知らない天井
耳元で囁く声を聴いていた。
何も考えずに私の声だけを聴いて、と。
頭がふわふわして、思考はまとまらなくて、意識は深くまで沈んでいく。
深く。
深く。
沈んでいく。
細い指が顔に触れて、首元から頬をなぞっていく。その手つきは慈しむようでもあり、大切な武器を手入れするようでもあった。
女性の声で、カウントダウンが始まった。
その声に合わせて、内側の何かが加速していく。
──3,2,1,
──ゼロ。
ゼロ、の声が頭の中で繰り返し響いていた。
*
リュウは目を開けて、照明の眩しさに再び目を細めた。見覚えのない天井。
明るさに目が慣れてくると、腕には点滴が刺さっていて、医療スタッフの歩美がベッド脇で点滴の管を調整しているのが分かった。歩美がリュウの顔を覗き込む。
「羽根木くん、おはよう……って時間じゃないか。もう夜だからね」
「ここは」
「第3類の居室。今まで過ごしてた部屋の上の階で、丸一日眠ってた」
能力の不安定さや危険度の高さから、外部と隔離された者のフロアだった。外の社会と切り離された白壁の施設で、さらに白い箱の中にいる。朝と夜の違いも、四季の移り変わりもここまでは届かない。
上体を起こそうとするが、何かに押さえられたように体が動かない。視界は天井で固定されている。頭を持ち上げてもぞもぞ指先を動かすリュウに「暴れないでね」と前置きして、歩美はリュウの手足と胸元のベルトをほどいた。今までベッドの柵に身体をつながれて固定されていたことに気づく。
*
ベッドに腰掛けて歩美の説明を聞きながら、リュウは自分の状況を知った。
施設内の器物の損壊。位置情報の偽装。自傷行為。無断外出。許可のない能力の使用。カズマへの傷害。連れ戻しに来た職員への敵対的な振る舞い。
「いろいろ規則を破りすぎたからこの階に来たってこと。妹思いなのは分かったけど、それにしたって多すぎだよ」
施設に戻されたリュウは、すぐに個室に移されて鎮静剤を投与されていた。本来なら第3類に移すには会議や書類のやり取りが必要だが、あまりに違反が多すぎて、時間をかけて処遇を検討する余地はなかったのだ。
個室に入れてもその気になれば扉を壊せるような能力があるから、薬で意識を落として管理する。丸一日以上眠っていて、今になって目が覚めた。
……丸一日、か。
左の手のひらにガーゼが貼ってあるのを眺めて、リュウは一番大切なことを尋ねた。
「ユイは見つかったんですか」
ユイが無事に見つかっていたら、自分が勝手に脱走して個室に入れられてこの件は終わる。山道を下りたのもカズマを傷つけたのも、笹倉に銃を向けられたのも全てが無意味で、規律違反の数々が残るだけ。それでも構わない、とリュウは祈るように思う。
その話をするために君を起こした、と歩美は答えた。
話してください、とリュウは応えた。
*
「こうして話ができるのは、私が鎮静剤をストップしたから。まだ薬が残ってて歩くとふらつくかもしれないから、船坂くんと笹倉先生にこっちに来てもらうね。君はベッドで座ってて」
歩美とリュウがいる個室に、パイプ椅子を抱えた笹倉とカズマが入ってきた。
思わずカズマの足元に目が向かう。何事もなかったように自分の足で歩いていて、靴も新しいものを履いていた。あまり広くない部屋で4人が顔を突き合わせたうえ、笹倉はどうも殺気立っていて、カズマはどこか緊張したように見える。この部屋に窓はない。
「船坂にはだいたいのことは話してあるな。一緒に聞いてほしい内容だから、もう一度聞いてもらう」
「はい」
「早く教えてください」
そして、リュウは施設を取り巻く状況を知らされた。
以前から、施設で使っているデータベースに不正なアクセスがあって、超越者の情報が外部に洩れた可能性があった。施設側は犯人を捜しながらセキュリティの強化を進めていたが、失踪したまま足取りを追えていない羽根木ユイについて、昨晩のうちに不審なメッセージが送られてきた。
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件名:重要なメッセージ
私はM村の廃校舎に羽根木ユイを監禁しています。あなた方との交渉において、彼女の安全を確保することが私の最優先事項です。
ユイを解放していただくために、私がお願いしたいことがあります。施設に収容している船坂カズマと羽根木リュウの2名を、M村の廃校舎3階の教室に引き渡していただき、彼らと話をさせてほしいのです。
細かな交渉条件については後ほどお知らせいたしますが、彼らとの対話を望んでいます。それが叶わない場合、私はユイの安全を保障できないことをお伝えしておきます。
あなた方の特別な力と素晴らしい存在に、興味津々です。この対話が私たちの道を切り開くことを期待しています。
サリー
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丁寧な文面に反して、どこまでも不穏な内容だった。送り主も得体が知れない。
リュウは笹倉の示した画面に目をやり「字が難しいんで代わりに読んでください」と口にした。笹倉は深く息をつく。読み上げる声はいつも以上に低く重く響いた。
「船坂は足を怪我してるし羽根木はベッド上安静だから連れていけない、と上層部が返したんだが。サリーはこちらの様子を把握してるらしい。船坂の怪我はすぐに治るし、羽根木は薬を止めれば目を覚ますはずだ。引き渡せない理由にはならない……と返事があった」
カズマは「いいですか」と口を開いた。笹倉がうなずく。
「そのサリーってひとは超越者ですか?」
「君たちのような指定は受けていないはずだが、“違う”とも言い切れない。把握されて表に出ないだけで、何らかの能力を持っている可能性はある。文章を読んだ感じはだいぶ超越者に執着してる様子だしな」
よく分からないけど、とリュウは呟く。
「教室に行ってサリーをぶっ潰してユイ連れて帰るってことか」
カズマは口をわずかに開けて目を見開きながらリュウを振り返り、笹倉は文字通り頭を抱えて「お前を行かせたくない」と声を漏らした。
「最初っから潰すとか言わないの。対話よ対話。そのうち実力行使になるとしてもまず対話」
歩美に諭されて、リュウは言葉を引っ込めて喉まで戻した。
「交渉の進み方によっては、明日には皆でその場所に向かうことになるかもしれない。不安で落ち着かないとは思うけど、君たちはしっかり寝て明日に備えて」
笹倉とカズマが部屋を出て、歩美も他の居室を見回りに行って、リュウは一人で白い箱に残された。
これからの出来事に備える本能が働いたのか、鎮静剤がまだ残っていたのか、リュウはあっさりと眠りに落ちた。