終わり良ければ…
目を覚ますと天井が見えた。
明るい……もう朝なのか。
明るいってことは、助かったんだな。
耳元でチチチッと小鳥の鳴き声が聞こえる。
どこから入ってきたんだろう、外に逃してやるか。
そう思って起きあがろうとするが、やたらと体が重い。
呑み込んだ闇が大きすぎたんだろう。まだ俺の体に馴染んでいない所為か、胃の辺りがムカムカしている。
のっそりと体を起こし避難小屋の中を見回した俺は、目の前に広がる有り得ない光景に唖然とした。
「は?」
小上がりになった板の間にも、出入口の土間にも、人が倒れている。
この人は芦野に見せてもらった写真の人だけれど、あっちの登山者っぽい人は誰だろう。行方不明者は3人じゃなかったのか、5人いるぞ、なんで増えてるんだよ。
俺の頭にとまった小鳥がピュイピュイと囀っている。
あれ? 小屋の中に鳥がたくさん飛んでる。それだけじゃない、窓際にタヌキが3匹寝てる。毛布の横に寝てるのは小さいけどクマだよな。
なんだこれ……もしかしてルルが呑み込んでた動物か⁉︎
疲れた頭がはっきりとしてきた俺は、重い体に鞭打って必死で対処した。
「クロさん緊急事態だ、手伝ってくれ」
最初に窓を開けて、小鳥はクロさんに追い出してもらった。
幸い小鳥以外の動物たちは眠っていたので、タヌキはさておきクマは怖かったが、夢中で外に運び出した。小型で良かった、重かったけど。
だが、まだまだ問題は転がっていた。
避難小屋の外に出ると、そこにも人間や動物が倒れていた。
人間がさらに2人増えた。
それだけでも驚きなのに、カモシカにサル、こっちはイタチか?
呑み込みすぎだろ、ルル! のしかかってきた時、重かったわけだよ!
動揺している間に、動物たちが目を覚ましだした。人間も身じろぎし始めた。
俺は倒れている2人に近づいて声をかけ、避難小屋の中へ誘導した。
被害者は皆呆然と座り込んでいるが、ケガもなく無事みたいなので安心した。
動物はクロさんに威嚇させたら山に逃げていった。みんな生きてたみたいだ。良かった。
安心したら気が抜けて、俺は出入口の前でへたり込んでしまった。
この後どうしたらいいんだろう。被害者は7人に増えてるし、警察か芦野に連絡……あれ? 連絡ってどうやって?
「おーい、奥村っ」
ちょうど芦野の声が聞こえる。
こんな山の中で、幻聴か?
「奥村っ、おい、大丈夫かっ」
倒れそうになっている俺の体を誰かが支えてくれた。
見上げると、そこにいたのは見知ったメガネの男だった。
「あれ、芦野だ」
「あれじゃないぞ、って、おいっ、奥村っ」
どうやら俺はそのまま気を失ったらしい。
目を覚ますとまた天井を見ていた。
板の間に寝かされていて、額に冷やしたタオルが当てられていた。
「ん……」
「気がついたか」
芦野は散らかしっぱなしの荷物を片付けてくれていた。
俺が起き上がるとそばにきて、ミネラルウォーターをくれたので有り難くいただいた。
「大丈夫か」
「ああ、なんとか」
避難小屋の中では救助隊が被害者の救護活動を行っていた。今は救助ヘリを待っているらしい。
俺は芦野にこれまでの経緯をかいつまんで説明した。
俺が原因を呑み込んだことで、もう神隠しは起きないということも報告した。
「お前に依頼して正解だった訳だ」
「ああ……でも、もう登山は懲り懲りだ」
「なんだ、今度夏山登山にでも誘おうと思ってたのに」
「やめてくれ」
もう二度と登山はしたくない。
そう思うくらい大変だったんだ。
察してくれよ、芦野。
しかし、いいタイミングで来てくれたよな。
正直、あの人数をどうしていいか分からなかったし、外部への連絡手段がないってことにもさっき気づいたし。
そんなことを考えていると、思わぬ爆弾発言が飛び出した。
「お前、山に入ったきり3日間連絡なしでさ」
「3日って……今日は何曜日だ?」
「水曜日だ」
「マジか」
3日間って。日曜の夜に黒丸を見つけて、呑み込まれて、呑み込んで……まさかそんなに時間が経っているとは思わなかった。
月曜火曜と連絡なしで、登山口で警備している警察官も俺が入山する姿しか確認していないので、俺まで行方不明になったのかと相当焦ったらしい。
「俺、ここからお前に連絡する手段、なかったんだけど」
「あ」
「あ、じゃないよ」
「迎えに来たので許してくれ」
「……まあ、いいか。来てくれてありがとう、助かった」
俺の記憶はこのあたりで途切れた。再び気を失ったようだ。
目が覚めると白い天井が広がっていて、点滴の最中だったので、そこが病院だと分かった。
どうやらまた3日が過ぎていたらしく、目を覚ましたら土曜の午後になっていた。
芦野にはひどく心配されてしまった。
* * *
俺は友人を見舞う為に病院を訪れている。
今、目の前で寝ている男──奥村ハジメは昔から変わった奴だった。
初めて出会ったのは高校生の時だ。
奥村は都内からT県に引っ越してきたから、高校入学以前にどんな生活を送っていたのかは全然知らない。
第一印象は『なんだかよく分からない奴』だった。
