表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

もう一度また、恋をする。

作者: Jiecai

放課後の空は、よく晴れていた。けれど、彼の心にはどこか陰が差していた。


 星波れんは、丸米ゆりの横を歩きながら、スマホの通知音ばかり気にしていた。カップルとしてはもう長い方だろう。付き合い始めたのは高校一年の秋。今は三年生の春。二年半が過ぎようとしている。

なのに、ここ最近は、会話が減った。笑う回数も、互いに目を合わせる瞬間も。


「……あのさ、れん」

 ゆりがぽつりと口を開いた。声には遠慮と、ほんの少しの不安が混じっていた。


「明日、どこか行かない? 駅前の新しいカフェ、できたらしいよ」


「……ごめん。部活の後、ちょっと用あるかも」

 ゆりの笑顔がほんの少しだけ、曇る。その一瞬を、れんは見逃したふりをする。


 すれ違いなんて、よくあること。倦怠期って言葉も、どこか他人事のようだった。

 けれど――その日、別れ際に見た彼女の背中は、妙に小さく見えた。


 事故は、その夜に起きた。


 バイト帰りの道。れんはいつものように音楽を聴きながら、自転車で坂を下っていた。カーブの先に気づいたときには、もう遅かった。ブレーキを強く握ったけれど、対向車のライトが視界を白く染めて――


 世界が、暗転した。


 目を覚ましたとき、見知らぬ天井が広がっていた。消毒液の匂い、白いカーテン、そしてベッドの横に立つ見知らぬ女の子。


 いや、「見知らぬ」――はずだった。

 けれど、その目の奥に、どこか懐かしさがあった。


「れん……よかった、気づいたんだね」

 その涙声に、れんは困惑する。


「ごめん。……誰?」


記憶は、れんの中からぽっかりと消えていた。正確には、“高校一年の冬以降”の記憶だけがなかった。丸米ゆりという名前にはかすかに聞き覚えがある。けれど「彼女」だったと言われても、ピンとこない。


「本当に、付き合ってた……んだよね?」


「うん。れんの彼女……だったよ。今も……そう思ってるけど」

 ゆりはそう言って、寂しそうに笑った。まるで別れを告げられた恋人みたいに、でもまだ信じていたいと願うみたいに。


「でも、無理はしないで。……焦らなくていいよ。少しずつ、また仲良くなれたらって思ってるから」

 れんはうなずいた。それは、彼女が自分を信じてくれていることへの答えでもあり、心の奥にある説明できない“温かさ”への反応でもあった。


 退院して数日後、れんはゆりに誘われて、近くの公園まで散歩に出かけた。柔らかい春の風が桜の花びらを揺らし、ベンチの木陰には暖かい陽が落ちていた。


「ねえ、覚えてる?」


 ゆりがポケットから取り出したのは、小さな栞だった。押し花が丁寧に挟まれていて、端には手書きで「スノーフレーク」と書いてある。


「これ、れんが初めて花の名前を覚えようとした時のやつ。冬の終わり、公園で見つけたんだよ」


「スノーフレーク……」


 れんは花の記憶も、その日のことも覚えていない。それでも、その栞を見ていると胸の奥がじんわりと温まる。

「これ、白くて小さくて、先っぽに緑の点がついてる花。名前が可愛いでしょ? 『雪のかけら』みたいで」

 ゆりは隣で笑った。れんはその横顔を盗み見る。夕陽に照らされた髪が風に揺れる。瞬きをする度にシャッターが切られる。


「……ねえ、他にも教えてよ。俺、たぶん君にいろんなこと、教えてもらってた気がする」

 その一言に、ゆりの目が見開かれ、次第に涙がにじむ。


「……うん、いっぱい教える。だから、また……一緒に思い出つくろう」


 次の放課後。二人は天文部の部室を訪れた。そこはかつて、れんが「星が好き」と言ったことでふたりで入部した場所だという。


 夜、屋上に登ると、春の星がにじんで広がっていた。

「れん。あれが“スピカ”だよ。おとめ座の一等星」


「スピカ……」


 空に向かって指を差す彼女の横顔は、自信と切なさが入り混じったような光に照らされていた。


「昔、私がれんに教えたの。おとめ座の星なんだって。……私たちが最初に見た星座だったの、覚えてる?」

 覚えてない。でも、心が揺れる。スピカの名を口にした彼女の声が、れんの胸の奥に何かを響かせる。

 ふと、彼の脳裏にフラッシュバックのように景色がよぎった。


 ——小さな天体望遠鏡。寒空の下、マフラーを分け合って笑う彼女。星を見上げながら、何かを言おうとして結局言えなかった自分。


 それが、“記憶”なのか“幻”なのかは分からなかった。

 でも、たしかにその時、れんの心は揺れた。


「ありがとう、ゆり」


「……え?」


「知らない星の名前とか、忘れちゃった景色とか、こうやってまた教えてくれるの、なんか嬉しい」

 ゆりは微笑んだ。涙を光に溶かしながら。

 ふたりの距離が、少しずつ、近づいていく。


ゆりとの時間は、まるで“やり直しの恋”だった。

 最初のうちは、お互いにぎこちなかった。れんは、失った記憶の輪郭を探しながら、目の前にいる“ゆり”を知ろうとしていた。そしてゆりは、かつてのれんを思い出しながら、“今のれん”にもう一度恋をしていた。


