避難小屋に漂うモノ
芦野に会った翌日──
俺は一人、朝から人生初の登山を楽しんで(?)いた。
少し冷たく清々しい空気や、芽吹いたばかりの緑の木々が、日々の生活で疲れた体や心を癒してくれる……はずなんだが。
なかなか良い天気で気分上々……と言いたいんだが。
これが初級者コースだと⁉︎
芦野の奴、覚えてろよ。
神隠しの一件以来、この登山コースと例の避難小屋は立ち入り禁止になっている。
登山道入口には警官まで配備されている念の入れようだ。
ということは、単独登山の俺は誰にも会わない。代わりに誰も助けてくれない。
初心者にとっては孤独で危険な状況だと思う。
芦野の奴、本当に覚えてろよ。
愚痴っていても仕方がないので、俺は自分で自分を鼓舞しながら歩き続けた。
途中休憩を挟みつつ件の避難小屋に辿り着いた頃には、すでに14時を過ぎていた。
ちょうど失踪した3人が到着したであろう時間帯だが、外観は特に怪しいところはない。近くの水場にも、設置されているトイレにも、なんら異常な雰囲気も気配もない。
避難小屋の中に入ってみると、板張りの小上がりにちゃぶ台と座布団4枚が置かれ、部屋の隅に毛布が数枚設置されているだけの、何の変哲もない山小屋だった。
ここでも霊の気配は感じない。
感じるとしたら老朽化の所為で生じた隙間風くらいなものだ。
こんな場所で何が起こるっていうんだろう。
昨日聞いた話だと、野犬が出るかもしれないんだっけ。野犬の集団に襲われるとか?
いや、それじゃあ現場が血まみれになってしまう。だいたい現場検証ではそんな痕跡はなかった。
目的地には着いたが、相変わらず手掛かりはない。
焦っても仕方がないので、俺は休憩をしつつ様子を窺うことにした。
* * *
この季節は午後6時頃に日没を迎える。
山の稜線がオレンジ色に縁取られ、濃紺の夜が降りてくる、そんな時間帯だ。
暗い場所が好きな俺でも、避難小屋で真っ暗なのはさすがに嫌だ。
ランタンを灯すとかなり明るかったので、文明の利器にちょっと感心してしまった。
「暇だ……」
だいぶ寒くなってきたので、俺は毛布に包まってボーっとしていた。
まだ何も起こらないので、出来ることが何もない。それに俺一人だから話し相手もいない。
〝トモダチ〟を呼んでもいいが、怪異が起きなくなる可能性がある。やめておこう。
そろそろ腹が減ってきたし、昼食の残りのおにぎりを食べるとするか。
おにぎりはやっぱり梅干しだよな、うん。
──その時、〝それ〟は唐突に姿を現した。
緊張感のない俺の性格が呼び寄せたのだろうか。
おにぎりを食べ終えペットボトルの水を飲んでいると、目の前を、直径10センチくらいの黒くて丸いものが飛んでいた。俺は今、少し上を向いているから、斜め上45度、距離1メートルってところか。
フヨフヨと漂うように飛ぶ物体を目で追っていると、ソイツは視線に気づいてピタッと静止した。
えっ……なんだあれ、生きてるのか?
試しに目線を逸らすと、そいつはまた動き出した。
水を飲み干してしまったので、空になったペットボトルのキャップを閉めながら考える。
もしかして、あれが、神隠しの、正体?
「いやぁ、まさかねぇ」
思わず声が出てしまった。
それと同時に、黒丸はまるで猫が毛を逆立てたかのように全身を波打たせ、ウニのような刺々しい姿に変形した。
しまった、と思った瞬間……黒丸ウニはものすごい勢いで逃げ去り、積んである毛布の陰に隠れた。
えっ、逃げた?
マジかっ!
俺は四つん這いで追いかけ、正座して腰を落ち着け、大きく深呼吸してから毛布をどかした。
黒丸はまだそこにいた。元の丸い姿に戻っている。
あれ? おとなしいな。むしろ怯えてないか?
