女心と夏の空
「佐藤さん。ちょっと、用があるんだけど……」
期末テストも終わり、夏休み直前の七月の晴れやかな放課後。私が友人の佐藤春子と今日はどこに遊びに行こうかと教室で相談しているところに、隣のクラスの木暮ひさしが声をかけてきた。
「ここだと話しにくいから、ちょっと、屋上に出る階段のところまで、来てくれない?」
春子が「わたしに?」と戸惑ったように自分を指さして訊くと、「そう、佐藤さん。河合さんにも来られちゃうと困るんだ。すぐ済む用事だから、頼む」と木暮は半分開きかけの教室の引き戸に身を隠し周囲の様子をうかがいながら小声で答えた。
しようがないな、という感じで立ち上がった春子は、「ちょっと待ってて、夏美。行ってくるから」と席を立って木暮の後について教室を出て行った。
ひとり取り残された私は、窓際の自分の席に座ったまま、入道雲の湧き立つまぶしい夏空を呆然と眺めていた。
木暮ひさしは、高校入学直後から密かに想いを寄せてきた男子だった。クラスが隣で接点はなかったが、成績は優秀でバスケ部ではエース格のスタープレーヤー、おまけに気さくで優しい性格なので、学年中の女子に知られた評判の良い男子生徒だった。
それに対して、私は顔以外に取り柄のない、成績も運動も標準レベル、美術的素質も音楽的才能も持ち合わせていない、どこにでも転がっていそうな極めて平凡な高二女子だった。外見に自信を持っている言い方をしたが、これは決して自意識過剰というわけではないと思っている。現に私は、高校に入ってから三人の男子生徒に言い寄られ、渋谷を歩いている最中に芸能事務所職員を名乗る怪しげな男から路上スカウトを受けたこともある。木暮一筋だった私は他の男子をことごとくはねつけ、歌や芝居の才能もないと自覚しているのでスカウトも辞退した。通学電車の窓に映る色白な自分の顔は、黒目が潤んで儚げな面差しをしており、たしかに男の心を惹きつける何かがあるんだろうな、とささやかな自負を持っていた。中学時代にふられた経験は一度もなく、他の女子の彼氏を略奪したことだってあるくらいだ。
「ねえ、夏美の好きな男子って、誰なの?」
高一のバレンタインの時期、中学時代から親友だった春子がおずおずと私に訊ねた。
「ひょっとして、三井だったりしない?」
三井というのは同じクラスの男子生徒で、長身で爽やかなルックスをしているが職員室によく呼び出しを食らう問題児という、別の意味で女心を惹きつけるタイプの男だった。
「ひょっとして、春子は三井が好きなの?」
私が冷やかすような感じで訊き返すと、春子は唇をかんでこくりと静かにうなずいた。
春子はよく見ると愛らしい顔立ちをしている。でも地味で目立たないタイプなので、男子から注目を集めるタイプではない。中学時代の私をよく知る春子は、私と三井を奪い合いにならないか心配しているのだろう。
春子を安心させるように私は笑いながら答えた。
「私は三井みたいなワル系には興味ないなあ。むしろ、真逆の優等生タイプが好き」
「優等生タイプ?」
「そう、優等生タイプ。たとえば、成績も運動神経も良くて、誰に対しても優しいような――」
「それって、隣のクラスの木暮くんのこと?」
今度は私が黙ってしまった。プライドが高い私は秘密主義者で、自分の内面に他人が入り込むのを極端に嫌っていたのだ。
しかし親友の春子だけは特別だ。私は「誰にも言わないでね」と前置きした上で、「高一の五月くらいから、ずっと木暮のことが好きなんだよね」とこっそり打ち明けた。
「だったら、告っちゃえばいいじゃん。夏美だったら、絶対OKでしょ」
春子は肘で私を小突いた。正直、私もそうなんじゃないかな、と密かな自信は持っていた。が、中学時代から一度も男子に蹴られた経験のない私は、木暮から拒絶される可能性を恐れて、自分から気持ちを切り出せないでいた。木暮は異性からの注目をほしいままに集めるタイプなので、すでに何人かの女子がアタックしたという話も小耳にはさんでいた。そして、全員が撃沈したとも。バスケ以外に興味がないんじゃないかとか、じつは年上の大人好みなんじゃないかとか、様々な憶測が乱れ飛んでいた。そんな男に告白して、首尾よくOKもらえると思う? と私は一歩踏み出す勇気が出せないまま高二の夏まで恋心を温め続けてきたのだ。それが粉々に打ち砕かれる瞬間を想像すると、とても怖くて告白など出来るものではない。