 学校帰りに寄るパン屋。苦手だったはずのトマト入りのサンドイッチを、れんが何気なく選んでいた。


「それ、私が好きなパンなんだよ」


「……そっか。なんでか分かんないけど、手が伸びた」

 ふたりで笑った。その何気ない瞬間に、確かにぬくもりがあった。

 ある放課後、帰り道の川沿いで、ゆりが立ち止まった。


「れん、ここ覚えてる?」


 れんは周囲を見渡す。夕陽の射す川面、白い柵、並ぶ桜の木。どこかで見た気がした。


「……たぶん」


 ゆりは、そっとれんの手を取った。細くて、温かい指先だった。

「前に、ここで言ってくれたんだ。“今日、なんか特別な日みたいだね”って」


「なんで?」


「なんにも特別じゃない普通の一日だったの。でも……れんが、“君が隣にいる日が特別なんだよ”って。あれ、すごく嬉しかった」


 れんの胸の奥が、少しだけ痛んだ。自分が言ったのに、忘れてしまっていた。思い出せない。でも――彼女の声が、景色が、胸を打つ。


「ごめん、俺……思い出せなくて」


「いいの。思い出さなくても、またそう言ってくれるなら、それでいいの」


 彼女の言葉に、風が吹いた。桜の花びらが舞い、二人の間をやさしく繋ぐ。


 きっと、こんな何でもない時間が、何よりも大切だったのだ。

 当たり前に思っていた時間。惰性で過ぎていった日々。けれど、れんは失って初めて気づいた。

 ゆりが笑っていること、隣にいること、手を繋いで歩けること。それがどれだけ“かけがえのない”ことか。


「……ゆり」


「ん?」


「今日みたいな日がいつか特別な日になるのかもね」

 彼女の目が揺れる。れんの言葉を聞いて、ゆりは唇を噛んだ。


「……そうだね。うん、すごく特別な日になるよ」

 その夜、れんは部屋でふと、過去の写真を見返していた。スマホの奥深くに残っていた、ふたりの写真たち。


 文化祭、制服姿、笑ってるゆり。時にふざけて、時に真面目に――そこには確かに、「もうひとりの自分」がいた。


 画面の中で、ゆりが手を振っていた。桜の木の下で。


 その一枚を見た瞬間、強い痛みが脳裏を刺した。


 ――桜の下で、「付き合ってください」と言った。


 ――その日、彼女が嬉しくて泣いていたのを、自分だけが知っている


 ――そして優しく手を繋いでくれた。

 走馬灯のように、過去の記憶が流れ込む。胸が苦しいほど懐かしい感情に包まれて、れんの目からは涙が零れた。


 こみ上げる涙に、れんは気づいた。


 想いは、なくしても残っている。

 忘れても、きっと心のどこかに灯っている。


週末、ゆりはひとりで、あの日と同じ桜並木を歩いていた。春はもう終わりかけで、花びらは散り急ぐように風に舞っていた。


 ゆりはベンチに腰掛け、スマホを見つめた。連絡はなかった。

 思い出をひとつずつ教え直すたび、れんの目が優しくなっていくのを感じていた。

 でも、それが「今のれん」の感情なのか、昔の「記憶」によるものなのか、不安だった。


 私じゃなくても、誰かがれんに恋を教え直していたら――同じように惹かれていったのかな。

 ふと、そんなことを思ってしまう。

 風が髪を揺らす。視界が滲んだその時。


「やっぱり、ここにいた」

 ゆりは驚いて振り向いた。

 そこにいたのは、れんだった。少し息を切らしながら、まっすぐに彼女を見ていた。


「ゆり」


「……れん?」


 彼は一歩近づき、ポケットから何かを取り出した。

 ――押し花の栞だった。

 今度は、ゆりがれんに渡した「スノーフレーク」の栞の隣に、新しい花が挟まれていた。

 紫色の、小さな花。


「ムスカリ。花言葉は“明るい未来”だってさ」

 れんが、覚えていた。


「俺さ、全部じゃないけど……思い出したよ。星のこと、パンとトマトが好きだってこと……あの日、桜の下で君が泣いてたことも」


 ゆりの目が大きく開く。


「でも、忘れていた時間の中で、もう一度君に恋をした」


 風が吹く。桜の花びらが、ふたりの間を舞い上がる。


「同じ人に、二度も恋をするなんて、すごいよな。……でも、それくらい君が、特別なんだって気づいた」


 れんは、そっと手を伸ばした。


「また、はじめてもいいかな。もう一度、君と」


 ゆりの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。


 でもその顔は、間違いなく笑っていた。


「うん……うん、私もまた、恋したよ。れんに」


 ふたりの手が重なり、指先が確かに絡まった。


 当たり前に思っていた時間は、実は奇跡のような連なりだった。

 忘れることで、失うことで、はじめて気づけた。

 今、ここにあるのは“新しいふたり”の始まり。

花びらが舞う春の中、ふたりはもう一度恋に落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