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漬物石、蜂蜜沼に溺れる。~輝きを失った外科医と、光を見失ったピアニストが奏でる再生のコンチェルト~  作者: 暁 美雲(あかつき・みくも)
第二楽章 ふわふわゆらゆら

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02-09.


一人で(さば)くには広く思える店内は、遅い時間にしては客が多く、それでも静かで落ち着いた雰囲気。

カウンター席に座ると、ナオとあの人の弟は親しげに話をしていて、私はその間ひたすら黙って俯いていた。


「ナツミ? 下を向いてどうかした?」

「べ、別に……」


すると――


「夏海さん、お元気でしたか?」


あの人の弟の声に、私は隠しようもないほどに肩を跳ね上げる。

ソロソロと顔を上げれば、ニッコリと微笑む美しい顔が私を捉えていた。


「……わ、私のこと、覚えてるのね」

「ええ。人の顔を覚えるのは得意なんです。一度見れば大体」


なんて不都合な特技だろう。即刻忘れてくれてよかったのに……。

私は引きつりそうな頬を無理矢理キュッと上げて笑みを返した。


「そ、そう……すごいわね」


と、いかにも心のこもらない褒め言葉を述べたのに、さすが接客業。

何の綻びもない美麗なスマイルが返ってくる。

目がくらむほどに美しい……。


「何? ナツミも久我さんと知り合い?」


ビックリとワクワクを混ぜたような顔で私を見るナオ。

そういう楽しいものじゃないのよ……。


「いや、知り合いというか、そうでもないというか……ちょっと挨拶したことがあるだけよ。ほんとそれだけ」


ナオにアハハとごまかしの笑みを向け、チラッと顔を上げてあの人の弟を見ると、再びニコッと美麗な笑みを浮かべる。

あの人はいつも厳しい表情をしていて、こんなふうに笑うことはない。

でも顔の雰囲気は結構似ている。

今この顔を見るには苦しくて、私は再び俯いた。


「夏海さん、今はどちらにいらっしゃるんですか? 兄からはご活躍のことと伺っておりますが――」


するとナオが即座に「待って、久我さん」と遮る。


「俺たちね、お互いのことをよく知らないふわふわ感を楽しんでるんだ。だから俺のこともナツミのことも、久我さんが言っちゃダメなんだよ」

「あぁ、それは失礼致しました。では余計なことは申し上げないように致します」

「そうして。へー……俺とナツミはお互いをあまり知らないのに、そばで見てる久我さんは両方のことを知ってるんだね。すごく変な感じ」


ナオがフフッと笑っていると、あの人の弟が私を呼ぶ。


「夏海さん?」


つくづく心臓に悪い声だ。おかげでいちいちドキドキする。


「は、はい?」

「守秘義務は徹底しておりますので、どうぞお気兼ねなく」


そう言って微笑みを浮かべているが……

それはつまり『兄には言いませんからご安心を』と言いたいのだろう。

私は苦笑いを浮かべる。

別に私の話をしたところで、あの人はどうせ何の興味も持たない。

興味も執着も、私の一方通行なのだから……。


「そ……それはどうも……」


仕事をするあの人の弟にチラチラと視線を向ける。

声も顔も似ているから、否応なしにあの人を連想させる。

飢えた耳がその声を浅ましく拾い、飢えた目がその姿を追尾するように捉える。

違う人なのに、それを思い知れば苦しいだけなのに、それでも姿を追いたくなるほど私はあの人を欲している。

キリッと整った横顔を見るたびに、いちいちあの人の顔を重ねる自分の浅はかさ。

ほとほと嫌気がさして溜息が零れる。


(私って本当にバカ――)

「そうだ、ナツミは何飲む?」

「……へっ?」


ナオに話しかけられ、重苦しい溜息が途中で止まる。

ナオという人は、私が暗闇に飲み込まれそうな時に度々そばにいる人だ。

心地よく響く透明な声で私の名前を呼んで、タイミングよく救い出してくれる。

偶然だろうけれど、昨日今日という短期間で救われたのは何度目だろう。

不思議な人だ。


「ナツミはカクテル好き? ここはワインもいいけど、久我さんのカクテルは特に美味しいんだ。何せトップバーテンダーだからね」

「トップ……バーテンダー……? この辺りで有名な人なの?」

「この辺りとかそういうことじゃないよ。世界のトップにいるバーテンダー。久我さんは世界的に有名なバーテンダーなんだ」

「えっ? そうなのね、知らなかったわ」


弟のことをあの人から少しは聞いていたけれど、まさかそんなに有名なほどとは思わなかった。


「兄弟揃って優秀なのね」

「恐れ入ります。――さて、何をお出し致しましょうか?」

「ごめんなさい。私、お酒詳しくないのよ」


弟とそんな会話を交わしていると、ナオが「うーん」と首を捻る。


「久我さん、何か俺たちにぴったりのカクテルはない? 無茶振り?」


すると弟が美麗に微笑む。


「いいえ、最善を尽くしますよ。うーん、お二人にぴったりの、ですか……。ナオさんはブランデーベースが好きですよね?」

「うん。さすが久我さん。インプットモンスター」

「ありがとうございます。……あー、そうですね、ブランデーベースだと……それなら夏海さん、苦手なものや口にできないものはありますか?」

「いいえ、特には」

「そうですか。では『ブランデー・クラスタ』というカクテルはいかがでしょう。比較的シンプルな味わいなので、カクテルに慣れない方にも飲みやすいと思います」

「じゃあ、それをお願いするわ」

「かしこまりました」


目の前にいるあの人の弟は、似たような顔と似たような声を携え、そして彼と似たような輝きに満ちた美しい手なのに、メスではなくカクテルの道具を器用に操る。

ワイングラスを手にして、飲み口にカットしたレモンを一周させると、そこに何か白い粉状のものをまぶし付ける。


「久我さん、それは塩?」

「いいえ、今日は砂糖です」

「へーえー、砂糖バージョンもあるんだ。それの名前、何だっけ?」

「Rimmed with sugar……日本ではスノースタイルと言います」

「あぁそれだ。スノースタイル。いいネーミングだよね」


ナオとそんな会話を交わしながらも、あの人の弟は器用に作業を進める。

次に、ペティナイフでレモンピールをクルクルと鮮やかな手捌きで剥いて、グラスの中に入れる。

優美で無駄のない所作は見入ってしまうほどだ。

そして数種類の液体をシェイカーに入れて振る。

流れるような手つきとシェイカーを振る姿は非常に美しい。

目を伏せた時の表情は艶っぽく見えて……

あの人はもう少しお堅いイメージだわ、なんてちょっとした違いに気づいては寂しさを感じた。


「お待たせ致しました。『ブランデー・クラスタ』です」


私とナオの前にそれぞれワイングラスが置かれる。

アンバーカラーの液体の中で、レモンピールがふわふわと揺れ動いていた。


「久我さん、ありがとう。それで、これってどういう意味のカクテルなの?」


ナオが問うと、あの人の弟は微笑みを浮かべた。


「それは……ここで僕の口からお伝えするのは野暮な気がします」

「ん?」

「秘密です」

「秘密? ま、いっか」


ま、いっか、って……軽いわね。

するとナオは細長い指をグラスの脚に優しく巻き付けて、私に目を合わせた。


「ナツミとの出会いに感謝して。……でも昨日ぶつかってごめんね」

「ううん、私も悪いんだからもういいのよ。こっちこそごめんね」


互いに「乾杯」と軽くグラスを掲げた。



ブランデー・クラスタ。

カクテル言葉は……何でしょうね。

今は秘密です(*´艸`*)ウフフ

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