窓の外では、空模様が急激に怪しくなってきた。真っ白な雲の峰が灰色に変わり、さっきまで明るかった夏空がにわかに暗転してきた。窓ガラスにぽつり、ぽつりと水滴があたり始めたかと思うと、急にバケツをひっくり返したような土砂降りが始まった。
「こんな時間から夕立かあ。傘持ってこなかったよ」
教室中にざわめきが起こり、あちこちからため息がもれた。
機銃掃射みたいに激しく窓を叩く夏の雨を、私は頬杖をついて半ば放心状態で見つめていた。誰にも気づかれないよう窓の方に顔を向け、静かに涙を流した。春子が木暮に屋上に呼ばれた。屋上や体育館裏という人目につきにくい場所は、異性への告白スポットだと相場が決まっている。まさか、春子が木暮の意中の女子だったなんて。これが他の女子だったら、まだ諦めもつくかもしれない。だけど、よりによって親友の春子が――ただ一人、私の想い人を打ち明けた相手である春子が、木暮の心を射止めた女だったなんて。これから春子とどんな顔をして付き合っていけばいい? もう春子とは、今までと同じ親しさで接することなんて出来っこない。好きな人と同時に、親友まで失うなんて――。私のこの後の高校生活は闇でしかない。
雨にけむる遠い山並みを眺めながら私は後悔で胸が焼き切れそうな思いだった。思えば、たしかに春子にも魅力はある。地味で目立たないが小動物を思わせる愛くるしさが春子にはある。守ってあげたい、と男子に思わせる雰囲気をまとっている。男の中には、こういう女子に心を惹きつけられるタイプもいるのだろう。逆に私は、自信が態度に表れ過ぎていたのかもしれない。同級生から、鼻持ちならない女、高飛車な女、近寄りがたい女と見られていたのかもしれない。略奪女だという噂が私の知らないところで広まっていたのかもしれない。もっと控えめに、同性からも異性からも好感を抱かれる振る舞いを心がけるべきだったのかもしれない。弱気に二の足を踏んでぐずぐずし過ぎていたのかもしれない。プライドなんてかなぐり捨てて、他の女子と同じように、玉砕覚悟でさっさと木暮に告白すればよかったのかもしれない。やろうと思えば出来たはずだ。結末だって、違ったかもしれない。でも、もうすべては後の祭り。動き始めた物語は、後戻りも書き直しも出来やしない。
「ちょっと、夏美」
妙に弾んだ声で春子が教室に戻ってきた。私は急いで涙を拭って「何? どうしたの?」とつとめて平静を装って笑顔を向けた。小走りに駆け寄ってくる春子はとても嬉しそうな顔をしている。何か良いことがあった証拠だ。ショックで頭が真っ白になりかけ、思わず卒倒しそうになった。
「ついてきて、夏美」
春子はふらつく足どりの私を無理やり引き立て教室の外に連れ出した。雨は上がり、窓の外には七月の爽やかな青空が戻り始めてきていた。無責任なほど気まぐれすぎる空にすら、私は怒りを感じていた。今の私のこの気持ち、いったい誰が理解できるだろう?
春子は私の手を引いてひたすら階段を昇っていった。気絶寸前の私は死刑台に連行される受刑者よろしく重たい足どりで階段を一段ずつ上がっていった。もう何もかもどうでもよくなり、このまま屋上から身投げしたい気分だった。
「じゃあね、夏美」
屋上の扉を開くと、春子は私の背中を押して外に突き出し、背後でバタンと扉を閉めた。
目の前には、夏服姿の木暮がいた。真一文字に口を結んだ真剣なまなざしで、まっすぐ私を見据えている。
「河合さん、急に呼び出して、ごめん」
すっかり雨が上がって澄み切った夏空を背景に、木暮は私に歩み寄ってきた。
「俺、ずっと君のことが好きだったんだけど、どうしても勇気が出なくて、さっき、河合さんの友だちの佐藤さんに訊いてみたんだ。河合さん、他に好きな男子がいるかって。そしたら、いないよ、って教えてくれた。だから、思い切って告白することにしたんだよ。河合さん――よかったら、俺と、付き合ってくれない?」
私は胸から暗雲が一掃され、南洋の夏空のように心がまぶしく晴れわたっていくのを感じた。
「は…はい! 私でよければ、喜んで!」