黄泉比良坂
第二次二宮杯、参加作品です。
好き勝手に書いてます。
男の名はなんと言ったか。
日の本の端っこの、旗本に仕えた陰陽師と聞く。
誰かしらのもくろみ、ただの怨恨か。
国を追われ、傷を負わされ、
気づけば黄泉比良坂に立っていた。
行く先の天空に蔓延るは瘴気。その雲を縫うように泳ぐ竜の影。あちこちであがる戦禍の灯火。悲鳴のする方角は遥か彼方だというのに、血の匂いで霧がかかった。
振り返れば、来た道は宵闇に染まりすでに、ない。
陰陽師はぼんやりと思った。
なるほど、これが黄泉の国か。
書記に違わず禍々しい様相を呈しているが、なに、今の私には似合いである。
背負ってきた息子はもう居ない。
陰陽師は書物を抱え、ひとり坂を超えた。
陰陽師が黄泉と呼んだ世界は魔王の支配下にあった。
支配とはあらゆる厭世であり、救い難った。
井戸で水を汲む生け贄は蛇に引きずり込まれ、火を焚けば竜に村を焼かれる。
畑を耕せば死者が甦り、空を見上げれば雲が嵐を運んで来た。
火も水も、土も、頰を撫でる風すらも、総てが魔王のもの。
陰陽師は笑った。
ここは地獄か、と。
そんな行く末のない世界でも、希望というものはみつかるものだ。
陰陽師の希望は深淵と呼ばれる樹海にそびえ立つ魔王城、その目と鼻の先にある王国にあった。
その王国、大河を挟み魔族と対立しながらも城ひとつ崩されたことがない。海の向こうでは王国ひとつふたつ、跡形もなく消え去っているというのに。
と言うのは、王国は何千年も前から大河に棲む水神に護られているからして。いにしえからのしきたりも多くそのひとつには、王女を姫巫女として水神に仕えさせるというものがあった。
水神の呪いか、姫巫女になる王女は代々、恐ろしいほどの美をもって産まれる。
その美しさは世界じゅうの人々の目を眩ませた。
彼女と出逢ったことで、陰陽師はこの世界で、生まれて初めて生きたいと思った。
そう、恋である。
陰陽師はいい歳をして、一目惚れという異名の、恋に落ちたのだった。
彼女を姫巫女の宿命から解き放ち、そばに置きたいと強く願った。
然れど、陰陽師は腐っても陰陽師であり。
神に逆らえることもなくある日、
魔王を倒した。
むしゃくしゃしていたのだ。
そしてそれは陰陽師にとって、他愛のないものだった。
世界から厭世が消えた。
しかし、誰しもが望んだことではなかった。
陰陽師は姫巫女を求めるばかり、この世界の理をも壊してしまった。
世界の魔導師たちはただの木枝と化した杖を茫然とみつめ、新たな時代を恐れた。
舵をとるものを失った、自由の時代を。