5.多頭竜襲来。
異世界初魔物《美味しいもの》。
丘陵地を抜け、川を越え、白樺に似たホワイトウッドと呼ばれる背の高い木々の間を抜けた先、沼地に幾つかの幅広い板を渡しただけの道が続く不毛の土地。
特殊な浮草の上に広がるのが彼らアルバ族の集落、カサナ村だった。
村と言うにはそれなりに規模は大きく、沼地はかなりの面積の浮草がいくつも点在し、その数は多かった。
中には小舟を使い沼地の魚を取る姿、蓮に似た花をつけた植物の根を収穫する姿があり、見た目とは違い案外豊富な食料事情があるのだとわかる光景だ。
「…帝国はこの大集落を埋め立ててしまいたいようでしてね、魔素を含んだこの地の空気は純粋な人間には嫌なもののようで。」
族長だと言うイビト・アルバの言葉には苦々しいものが含まれていた。
「それだけじゃねえさ、奴ら俺たち亜人や獣人の耳や尾を見て下等だ、汚らしいだと罵りやがるじゃねえか、ようは俺たちの事が意味もなく嫌いなのさ。」
続く若者の言葉に、注がれた酒を一息に煽りため息を吐く。
たどり着いた大集落、カサナで歓待を受けた朱天だったが、効いた事情に僅かながら苛立ちを覚えていた。
「…ふん、見た目の違いなど些細なことだろう…食うか食われるかでもなかろうに。」
「そうだろ、あんちゃ…いや、朱天殿もそう思うよな!」
「ザンバ、お客人に無礼だろうが!」
イビトが嗜め、それに朱天がまあ構わんと手を上げておさめ、また酒をあおる。
本来なら、人を「喰らう」側である彼がそう考えるのもおかしな事ではあるが、どうだか今の彼は殺す事に忌避感は無くともなぜか、食おうとも思わなかった。
元々人肉を好むわけでも無く酒と享楽にふける方が多かったとは言え、だ。
「それよりもだ、先程から沼地に妙な気配を感じるのだがあれはなんだ?」
そう言って長い睫毛を見た周りの雌のアルバ族がほう、とため息をつく美貌を、硬い葦に似た植物や木材を組み合わせて作られた家の窓の外へ向けて沼地を指すと、直ぐ。
盛り上がった水面から黒い、長く巨大なものが頭を出した。
「え…あ、あれは…ヒドラ!?」
ぬめぬめとした黒光りする肌に、硬質な鱗、牙はないが強酸性の唾液を滴らせた身の丈2丈以上、メートルにすれば7メートルには及ぶ巨体が見えた、それもまだ頭と首だけで、だ。
魔素が濃いと言うことは魔物が好むと言うこともあり、時にこうした大型の魔獣が入り込むこともあるのがこの地の常識であった。
「…く、何故気付かなかった見張りは何をしておったのか!」
「えっ、だって族長が全員集まれと…」
イビトが叫び、それに答えたのは本来なら今は物見櫓から周りを見張る役目を果たすはずの若者だった。
「はあ!?馬鹿者、見張りまで来てどうするんじゃ!」
そもそもイビトも言葉が足りなかったのだが後の祭りである。
「仕方のない奴らだ…アレは手強いのか?」
側に居た酌をしてくれていた雌の猫獣人に聞けば、怖いのか震えながら答えてくれた。
「は、はい…あれは多頭竜多頭竜…亜竜の一種ですが複数の首を持ち高い再生能力と巨躯を持ち、毒や属性を持つ吐息をも吐き出す厄介な魔獣です。」
「…ふむ、しぶとい上にあの図体か。確かに別段特殊な武具や妖術も扱えないものからすれば脅威かもしれんが…その程度なら心配するな、何故かはわからんがやけに“美味そう”だ…あれは俺がしとめてやろう。」
「ほ、本当ですか朱天さま!」
「や、やはり貴方様は救世のーー」
「ああっ、素敵、抱いて!」
「み、耳触ってもいいです、めちゃくちゃにしてほしいにゃあ!」
……後半、ちょっとおかしな声援があったが気にしたら負けだろう。
立てかけられた草を編んだ戸を除け、沼地に浮かぶ浮草に足を踏み出す。
「……ふん、ただデカイだけの蛇などものの数ではないな…さあ、喰ろうてやるからかかってこい!」
言葉を理解した訳ではないのだろう、しかし。
本能がこの場で一番危険な存在を感じ取ったのかその首をもたげ、朱天へと向き直るヒドラ。
咆哮を上げ、滴る唾液は触れたものを溶かし始め、異臭が辺りに漂った。
シャギャアーーー!!