小屋の隅っこで震えてるけどさ、俺から見たらお前の方が正真正銘の〝怪異〟なんだぞ、なんでお前が怯えてるんだよ。
お前が神隠しの……いやぁ、無理だよな、これじゃ。
俺は黒丸にスッと手を伸ばした。
人差し指をクルクルと回し、ついでにちょっとつついてみる。
煙? 霞? エアロゾル?
モヤモヤっとしていて、触れたという感覚は全然ない。
黒丸はつつかれてピクンッと反応した。
指先の匂いを嗅ぐような仕草で、怪しいところがないか探っている。
コイツ、鼻があるのかな……見た目じゃ分からないぞ。
でも、単なる黒いモヤモヤの塊が、子犬みたいに可愛く見えてきた。
弱っちいし、このまま消すのもなぁ。
そうだ、コイツも〝トモダチ〟になってくれるかな。
コイツなら一緒にいても楽しそうだ。
「お前、俺の体に来るかい?」
黒丸がピクっと震えた。
ちょっと後退りしているように見える。
「警戒しなくても大丈夫だぞ、
他にも〝トモダチ〟がいるんだ、
お前にそっくりな奴だよ。
おーいクロさん、出てこいよ」
俺が〝トモダチ〟に声をかけた次の瞬間、ランタンの灯りを背にしている俺の、暗く影になった胸元から、漆黒の靄が溢れ出てきた。
それはこんもりと立体的に膨らんで、真っ黒なクマの頭の形になった。
俺の胸から頭だけ出した格好だ。
全体的に黒いので表情が分かる訳ではないけれど、丸っこいフォルムで愛嬌のある形をしている。
そしてモヤモヤっとした質感が目の前の黒丸と似ている。
「おーい、出すのは顔だけか」
『ゼンブ デタラ デカイ』
「それもそうか……
ところでコイツ、お前の仲間じゃないか?
見た目がそっくりだぞ」
クロさんは自分の正面にいる黒丸と鼻を突き合わせた。似たモノ同士お互いに興味津々のようだ。
(俺が)可愛い(と思う)怪異同士の触れ合いって、なんだか微笑ましい。
『ヤッホー ヨウコソ ウェルカム』
「おっと、今日はノリが軽いな」
『ナカマ カワイイ スキ』
「クロさんもこう言ってるし、ほら、来いよ」
黒丸は、こくり、と頷いたように見えた。
* * *
夜の避難小屋で思い掛けず和んでしまい、のんびりとした雰囲気に浸りきってしまった俺は、脳内をリセットする為にコーヒーで一服することにした。
コンロでお湯を沸かしている間、クロさんは俺の背中から頭を出していて、その周りを黒丸がフヨフヨと飛び回っていた。
すっかり仲良しになってるけど、コイツらがいると灯りが吸収されて部屋が暗い気がするんだよな。
まあ、いいか。楽しそうだし。
さて、その黒丸のことだが……
コイツは神隠しとは……関係ないよなぁ。
とても気が弱いし、人を襲えるとは思えない。
じゃあもっと別の〝何か〟が潜んでいるのか。
そういえば黒丸って、仕草が犬っぽいよな。
となると、思い出すのは野犬の話だ。
でも、ここに来てから生き物の気配は一切感じていない。
犬の遠吠えどころか鳥の声すら聞いていない。
……あれ? それっておかしくないか?
野犬に遭遇しなくても、鳥くらい鳴いてるだろ、ピッピッとかチッチッとか。
……やばい、今になって鳥肌が立ってきた。
これだから怪異に慣れすぎてる俺は駄目なんだよ、危機感無さすぎだ。
お湯が沸いたな。
ここは落ち着いてとりあえずコーヒーだ。
俺は昨日購入したドリップバッグを開けた。
うーん、いい香りだ……
──まさかその香りが、怪異を呼び覚ますトリガーになるなんて、俺は思ってもみなかった。
続きは明日12時頃に投稿します。