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一緒においで

ドリップバッグにお湯を注ぐと、避難小屋の中に馥郁としたコーヒーの香りが広がっていった。クロさんも黒丸も、鼻と思しき部分をヒクヒクさせている。

〝怪異〟でもやっぱり良い香りは感じるんだろうか……などと呑気に考えていたその時、思いも寄らない事が起こった。


黒丸は丸っこくて懐っこくて可愛いヤツだとしか思っていなかった。

全身を小刻みに震わせているのは、ただ単にコーヒーの香りに反応しているだけだと思っていた。

でも、それは大きな間違いだった。


震えが止まると、直径10センチ程度だった黒丸──靄の塊は急激に膨張していき、ものの数秒で天井にぶつかるほどに巨大化した。

そして膨張しながら頭や手足が生え鼻面が伸びて、ただの球形から犬と思しき四つ足の獣へと変貌を遂げていった。


「いやいや、聞いてないって」


あまりに急展開すぎて頭がついていかない。

もしかしてこれが神隠しの正体なのか?


「うわっ!」


黒い獣にのしかかられ、押さえ込まれる。

靄のくせにやたらと重い。

なんでこんなに質量があるんだ?


『ワオォーーーーンッ』


犬の遠吠えが聞こえる。

一頭ではない。

何十頭もの犬たちの慟哭に小屋が鳴動し、悲しみと怒りの感情が屋内を満たす。

俺の頭の中に見も知らぬ犬の姿が次々と浮かんでは消えていく。

これはなんだ、黒丸の記憶なのか?


辛うじて上半身を起こすと、獣と目が合った気がした。

そいつは大きな口を開け、俺の上半身に容赦なく喰らいつく。

黒く光る牙が、頭に、腕に、胸に、腹に、喰い込んだ。

悲嘆、失望、憤懣、慟哭……様々な感情が直接流れ込んできて、脳が焦げつきそうだ。


 お前、野犬だったのか。

 ごめんよ、怒らせちまって。

 俺を喰らったら、鎮まってくれるのか。

 ……まあ、いいか。

 俺なんかでよければ、喰っちまえ。


そんなことを考えながら、俺の体も意識も全部、真っ暗な闇の直中(ただなか)に呑み込まれていった。


部屋に充満した靄は扉や窓の隙間から外へ漏れ出し、避難小屋をすっぽりと包み込んで夜の暗闇へと溶け込んでいった。



  *  *  *



──気づいた時には、小さなケージの中で独りぼっちだった。


『ここは どこ』

『ママは どこ』


そう鳴いてみたけれど、誰も答えてはくれなかった。

隣のケージの子犬たちが教えてくれた。


『パパもママも もういないよ』

『これから新しいパパやママが 迎えにきてくれるんだよ』


ガラスの向こうで人間という生き物がこっちを指差しながら見ていた。

様々な人間が私の前を通り過ぎた。

どうやらこの場所で飼い主が決まるらしい。

私はたまにケージから出されて、飼い主候補の人間に可愛いがられた。

人間はとても優しい。

でも、なかなか家族にはなれなかった。


ある日若い夫婦がやって来た。

二人は一目で私を気に入り、家族に迎え入れてくれた。

女の子らしい可愛い名前を貰った。

たくさん遊んでくれて、たくさんお散歩に行った。

たくさん撫でてくれて、たくさん愛してくれた。

私はご主人たちが大好きだった。


でも、そんな日は急に終わりを告げた。

ご主人たちはいつものように私を車に乗せて出かけた。

別荘地に滞在して観光をする合間に、私と散歩もしたし遊んでもくれた。

しかし、楽しい思い出のあとには、私にとって最大の絶望が待っていた。


その日もご主人たちは朝のコーヒーを楽しんでいて、私はそばでコーヒーの匂いに包まれながら微睡んでいた。

そろそろ帰ろうと別荘を出ると、ご主人は何故か私を鎖に繋いだ。

そして信じられないことを口にしたのだ。


「ごめんなさい、もう一緒には暮らせないわ、私、母親になるの」

「今まで楽しかったよ、今日でさよならだ」

「元気でね、きっといい人があなたを見つけてくれるわ」


ご主人たちは庭に数日分の餌を置き、私を繋いだまま車に乗り込んだ。

今なら分かる。

それがどれだけ身勝手で悪辣な行為かってことが。

でもあの時はパニックになって吠えて暴れることしかできなかった。


なんで行っちゃうの?

私は連れて帰ってくれないの?

なんで? なんで?