一声叫ぶと、黒い首を勢いよくしならせ、振り抜くような頭突きをぶつけてくるヒドラ。
それは単純な質量としても、硬さとしても浮草を突き破り、朱天の小柄な体躯を簡単に押し潰しーーた、と誰もが息を飲んだ。
しかし。
「ギャアギャアと騒ぐな、カナヘビ風情が!」
片手でその頭突きを止めた朱天はそのまま、ぬめる頭に爪を立て、ギリギリと握り締める。
ギュアアアァーーー!?
ぶつり、と。
あっさりと肉を握り潰され、えぐられたヒドラは悲鳴を上げた。
「やはりデカイだけで見るところは少ないな…だが、その美味そうな匂いはどうだ…よし、三枚に卸してやろう。」
ニィッ、と。
嬉々として微笑む顔は悪戯好きな童が好物を前に笑うかのようなあどけない顔で、しかしその手には尋常ならざる妖気が込められる。
「妖刃ーー抜刀ーー。」
渦巻く妖気、赤と黒の濃密な質量を備えた得物が、空間を引き裂き顕現する。
禍々しくその刃を顕す大太刀は、先の女武者に対して抜いたあの刀。それは今の彼の身長を超える長さを備えた超巨大刀。
刃が引き抜かれると朱天の額の瘤のようだった角が盛り上がり、控えめながら「ツノ」と呼ぶにふさわしい鋭角なモノへと変じていた。
「フッーー!」
一息に振られた刃は、刹那に3つの斬撃を縦に放つ。
抵抗らしい抵抗もなくまるでふやけた麩菓子を切るようにあっさりと寸断されるヒドラの巨体。
「朱天さま、危ない!!」
油断があった。
まさか三枚に切り裂かれながらまだ反撃があるとは考え無かった為だ。
そう、ヒドラとは多頭竜、と書いてヒドラと読む。
即ちーー頭は、一つでは無い。
切り裂かれたのとは別の頭が側面の沼の中から躍り出る。
飛び跳ねた泥水が朱天の頬にかかる。
「…いい度胸だ、この駄蛇が!」
普通ならば反応もできずに喰らいつかれただろう完全な奇襲。
しかし朱天の反応速度は当然ながら普通では収まらない。
騎馬隊にしたのと同じように振り抜かれた左手が起こす衝撃波が、ヒドラの首を千切り飛ばした。
「まだ生きてるか…往生際の悪い!」
そうして無造作に頭がもげた首を掴み、引き抜くと軽々と沼から引き摺り出された巨体が宙に浮いた。
二本の首が千切れ、三枚に卸され切り裂かれてはいたがまだ二本、合わせて四本首だったらしいヒドラが目を白黒させて空中で僅かにもがく。
しかし空を飛べる訳でもなく、短い象の脚に水かきがついたような足をばたつかせたものの宙に投げ出されては最早逃げ場はなかった。
「さて、改めて刻んでやろうーーそぉら!」
再び閃いた刃が奔り、ヒドラの身体を数十回切り刻む。
バラバラと降り注ぐ肉片、そして最後に血肉に塗れた巨大な石が落下してきた。
それは半透明で、赤黒い。
拳大の石。
「な、なんと濃い魔力を宿した魔石ーー」
族長の呟きが聞こえたか聞こえないのか、おもむろにそれを掴んだ朱天は。
魔石と呼ばれたそれに、かぶりついた。
「ま、魔石を食ってるーー!?!?」
よほど驚く光景なのか?
族長含めた全員が口を開けてぱくぱくと金魚のように息をしていた。
「……うむ、美味い…濃密な、コクのあるとろりとした妖気…たまらん。」
恍惚とした表情でまるで果実を齧るかのように魔石にむしゃぶりつく。
美味そうだ美味そうだと思えたのはどうやらこれが原因らしい。
「……なんだ、何を惚けている貴様ら?」
何がおかしいのだ?、と訝しむ朱天。
その異常な強さ、呆れる程の力、或いは人外だとかとはまた別に、朱天はやはり「異質」であるらしかったーー。