追走01
白壁の施設を脱走したリュウは、雑木林の中を進んでいた。
山の中に一車線の舗装された道があり、何度かカーブしながら麓の街まで続いている。道路に近寄ったら車で発見されるかもしれないと考えて、道から離れた山中を進むようにしていた。
立ち止まって地図を確かめる暇はないし、おおまかな位置関係は既に頭に入れていた。市街地のことは施設から持ち出した情報誌に詳しく載っていたが、施設の周りは単なる山林で、道路を示す線が続いているだけだった。
位置情報を偽装したとしても、いずれは職員がリュウの不在に気づく。昼食の時間に部屋にいないのはおかしいし、それ以前にカズマが不審に思うかもしれない。自分でユイを探すためには、職員が動き始めるまでに施設から距離を取る必要があった。
今の時間なら太陽は南東にある。枝葉の間から洩れる日光と、時折通る車のエンジン音を確かめながら下へと向かう。室内シューズを通して、落ち葉や小枝を踏む感触が伝わってきた。
風景に紛れながら山を下りることだけを考えて進んでいた、が。
木がまばらで視界がやや開けた場所に出たとき、斜め前方の木陰で誰かの気配がした。
リュウの身体が警戒モードに入る。もし野生動物だとしたら、今は追っているのか追われているのか。この施設に入る前は、ユイと一緒にずっと追われる側だった。秩序や法則を見出せないなかで、自分より強い者に追い詰められるだけ。
引き返すか相手のほうに歩くかを一瞬考えて、リュウは足を前に進めた。
相手との距離は数メートルまで縮まる。
──カズマがいた。
山歩きが趣味の民間人でもなく、施設の職員でもなく、カズマの黒い瞳がこちらを捉えている。
ジャージに身を包んだカズマは、多少呼吸を乱しながら「見つけた」と口にする。
なんでここにいるのか、と軽く混乱した。
職員が連れ戻しに来るなら分かるが、同じく施設で暮らしているカズマが現れるのは理解できない。脱走に誘った覚えはないし、自分はなにも言わずに一人で施設を出た。
「……なんで」
「風呂に行ってみたら電気ついてないし、リュウいないし、窓割れてて床に血ついてるし。出ていったんだってすぐ分かる」
リュウが施設から出たことを悟ったカズマは、職員に告げず、リュウの割った浴室の窓を越えて後を追った。リュウの進んだ経路は多少大回りになっていて、後から出たカズマが先回りして合流する形になったらしい。
「その手大丈夫?」
カズマはリュウの左手に視線を落とす。左手の乾きかけの傷は、地面に手をついた拍子にまた開いていた。視界に入っても意識に上らなかった。
位置情報がバレるから自分でやったと答えると、カズマは言葉を失っていた。
「とにかく帰って手当しよう」
邪魔すんなよ、とリュウは舌打ちする。そういや、自分自身の身体はすぐに治せるくせに、初めて会ったときから他人の傷ばかり心配していた。こっちがそれどころじゃないときに、心配して動きを遮るのだから、鬱陶しくてたまらない。
カズマの視線を振り払うように、リュウは口を開いた。
「……今日、妹が行方不明になったってニュースを観た。3日前からいないんだって」
「K市のユイちゃんのことか」
まだ自分は「行方不明の妹」としか言っていない。ユイがK市の施設にいたことだって、今日の報道で初めて知ったのだ。苛立ちが募る。
「知ってたんならなんで教えてくれなかった!」
「昨日のテレビでやってた。知ってもどうにもならないと思ったし、リュウが知ったら一人で探しに行く気がしたから。それに今も警察が捜査してくれる」
「警察とか信用できねー。ユイのことなんか守ってくれないしな」
夜中にユイの手を引いてコンビニに行ったとき、店員が警察に通報して、リュウとユイは一晩交番で保護された。深夜に出歩いたことを注意されて、翌朝には親元に返されて、警察沙汰になったことに腹を立てた親がユイを殴った。
カズマはリュウの腕を掴んだ。2人の距離がぐっと縮まる。
「ユイちゃんが大事なのはわかったけど帰ろう。脱走したらどうなるか知ってるよね。特にリュウは……いろいろヤバい。今すぐ帰って先生に謝ったらたぶん軽く済むからさ」
「ヤバくて心配なら一人で帰れよ」
カズマは首を横に振った。
最初はカズマを振り切って一人で進むつもりだったが、離れてくれないなら他に方法はある。
位置情報のチップさえ始末できれば、共に行動するのもひとつの選択だった。
カズマの身体から位置情報が発信されていて、それを職員が追うことで2人の現在地が筒抜けになるのだ。現在、リュウの位置情報は施設の浴室で留まるか発信が途切れるかしていて、今ここではカズマの情報が発信されているはず。で、カズマの能力は傷がすぐに治ること。
「チップってどこに入ってんの?俺とおんなじ手のひら?」
「左足の裏」
なんでそんな場所に、と思った。
ここに2人で留まっていたら、職員がやってくるのは時間の問題だ。
リュウはカズマの足元を蹴って転ばせ、地面に倒れ込んだカズマの左足首に手を重ねた。カズマが抵抗するように身をよじって上体を起こそうとする。手早くカウントダウン。
──3,2,1
「死ぬなよ」
──ゼロ。
リュウはカズマの左足を押さえて、零距離で能力を発動させた。
銃声も硝煙の匂いもなく、位置情報のチップはその足ごと吹っ飛ばされた。