もう一度また、恋をする。
放課後の空は、よく晴れていた。けれど、彼の心にはどこか陰が差していた。
星波れんは、丸米ゆりの横を歩きながら、スマホの通知音ばかり気にしていた。カップルとしてはもう長い方だろう。付き合い始めたのは高校一年の秋。今は三年生の春。二年半が過ぎようとしている。
なのに、ここ最近は、会話が減った。笑う回数も、互いに目を合わせる瞬間も。
「……あのさ、れん」
ゆりがぽつりと口を開いた。声には遠慮と、ほんの少しの不安が混じっていた。
「明日、どこか行かない? 駅前の新しいカフェ、できたらしいよ」
「……ごめん。部活の後、ちょっと用あるかも」
ゆりの笑顔がほんの少しだけ、曇る。その一瞬を、れんは見逃したふりをする。
すれ違いなんて、よくあること。倦怠期って言葉も、どこか他人事のようだった。
けれど――その日、別れ際に見た彼女の背中は、妙に小さく見えた。
事故は、その夜に起きた。
バイト帰りの道。れんはいつものように音楽を聴きながら、自転車で坂を下っていた。カーブの先に気づいたときには、もう遅かった。ブレーキを強く握ったけれど、対向車のライトが視界を白く染めて――
世界が、暗転した。
目を覚ましたとき、見知らぬ天井が広がっていた。消毒液の匂い、白いカーテン、そしてベッドの横に立つ見知らぬ女の子。
いや、「見知らぬ」――はずだった。
けれど、その目の奥に、どこか懐かしさがあった。
「れん……よかった、気づいたんだね」
その涙声に、れんは困惑する。
「ごめん。……誰?」
記憶は、れんの中からぽっかりと消えていた。正確には、“高校一年の冬以降”の記憶だけがなかった。丸米ゆりという名前にはかすかに聞き覚えがある。けれど「彼女」だったと言われても、ピンとこない。
「本当に、付き合ってた……んだよね?」
「うん。れんの彼女……だったよ。今も……そう思ってるけど」
ゆりはそう言って、寂しそうに笑った。まるで別れを告げられた恋人みたいに、でもまだ信じていたいと願うみたいに。
「でも、無理はしないで。……焦らなくていいよ。少しずつ、また仲良くなれたらって思ってるから」
れんはうなずいた。それは、彼女が自分を信じてくれていることへの答えでもあり、心の奥にある説明できない“温かさ”への反応でもあった。
退院して数日後、れんはゆりに誘われて、近くの公園まで散歩に出かけた。柔らかい春の風が桜の花びらを揺らし、ベンチの木陰には暖かい陽が落ちていた。
「ねえ、覚えてる?」
ゆりがポケットから取り出したのは、小さな栞だった。押し花が丁寧に挟まれていて、端には手書きで「スノーフレーク」と書いてある。
「これ、れんが初めて花の名前を覚えようとした時のやつ。冬の終わり、公園で見つけたんだよ」
「スノーフレーク……」
れんは花の記憶も、その日のことも覚えていない。それでも、その栞を見ていると胸の奥がじんわりと温まる。
「これ、白くて小さくて、先っぽに緑の点がついてる花。名前が可愛いでしょ? 『雪のかけら』みたいで」
ゆりは隣で笑った。れんはその横顔を盗み見る。夕陽に照らされた髪が風に揺れる。瞬きをする度にシャッターが切られる。
「……ねえ、他にも教えてよ。俺、たぶん君にいろんなこと、教えてもらってた気がする」
その一言に、ゆりの目が見開かれ、次第に涙がにじむ。
「……うん、いっぱい教える。だから、また……一緒に思い出つくろう」
次の放課後。二人は天文部の部室を訪れた。そこはかつて、れんが「星が好き」と言ったことでふたりで入部した場所だという。
夜、屋上に登ると、春の星がにじんで広がっていた。
「れん。あれが“スピカ”だよ。おとめ座の一等星」
「スピカ……」
空に向かって指を差す彼女の横顔は、自信と切なさが入り混じったような光に照らされていた。
「昔、私がれんに教えたの。おとめ座の星なんだって。……私たちが最初に見た星座だったの、覚えてる?」
覚えてない。でも、心が揺れる。スピカの名を口にした彼女の声が、れんの胸の奥に何かを響かせる。
ふと、彼の脳裏にフラッシュバックのように景色がよぎった。
——小さな天体望遠鏡。寒空の下、マフラーを分け合って笑う彼女。星を見上げながら、何かを言おうとして結局言えなかった自分。
それが、“記憶”なのか“幻”なのかは分からなかった。
でも、たしかにその時、れんの心は揺れた。
「ありがとう、ゆり」
「……え?」
「知らない星の名前とか、忘れちゃった景色とか、こうやってまた教えてくれるの、なんか嬉しい」
ゆりは微笑んだ。涙を光に溶かしながら。
ふたりの距離が、少しずつ、近づいていく。
ゆりとの時間は、まるで“やり直しの恋”だった。
