02-08.
「ところでナツミは昨日、駅で何してたの?」
ナオに問われてギクッと肩を揺らす。
何をしてたのかって?
駅で想い人が弾いていたピアノの曲が聞こえてきたから引き寄せられて、バカみたいな期待をして、虚しく曲を聴いて、その後は……母校へ行こうとしていた。
何かに縋りたくて、救いがほしくて、そこへ行くことしか思い浮かばなかった。
でもそんな話をできるわけがない。
「……何してたんだろう」
「記憶、どこか行っちゃった?」
ナオにクスクス笑われる。
「あぁでも、ピアノは聴いていたわ。ナオとぶつかる直前に女の子が弾いていた曲で……曲名が何だったか思い出せないのよね」
そう伝えると、ナオがフッと笑う。
「あぁ、あれ? ふわふわ~、ゆらゆら~なあの曲はね、シューマンの『Kinderszenen』オーパス15の7『トロイメライ』だよ」
「あ、そうそう、トロイメライだわ!」
ふわふわゆらゆら?
まぁ確かにそんな感じだ。
そしていい発音でナオの口から聞こえたドイツ語から思い出した。
あの人が言っていた。
『子供の情景』だ。
「さすがピアノを弾くだけあるわ。曲のこと、すごく詳しいのね」
「まぁね。何、ナツミはあの曲好き?」
「あー……好きというか……思い出の曲、かな」
研修医時代の光景が未だに目に焼き付いて離れない。
多分、あの頃が一番想い人と距離が近かったような気がする。
医師への道をひた走る、眩しいあの人。
私が必死にその道を付いていこうとすると、あの人はとても喜んだ。
好きな人のすぐ近くで一緒に頑張っていたあの頃が、一番いい関係だったと思う。
だから、あの頃に戻るために必死に努力した。
優秀な脳外科医であるあの人の隣で、誰よりもそばにいて、一緒に頑張れるように、って。
あの人のために腕を磨いた脳外科医の道。
でも彼を失った私には何が残るのだろう。
私は自分の両手を見つめる。
輝きを失った私の手。
脳外科医としての使命感なんて残らなかった。
脳外科医としての情熱は、恋心の置き換えにしか過ぎなかった。
だからもう、この道は靄がかかって見えない。
進めない――
「――ミ? ナツミ、大丈夫?」
ナオに呼ばれてハッとする。
仕舞ったはずの箱の中身がほんの少しの隙を突いて溢れ出し、すかさず私を覆い尽くそうとする。
一体いつまでこの苦しみは続くのだろう。
早く終わりが見えてほしい。
「あぁ、ごめんなさい。ちょっと……白昼夢……かな」
首を傾げるナオが私を見ているのに、彼のことを考えると涙が溢れそうになった。
慌てて顔を背けると、ナオの優しい声が耳に届く。
「ねぇナツミ……こういう感じ、嫌い?」
「え?」
「お互いのことをほとんど知らない、ふわふわした関係。どういう人なのかな、何が好きなのかなって想像するんだ。俺、そういうのも結構好き」
好きかどうかわからないけれど、今はこれくらいがちょうどいいと思う。
楽しいけれど、浅くて脆い関係。
まるで夢のようで、『トロイメライ』のような……。
「ナツミのこと、無理矢理聞き出したりはしないよ。だから安心して楽しんで?」
「うん、ありがとう」
浅い関係を好むわけではないけれど、今はこれもありだ。
ふわふわ~、ゆらゆら~。
『トロイメライ』のような関係が心地いい。
そして、ふわふわ~、ゆらゆら~なナオと一緒にいるのも心地いい。
それから30分も経たないうちにマサヤ君・タカノ君・シンタニ君の三人は早々と帰宅。
さらに15分ほど経った頃には、ナグさんとミキさんも帰ることになった。
駐車場までナグさんとミキさんを見送りに行くと、ミキさんが車の助手席から顔を出して微笑む。
「ナツミさん、昨日と今日、ありがとう」
楽しかったけれど、もう会うこともないんだろうな……。
そう思うと少し寂しさも湧くけれど、そんなことは言いたくなくて微笑みを返した。
「こちらこそ。とても楽しかったわ」
「じゃあ、気をつけて。またお店にジャズ聴きに来てね」
「うん。ミキさんとナグさんも気をつけて」
バイバーイと元気に手を振るミキさんとナグさんを見送ると、私はハァッと息を吐き出して、キュッと口を結ぶ。
『ふわふわした関係』のまま、さようなら。
これでいいんだ。
私も帰ろう。
そして明日はアメリカに戻って――
「ねぇナツミ、もし時間があるなら、もう一つお店に行かない?」
気持ちを切り替えようとしたところで突然ナオにそう誘われ、ちょっとびっくり。
「え?」
「この近くで友達がバーをやってて、これから行こうと思ってたんだ。一緒に行こうよ」
このまま駅でさようならをするものだとばかり思っていたから、意外な展開だけれど……冷えかかった気持ちが、またふわりと温かさを取り戻した感覚だった。
「……うん」
私はナオに連れられてバーへ向かった。
駅から少し歩いたところにあるそのバーは、看板に『Wine Bar FuGun』と書かれているお店だった。
(ワインか……。全然詳しくないけど大丈夫かな。ナオに任せちゃえばいいか……)
そんなことを不安に思いつつ、ちょっとソワソワしながら後をついていく。
ナオが入口のドアを開けると、店内から声がかかった。
「いらっしゃいませ」
私はビクッと肩を跳ね上げ、足を止める。
心地よく耳に響く、低くていい声……と普通なら思うのだろう。
でも私にとっては冷や水を浴びせられたような感覚だった。
声が似ていたのだ。
ずっと好きだった、あの人に……。
「久我さん、久しぶり」
「ナオさん、お久しぶりです。1年ぶりくらいじゃないですか?」
「そうかもね」
そんな会話を交わしたナオが振り返って私を不思議そうに見る。
「ナツミ、どうしたの? 中に入ろうよ」
ナオが『久我さん』と呼んだことで確信した。
恐らく、この声の主は、あの人の弟だ。
あの人から、弟がバーテンダーになったという話は聞いていたけれど、まさかこの店だなんて……。
あの人と話している姿を見たことはあるが、もう十年くらい前の話だ。
まさか私の顔を覚えてはいないだろう。
それにしたって居心地が悪い予感しかしない。
でも――
「さあ、中へどうぞ」
あの人と似た顔で美麗な笑みを浮かべ、あの人と似た声でそう導かれる。
あの人の姿を追い求める忠犬のような私は、それだけでグッと心を掴まれてしまったような感覚だった。
私は躊躇いつつも、店内に足を踏み入れた。