あの頃の奥村はあまり感情を表に出さず飄々としていて、背は高いが痩せている所為か存在感が皆無だった。
教室の窓際の一番後ろの席で、休み時間はいつも寝ていた。昼休みも寝ていた。飯はちゃんと食ってたんだろうか。
勉強は出来る方だったと思う。試験結果が貼り出されると大抵10番以内に入っていたけれど、存在が薄すぎて「誰だっけ?」と毎回話題になっていた。
高校時代は同じクラスというだけで、ほとんど接点が無かったが、一度だけ不思議な経験をしたことがある。
あの日は部活後に他の部員と一緒に体育倉庫で道具を片付けていた。電球が切れていて薄暗かったのを覚えている。
部員の一人、田中が「ひゃっ」と声を上げた。田中は何かが背中に張り付いた、そう主張したが、別に異常はなかったし、張り付くようなものは何も見当たらなかった。
教室へ戻る途中、廊下で奥村とすれ違った。
帰宅部の彼がこんな時間まで学校にいるなんて珍しいと思って、なんとなく声をかけてしまった。
「お前も部活か?」
「いや、ちょっと野暮用」
「そっか、じゃあな」
俺はチラッと奥村の方を見た。
俺の右隣には田中が歩いていて、奥村はその向こう側を歩いていたのだが、彼の目線が一瞬、田中の背中を見た。
そして、すれ違いざまに右手を伸ばすと、背中にいる〝何か〟を掴んで、ペリッと引き剥がすような素振りをした。背中から離れた彼の手には、どこから現れたのか、蠢く黒い生き物が掴まれていた。
彼が何をしたのか、何が起きたのか、俺には理解できなかった。
引き剥がされた田中本人はまったく気づいていない様子だった。
奥村と目が合った。
彼はバイバイと小さく左手を振った。
俺もなにも言わずにそのまま立ち去った。
その〝何か〟を捕まえたまま、彼は薄暗い廊下に消えていった。
天気だった空はいつの間にかどんよりと曇り、大粒の雨が降り始めていた。雨具を持っていなかった俺は、少し急ぎめに自転車を走らせた。
そんな家路の途中に、公園で奥村を見かけた。
彼は柳の木の下で、公園内の池に向かって佇んでいた。傘も差さずに、自分の掌に黒いトカゲのような生き物を乗せて戯れていた。
ちょうど盛りの紫陽花を濡らした雨の雫が、街灯の鈍い明かりを反射してささやかに煌めいていた。
「ほら、仲間のところに帰れ。
もう迷子になるなよ」
そう言って彼は、紫陽花の花にソイツを放した。ソイツは花の上でしばらく彼を見つめていたけれど、闇に溶けるかのように消えていった。
それからも奥村は飄々としていて、変わらぬ高校生活を送っていた。
俺もそれまで通り、特に接点を持つこともなく、単なる同級生で終わった。
卒業後はもう会うこともないだろうと思っていたのだが、彼も同じ大学の同じ学部に進学していた。
それから、意外に懐っこい彼と友人になって10年以上経つが、彼の周りで起こる不思議な現象にも、クロさんの存在にも、今ではすっかり慣れてしまった。
──懐かしいことを思い出していたら、奥村が目を覚ました。天井を見上げたままボーッとしていたが、俺が顔を覗き込むと「あれ、芦野だ」と呟いた。
ついこの間、同じ台詞を聞いた気がする。
とにかく、目を覚まして良かったと、俺は心の底から安堵した。
* * *
目を覚ました俺はスッキリ全快していたので、医者や看護師さんがちょっとビックリしていた。
そのまま退院したかったけれど、いきなり動いたら貧血で目が回ったので、退院は月曜日になった。
ちょうど見舞いに来ていた芦野が、俺んちから着替えを持って来てくれた。
神隠し事件で救出した7人についても教えてもらった。
登山客らしき3人は去年の秋から今年にかけて、それぞれ違う場所で神隠しに遭っていた。他県で行方不明者として捜索されていたようだ。
1人はゴミを不法投棄していた業者だったらしく、きちんと自白して警察に逮捕されたそうだ。
最初に依頼された建築会社の3人は、検査入院したがどこにも異常はなく仕事に復帰している。避難小屋の改装も無事に再開されるらしい。
「そうか、全て解決か」
「お前にはだいぶ面倒をかけたな」
「いや、俺も色々世話になってるし」
「ナポリタン大盛り、食いに行くか」
「ああ」
芦野は退院の日は迎えに来ると言っていたが、忙しい彼に比べて俺は気楽な商売だし、ゆっくり帰るから問題ないと丁重にお断りした。
月曜日、退院した俺はバスで登山口駐車場まで行き、置きっぱなしだった車を回収した。
車は無事だった。良かった。
ようやく自宅のワンルームマンションに帰って来た俺は、電気もつけずに部屋に入った。
白っぽくて薄明るい病室よりも、薄暗い自宅はやっぱり落ち着く。
ベッドに座ってクロさんを呼び出した。
俺より大きくてクマみたいな影が隣に座った。
「ルルはどうしてる?」
『マダ 寝テル』
「そっか」
ルルが目を覚ましたら、また遊んでやろう。
俺はクッション代わりにクロさんに寄りかかった。
靄の塊だけれど妙に柔らかくて気持ちのいいお腹だ。
久しぶりの暗闇に、俺は心の底から安らいだ。