしてた」


なるほど……この人、ただふわふわしてるだけかと思ったら、結構ちゃんと見てるんだ。


「うん……さっきのバーの『久我さん』の、お兄さんのことがずっと好きだった。弟の名前は確か……源臣(もとおみ)で合ってたかしら?」

「うん」

「びっくりしたわ。だって声も似てるし、顔も彼を彷彿とさせる感じだったから。おかげで……まともに目も合わせられなかったわ」


アハハと無理矢理笑うと、ナオがまたふわふわと頭を撫でてくれる。


「すごく苦しかったね」


せっかく笑って誤魔化したのに、そうやってナオは私の気持ちに寄り添って、泣かすようなことを言う。

「生意気」と言いたかったのに、ナオに甘やかされた私の心を占めていたのは、許容された安堵の気持ちだけだった。


「うん……ッ……」


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