02-10.
グラスを口元に寄せると、思わず顔が綻ぶようなレモンの香りが漂ってくる。
印象的な爽やかな香りと共にカクテルグラスを口に運ぶと、まずは縁についている砂糖のざらざらを唇に感じる。
そしてグラスを傾けていくと、この砂糖の甘さとさっぱりとしたレモン、そしてブランデーの芳醇な味が混ざり合って、絶妙なマリアージュを生む。
「わぁ……美味しい……」
思わずはみ出た声に、ナオもあの人の弟もクスッと笑っていた。
お酒なんてビールくらいしか飲まなくて、カクテルがこんなに美味しいものだなんて知らなかった。
「ナツミ、少しずつ、ゆっくり飲むんだよ」
「うん。でも飲みやすくて何杯でもゴクゴク飲めそう」
「ナツミってお酒強いの?」
「わかんない」
「俺もわかんない。……ねぇ久我さん、これアルコール何パーセント?」
「30パーセントちょっとですね」
「おー、高いね」
そうなの? あまり飲まないからわからない。
「ねぇ弟、ビールってどのくらいなの?」
「銘柄にもよりますが……だいたい5パーセントほどのものが多いです」
「えーっ!? じゃあこのカクテル、すごく度数が高いじゃない」
ベロンベロンに酔っ払いそうだわ……。
そう思った5分後には、何となくふわふわする感覚になってきて、体がゆらゆらと揺れる。
美味しいけど危険な予感。
でも美味しいから飲んじゃう。
酔っ払ってわけがわからなくなってきた。
でもそんな欲求のまま進んでいく時間が心地よい。
15分後。
(わー、何これぇぇ……すごくふわふわするぅぅ……)
えへへ、と無意味に頬が緩むのは酔っている証拠なのだろう。
そんなぼんやりする頭で思い起こす。
今日はジャズバーと居酒屋でグラスビールを一杯ずつ飲んだだけ。
ジョッキではなくグラスビールだ。
でも普段あまり飲酒をしない体質が災いしてか、異常に酔っ払っている感覚。
ふわふわ~、ゆらゆら~。
これもある意味トロイメライのよう。
そしてグラスを見ると、液体の中でレモンピールも、ふわふわ~、ゆらゆら~と揺れ動いていた。
(やだぁ……何だか私みたい)
酔っ払った自分。
そして……想い人に翻弄されて揺れ動く自分を見ているみたいだった。
(このレモンピールって、時間が経つと……どうなるの……?)
そう思った途端に嘲笑が漏れた。
どうなるのか、なんてわかりきっている。
きっと私と同じだ。
包まれている間はゆらゆらと幸せな時間。
でもそんなのはほんの一時で、私の気持ちなんて関係無しに、独り取り残されていく。
私の気持ちが追いつかないまま、あっという間にヒリヒリするくらいの寒空に晒されて、寒くて、痛くて、苦しくて、そして――
「――ミ? ナツミ、大丈夫?」
ナオの優しい声で、ハッと我に返る。
あぁ、また重暗いものに支配されそうだった……。
「……えっ、何が?」
とぼけた返事をしたわりに視界はじわりと滲んでいて、私は慌てて顔を背ける。
ナオは私の涙に気付いただろうか。
「だってナツミ、すごく……眠そう」
眠そう。よかった。眠そうに見えたなら幸いだ。
「別に平気よ」
「カクテルはストップ」
そう言って、ナオの大きな手が、グラスを持つ私の手をやんわりと止める。
「いーの。美味しいから、まだ飲む」
ナオの手を躱し、グイッとカクテルを口に含むと、「あーもう」とナオの声。
ナオはふわふわしたかわいい雰囲気から一変、憂うような表情で私を見つめている。
「ナツミは……頑張りすぎる人だよね」
「えっ?」
「いいのに……弛めても、俺は困らないよ」
基本的には子犬ちゃんみたいなのに、急に大人の男性に見える時がある。
一体何を考えていて、どういう人なんだろう。
よくわからない。
……知るつもりもないけど。
残り四分の一ほどまでカクテルを飲み進めていくと、グラスの中のレモンピールは案の定、次第にその姿を晒されていく。
ここからどんどん周りを包むものがなくなって、きっと最後にはこの狭い空間に独り取り残されるのだろう。
そう思うと、カクテルを全て飲み切ることに躊躇いが生まれた。
「ねぇナオ……このレモンピール、かわいそうだわ。せっかくお酒と結婚してたのに……独りぼっちでグラスの中に取り残されるのね。そんなのあんまりよ。寂しくて……きっと今は、息の仕方もわからないくらい苦しいわ」
カウンターに突っ伏して、グラスの側面からレモンピールに指でコツンと触れる。
すると少しだけ無言でいたナオが、私を穏やかな声で呼ぶ。
「ナツミ、こっちを見て」
突っ伏したままナオの方に視線だけ向けると、ナオは飲み終えた自分のグラスの縁に指で触れる。
そして縁に付いている砂糖を、サラサラとレモンピールに落としていく。
「ほら、これなら寂しくないよ」
「あ……」
「違うところに目を向けてみると、ほかの何かがあるのかも」
でもすぐに、レモンピールに落ちた砂糖は、ジュワッと滲んで溶けて見えなくなってしまった。
「あっ……どこかに行っちゃった……」
寂しさが湧いて声を上げると、ナオは微笑みながら私を見つめる。
「どこにも行ってないよ。レモンに溶けて一緒にいるんだ」
「一緒に?」
「うん。見えなくても一緒にいるよ。だってその証拠に、レモンピールは元の味より甘いはずだからね」
そう言って優しく微笑んで、ナオは私を見つめる。
細まった双眸から覗く、色素の薄い瞳が綺麗だからだろうか。
胸が波打って仕方がない。
「……そ、そうね」
甘くなったレモンピールは何を思うのだろう。
それでも元々自分を包んでいたものを恋しく思い続ける?
『ずっと包まれていたかった』と泣き続ける?
それとも――
「ねぇナツミ、人もそうかもしれないよ」
「……何が?」
「違うところに目を向けてみれば、周りに『そばにいたい』って思ってる人がいるかもしれないよ、っていうこと。もちろん、ナツミのそばにもね」
それとも、甘く降り注いだものに救いを求める?
甘えて、泣き叫んで、身を委ねて、そして愛を注いでもらう?
「そっ……そんな人、いるわけがないわ」
「どうして? そんなことないよ。きっと……いるよ?」
そう言ってふわりと笑みを浮かべるナオに見つめられると、不意に胸がキュンと鳴った。
(……え? キュンって何?)
自分の気持ちに戸惑って、ナオから勢いよく顔を背けた。
ただでさえ酔っ払って熱を持った顔が、さらに沸騰しそうなほど熱くなる。
困惑して顔をしかめながら、もう一度チラリとナオを見ると、ナオはちょっとビックリした顔をしていた。
(それはそうよ! 私だってビックリしてるもの!)
焦れば焦るほど、顔がボボボッと熱くなる。
何だこれは……。
ナオはただ酔っ払ってる私を宥めてくれてるだけだ。
それなのにドキドキなんてされたら、ナオにとっては大迷惑な話だろう。
それにちょっと優しいことを言われただけで、出会ったばかりの5歳も年下の子犬ちゃんにときめくなんて……。
「わ、私……帰りたい……」
「ずいぶん急だね」
「帰る!」
私は席を立ってバッグから財布を取り出すと、カウンターに代金をトンッと置いて店の出口に向かった。
ただ心が弱ってるだけ。
吊り橋効果みたいなものよ。




