02-02.
私は甘いコーヒーを飲みながら、そうだ、と不意に思いつく。
「ねぇ……今って家にいるの?」
『うん』
「じゃあ、近くにピアノがあったりする?」
ジャズバーであんなに素晴らしい演奏をしていたくらいだから、自宅にピアノがありそうな気がする。
『あるよ』
やっぱりあるんだ。
そこで私は爽やかな朝食タイムに彩りをリクエストする。
「何か弾いて?」
『いいよ。何がいいの?』
「わかんない」
『俺もわかんない』
二人でクスッと笑い合う。
ナオと話していると、穏やかな時間が流れているような感覚だ。
「じゃあ、朝食に合う曲って何かある?」
我ながらなかなかの無茶ぶり。まるで酒の肴みたいなリクエストだ。
でもすぐにナオは答えてくれた。
『うん、あるよ』
あるんだ……。
するとバタバタゴトゴトとイヤホンに音が響いてきた後、恐らくスマートフォンをどこかに置いたのだろう。ゴトンと音が聞こえる。
『じゃあ、弾くね』
ナオの声が聞こえてすぐにピアノの音が響いてくる。
イヤホン越しだから少し籠もった音に聞こえるけれど、滑らかに軽やかに、次々と音が連なるその美しい曲は、まさに癒やし系の曲。朝にぴったりだ。
(なんて綺麗な曲なの……。でも……あれ? この曲ってジャズではないわよね?)
てっきりジャズが聞こえてくるものだとばかり思っていたが、恐らくクラシックだ。
それにしても心洗われるような美しい曲。
癒やしの曲で、聴いていると視界がじわりと滲んでくる。
(そういえばジャズバーでも、ナオのピアノを聴いていると泣きたくなったなぁ……)
曲調だけではなく、ナオのピアノ自体に泣きたくなる要素があるということなのだろうか。
次々と軽いタッチで紡がれていくその繊細な音の流れ。
その美しさに、私は涙を浮かべて聴き入った。
曲が終わると、イヤホンにガサゴソと音が響く。
『どう? 朝食に合った?』
「ええ、とても素敵な曲ね。でもこれってジャズじゃないわよね?」
『うん、クラシック』
へーえー、ジャズ以外も弾けるんだ。
「なんていう曲なの?」
『エチュードオーパス25の1、エオリアン・ハープっていうショパンの曲だよ』
「エオリアン・ハープ……とても綺麗な曲で気に入ったわ」
『それならよかった』
「朝にピアノって最高の組み合わせね。ありがとう」
『うん、どういたまし……まして』
スマホ越しに、ナオが咳払いするのが聞こえる。
噛んだ?
ちょっとツボに入って、私は思わずクスッと笑う。
「ええ。でもそれだけ弾ければ楽しいでしょうね。羨ましいわ」
『ナツミはピアノ弾かない人?』
「うん。習ったことないし、弾けないわね」
「ふぅん……。ねぇナツミ、この後って夕方まで何かスケジュール入ってる?』
入っていない。気分的に日本の友達に会う気にもなれなかったから。
それなのに、なぜだろう。『予定がない』と言うのには妙な抵抗があった。暇人だと思われるのは少々恥ずかしいのだ。
「入っ……てるような……入ってな――」
『ないね』
ちょっと食い気味に言い当てられて、私はクッと悔しさを零す。
「入ってないとは――」
『でもないんでしょ?』
再び食い気味に言われてムッとしていると、ナオがクスクス笑っているのが聞こえる。揶揄われているらしい。
「それで……予定が入ってなかったら何なのよ?」
腹が立ってぶっきらぼうに聞くと、ナオは再びクスクス笑う。
『あのね、昨日くらいの時間にまた駅のピアノのところに来てほしいんだ。ちょっと用があって……一人だと寂しいから近くにいて?』
さ、寂しい? 近くにいて?
この男は、何をかわいらしいことを言っているんだ……。
「そういうことは、ほかのバンドメンバーに頼めばいいでしょ?」
『今日はみんなスケジュールが合わないんだって』
「そうなの? うーん……用って何なの?」
『それは……スペシャルミッションだから秘密』
スペシャルミッション? 何だそれは……と突っ込む権利が、はたして私にあるのかわからなくて黙る。
『ねぇお願い、ナツミ。俺を助けると思って。ね?』
何となくウルウルした瞳でこっちを見つめている姿が想像できる。
そんな顔を思い浮かべれば、断るのは至難の業だ。
「……わかったわ」
『やったー。じゃあ、約束。また後でね』
無邪気な調子でナオからの電話がプツンと切れると、私は頭を抱える。
かわいさに絆されて了承してしまった……。
ナオってなんか狡い気がする。
日本で過ごす最後の一日。
駅舎内にある改札を出て、昨日と同じように大学のある方とは逆方向に歩き始めた。
今日はピアノの音が聞こえてこない。
誰も弾いていないようだ。
「ナツミ」
後ろから名前を呼ばれて振り返る。
そして見えた姿に目をぱちくり。
そこにはナオ『らしき』人がいた。
「ナツミ、おはよう。来てくれてありがとう」
太い黒縁の眼鏡をかけて帽子を目深に被る背の高い男性。
顔の判別がしにくいけれど、声はナオだ。
被り物ではなくとも、結局顔は隠したいらしい。
ただ、肩に掛けている大きなトートバッグからほんのり白馬のたてがみと思われる金色のフサフサがはみ出して見えている。
今日も持ってきてはいるらしい。
また被るつもりなのだろうか。
この被り物への執着は一体何……。
「う、うん、おはよう……って、もうお昼だから『こんにちは』だと思うわ」
「ん? あー……そっか。あまり使わないと忘れるな……」
「え?」
「ううん、なんでもない。朝の電話で言い忘れたから、今言ったんだよ」
「そうなの……?」
かわいらしく笑うナオは相変わらず甥っ子……いや、弟っぽい感覚だろうか。
「ナツミ、ちょっとこっちに来て」
そう言って手を引かれて連れて行かれる。
かわいらしいわりには手が大きくて掴む力がガッシリと強くて、急に男性らしさが見えるのには戸惑う。
思い返せば昨日はナオに抱きかかえられたのだった。
かわいいとか甥っ子とか弟とか思うわりに、体は大きくて腕の力も強くて……考えればやっぱりナオはきちんと男性だ。
それにしても、何の躊躇いもなしに手を繋ぐナオに冷ややかな目線を向ける。
(慣れてるのでしょうね……。それか女だと思われてない証拠ね)
恐らく『生物学上の女性』くらいにしか思われていないのだろう。
そんなことを思いながら、ナオに手を引かれて付いていく。
「……ナオ、ピアノ通り過ぎてる。用があるんじゃないの?」
「うん。でもこっち」
どこへいくつもり?