狂ったように吠える声はご主人たちに届くことなく、風に消えてしまった。


大型犬らしい力の強さで暴れているうちに、首輪が外れて私は自由になった。

車で去ってしまった所為だろう、ご主人たちの匂いを追うことはできなかった。

一週間、戻るはずもないご主人を待ち続けた。

餌も水もなくなってしまい途方に暮れた私は、その場を離れさまよい歩いた。


すると、同じような境遇の犬たちに出会うことができた。

寄せ集まって群れをなし、住宅や宿泊施設のゴミを漁って生きているという。


『お前も一緒に来るか』


群れのリーダー犬は私を迎え入れてくれた。

首輪のない生活、仲間と自由に野山を駆け回る毎日はとても楽しかった。

夜になると森の片隅で身を寄せ合って眠った。

かつての飼い主を思い、夜空へ向かって遠吠えする者もいた。


そんな日々さえも人間は邪魔をする。


ある日、人間が私たちを捕まえに来た。

別荘地や近隣住宅のゴミを荒らすことが原因らしい。

群れの3分の1は捕らえられ、残りは山へと逃げた。


逃げ延びた犬たちは、麓のキャンプ場に放置されたゴミや、山小屋近くに埋められたゴミから残飯を漁って飢えを凌いだ。

人間の中には飼えなくなった生き物を簡単に捨てる輩もいれば、ゴミを無責任に放置する輩もいる。人間の来る場所には何かしら食べ物があった。

ゴミの中にはコーヒーかすも含まれていた。その匂いを嗅ぐと自分が捨てられたあの日を思い出して、悲しみや憎しみの感情がとめどなく溢れてきた。


山に逃げ込んでからしばらくして、群れのリーダーだった犬が死んだ。狩猟用の罠にかかってしまったのだ。

程なく仲間は散り散りになってしまい、私はまた独りになった。


あんなに慕っていたのに。

あんなに可愛がられていたのに。

人間は簡単に私を捨てた。

折角得た仲間さえも人間に奪われた。

なんで今私は孤独なんだろう。

なんで幸せじゃないんだろう。

なんで? なんで?


いつしか私の姿は真っ黒な獣に変わっていた。空気中に漂う靄のような体は、山にいる生き物を無差別に呑み込んで、どんどん成長していった。

人間のいる場所でコーヒーの匂いを嗅ぐと、黒い感情が止められなくなって、幾人も呑み込んでしまった。

森の動物たちはこの姿に恐怖し逃げ去ってしまうので、私のいる場所は常に静寂に包まれていた。


私は体を小さくして身を隠した。

どうせ孤独なら、このまま独り漂っていようと思っていた。



そんな時、不思議な人間に出会った。

その人は私に興味を示して、まるで飼い犬に接するように、得体の知れない存在となった私に触れてくれた。

私と似た〝トモダチ〟を連れていて、一緒に来いと言ってくれた。


でも、コーヒーの匂いを嗅いでしまった私は自分を抑えることが出来なかった。

気づいた時にはその人に襲いかかり、一息に呑み込んでいた。



  *  *  *



──黒丸、これがお前の記憶なのか。

ごめん、俺がコーヒーなんか淹れたから辛いことを思い出させちゃったんだな。本当にごめんよ。


俺にはお前の気持ちが少し分かるよ、俺もずっと独りだったから。

でも、そうだな、俺は人間だから、そんなこと言っても説得力ないよな。


ペットを捨てるって、どんな気持ちなんだろう。

家族が居なくなるんだぞ、おかしいと思わないのか。

大切にできないなら、責任を持てないなら、なんで飼うんだよ。

俺にはそんな心理は一生分からない……分からなくて結構だ。


「なあ黒丸、俺と一緒にいようよ。

 俺はずっとそばにいるよ。

 だからもう、悲しいことは終わりにしよう」


真っ暗闇の中でも、彼女の姿形は何故だかはっきりと分かった。

鼻面に皺を寄せ牙を剥き低く唸って威嚇している。

右手を伸ばすと腕に噛みついてきた。

骨が軋んでかなり痛かったけれど、そんなことはどうでもよかった。

左手を伸ばして頭に触れて優しく撫でた。

最初に出会った時と同じように、彼女はピクッと全身を震わせた。


「お前の名前は?」

『ナマエ……』

「俺はハジメだよ。

 お前にも名前があるだろ?」

『……シラナイ……オボエテナイ』

「そっか……

 じゃあ俺が名前を付けてもいいか?」


ほんの少し考えたあと、彼女は右腕に噛みついていた口を離して、噛んでいたところをペロペロと舐め回した。

周囲は闇に包まれたままだったが、彼女の体だけは色彩が戻っていった。

黒灰色の毛並みに青い瞳、般若顔の綺麗な犬だ。


ハスキーだったのか。

女の子だし、どうせなら可愛い名前を付けたいよな。


「ルル……よし、お前の名前はルルだ」

『ルル』

「そうだよ、ルル」


ルルの頭を撫でると、大きな体で俺にもたれかかって甘えてきた。

なんでだろ、コイツの体、あったかいな。

そっか、ハスキーってモフモフしてるもんな。

犬って耳の後ろとか好きだよな。

おいおい、そんなに擦り寄ったら撫でられないぞ。


『モット ヨンデ ナマエ ヨンデ』

「ルル、いいコだよ、ルル」


俺は何度も名前を呼びながら、頭を、背中を、しばらくの間撫でていた。

きっと人懐っこい犬だったのだろう、すっかり甘えて寄りかかっている。

ルルが生きていた時には戻れないけれど、今なら俺にも出来ることがある。

俺が起き上がると、ルルも起き上がってお座りした。


「ルル、おいで」


その言葉と同時に俺の胸元からクロさんが上半身を出した。

両手を伸ばしてルルの顔を包み込んでいる。


『ルル イッショニ イコ』


両腕で抱きしめてもルルは抵抗しなかった。

クロさんはルルを抱いたまま、ゆっくりと俺の中に戻っていく。

それと一緒に、周囲を包んでいた黒い闇も、俺の中に呑み込まれていった──

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