最初のうちは、お互いにぎこちなかった。れんは、失った記憶の輪郭を探しながら、目の前にいる“ゆり”を知ろうとしていた。そしてゆりは、かつてのれんを思い出しながら、“今のれん”にもう一度恋をしていた。
学校帰りに寄るパン屋。苦手だったはずのトマト入りのサンドイッチを、れんが何気なく選んでいた。
「それ、私が好きなパンなんだよ」
「……そっか。なんでか分かんないけど、手が伸びた」
ふたりで笑った。その何気ない瞬間に、確かにぬくもりがあった。
ある放課後、帰り道の川沿いで、ゆりが立ち止まった。
「れん、ここ覚えてる?」
れんは周囲を見渡す。夕陽の射す川面、白い柵、並ぶ桜の木。どこかで見た気がした。
「……たぶん」
ゆりは、そっとれんの手を取った。細くて、温かい指先だった。
「前に、ここで言ってくれたんだ。“今日、なんか特別な日みたいだね”って」
「なんで?」
「なんにも特別じゃない普通の一日だったの。でも……れんが、“君が隣にいる日が特別なんだよ”って。あれ、すごく嬉しかった」
れんの胸の奥が、少しだけ痛んだ。自分が言ったのに、忘れてしまっていた。思い出せない。でも――彼女の声が、景色が、胸を打つ。
「ごめん、俺……思い出せなくて」
「いいの。思い出さなくても、またそう言ってくれるなら、それでいいの」
彼女の言葉に、風が吹いた。桜の花びらが舞い、二人の間をやさしく繋ぐ。
きっと、こんな何でもない時間が、何よりも大切だったのだ。
当たり前に思っていた時間。惰性で過ぎていった日々。けれど、れんは失って初めて気づいた。
ゆりが笑っていること、隣にいること、手を繋いで歩けること。それがどれだけ“かけがえのない”ことか。
「……ゆり」
「ん?」
「今日みたいな日がいつか特別な日になるのかもね」
彼女の目が揺れる。れんの言葉を聞いて、ゆりは唇を噛んだ。
「……そうだね。うん、すごく特別な日になるよ」
その夜、れんは部屋でふと、過去の写真を見返していた。スマホの奥深くに残っていた、ふたりの写真たち。
文化祭、制服姿、笑ってるゆり。時にふざけて、時に真面目に――そこには確かに、「もうひとりの自分」がいた。
画面の中で、ゆりが手を振っていた。桜の木の下で。
その一枚を見た瞬間、強い痛みが脳裏を刺した。
――桜の下で、「付き合ってください」と言った。
――その日、彼女が嬉しくて泣いていたのを、自分だけが知っている
――そして優しく手を繋いでくれた。
走馬灯のように、過去の記憶が流れ込む。胸が苦しいほど懐かしい感情に包まれて、れんの目からは涙が零れた。
こみ上げる涙に、れんは気づいた。
想いは、なくしても残っている。
忘れても、きっと心のどこかに灯っている。
週末、ゆりはひとりで、あの日と同じ桜並木を歩いていた。春はもう終わりかけで、花びらは散り急ぐように風に舞っていた。
ゆりはベンチに腰掛け、スマホを見つめた。連絡はなかった。
思い出をひとつずつ教え直すたび、れんの目が優しくなっていくのを感じていた。
でも、それが「今のれん」の感情なのか、昔の「記憶」によるものなのか、不安だった。
私じゃなくても、誰かがれんに恋を教え直していたら――同じように惹かれていったのかな。
ふと、そんなことを思ってしまう。
風が髪を揺らす。視界が滲んだその時。
「やっぱり、ここにいた」
ゆりは驚いて振り向いた。
そこにいたのは、れんだった。少し息を切らしながら、まっすぐに彼女を見ていた。
「ゆり」
「……れん?」
彼は一歩近づき、ポケットから何かを取り出した。
――押し花の栞だった。
今度は、ゆりがれんに渡した「スノーフレーク」の栞の隣に、新しい花が挟まれていた。
紫色の、小さな花。
「ムスカリ。花言葉は“明るい未来”だってさ」
れんが、覚えていた。
「俺さ、全部じゃないけど……思い出したよ。星のこと、パンとトマトが好きだってこと……あの日、桜の下で君が泣いてたことも」
ゆりの目が大きく開く。
「でも、忘れていた時間の中で、もう一度君に恋をした」
風が吹く。桜の花びらが、ふたりの間を舞い上がる。
「同じ人に、二度も恋をするなんて、すごいよな。……でも、それくらい君が、特別なんだって気づいた」
れんは、そっと手を伸ばした。
「また、はじめてもいいかな。もう一度、君と」
ゆりの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
でもその顔は、間違いなく笑っていた。
「うん……うん、私もまた、恋したよ。れんに」
ふたりの手が重なり、指先が確かに絡まった。
当たり前に思っていた時間は、実は奇跡のような連なりだった。
忘れることで、失うことで、はじめて気づけた。
今、ここにあるのは“新しいふたり”の始まり。
花びらが舞う春の中、ふたりはもう一度恋に落ちた。




