第4話 魔法
部屋のドアが開いた音がした。リロット・アーブルを助け、ここに匿い手当てまでしれくれた少女だろうか。まどろみかけていたリロットは、恩人に対峙する覚悟を決めて目を開けた。ベッドの傍にある椅子の後ろに、リロットと同い年くらいの女の子が立っていた。足音のした方を向いて目を開けた瞬間、彼女と視線が交わった。
「あ……」
先に向こう側が声を漏らした。リロットも何か言おうとしたが、上手く言葉が思いつかず、起き上がろうとした。すると部屋の主はこちらに一歩近づいてリロットを手で制した。
「いいよ、まだ寝てて。傷まだ痛むだろうから、安静にしてた方が良い」
その言葉にリロットは僅かに救われたような気がして、軽く頭を下げてお言葉に甘えた。おずおずと頭を枕に沈めた。部屋の主は、一度振り返ってドアを閉めてから、ベッドの傍に椅子を引き寄せて座った。リロットはじっと彼女を見ていた。彼女も、横たわるリロットを見た。
整った顔立ちをした綺麗な少女だった。髪は色素が薄く、肩甲骨にあたるくらいの長さだ。ベルトをしてないジーンズを穿いていて、上はパーカーを着ていた。パーカーは前を開けていて、中に着ているベージュ色のTシャツが見えた。
ぱっちりした目をしているが視線に妙な鋭さがあって、じっと見つめられると少し緊張した。
「いつ起きたの?」
と、彼女は訊いた。椅子をリロットの頭の方に向けて座った。
「ごめん、今入って来た時に起こしちゃった?」
「あ、い、いえ」
少々慌て気味だが、リロットは誤解の無いように否定した。
「ついさっきです」
「そっか」
彼女は椅子の背凭れに背中をつけた。
「良かった。意外と元気そう。気分は大丈夫?」
リロットは寝たまま答えた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます……」
「足の傷、まだ痛むでしょ」
「あ、はい。少しだけ」
魔法による治癒はまだ不完全で、痛みはあった。下手に動くと更に強く痛んだ。
「無理しないで。極力動かなくていいから」
と、彼女は言ってくれた。普通こういう時はほほ笑みかけてくれそうなものだけど、彼女は笑わなかった。
「はい……ありがとう、ございます」
心配してくれているようだったが、少女は何だか平坦な口調だった。声に感情の起伏が無いというか、気持ちがこもっていないというか。顔も無表情で何を思っているのか読み取れなかった。
ベッドを貸して手当てまでしてくれているのだ、親切な人ではある。ただ不愛想なだけかもしれない。
「水あるよ。飲む?」
彼女は机に置いてあったペットボトルに手を伸ばした。
「冷たい方がいいかな。下に冷やしてるのもあるけど」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。じゃあこれ、スポーツドリンクだけど」
彼女はペットボトルのキャップを開けた。リロットが首を起こすと、起き上がれる?と訊いてきた。リロットは短く「はい」と答えて足を動かさないように気を配って腕の力だけで踏ん張った。しかしそれでも傷口に響いて上手くできずにいると、彼女はリロットが状態を起こすのを肩を持ち上げて手伝った。
座った姿勢を維持できるようになると、傷の痛みが少しだけ引いた。リロットは礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
彼女はペットボトルをキャップを開けた状態でリロットに差し出した。
「飲める?」
「はい」
受け取ったペットボトルの飲料水を、初めにちょっとだけリロットは口に運んだ。乾いていた喉を軽く潤してから。一口分くぴっと飲み込んだ。
思わず、はあ、と息が漏れた。
リロットがペットボトルから口を離すと、彼女が手をこちらにやって言った。
「いい?」
目の前に人がいたんだったと、リロットは恥ずかしくなって顔がちょっと赤くなった。
「はい……えっと、美味しかったです」
「ドラッグストアで買ったやつだけど」
彼女はペットボトルにキャップを閉めて机に置いた。机の上を見回し、何か考えているようだった。見ると机には飲料水の他に簡易栄養食品やサンドイッチなどが並べてあった。元からあった物だろうか、それともリロットのために用意してくれたのだろうか。やっぱり心配する姿勢はとても真摯な人だ、とリロットは胸を打たれた。
あの時、もう何時間前のことかわからないけれど、リロットを連れて一緒に逃げてくれたあの時に感じたことは合っていたんだ。この人は見ず知らずの他人に優しくできる――本当にいい人なんだ、と。
涙ぐみそうになって、リロットは俯いた。
異国で出会った人が――それも同じくらいの年の女の子が、こんなに優しい人だったなんて。〝叛逆者〟に不意打ちされて危機に陥った時、もう駄目かと思った。でも私、幸せ者だったんだ。
本当に、私は幸運だった。
こんな良い人に会えて良かった。
彼女は机からこちらに目を移した。
「お腹空いてる? 何か食べれたら……」
「あぁのっ!」
相手の言葉を遮ったわりには、変に裏返ってしまった。赤面する前にリロットはばっと顔を上げて、彼女に向き直った。座ったままできるだけ背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「見ず知らずの……さっき初めて会ったばかりの私にここまで良くしてくれて、本当にありがたく思っています。助けてくれた上に、こんな……手当てまでしていただいて……本当になんとお礼を言ったらいいか………。私を、こんな風に私を助けてくれて、本当にありがとうございました。心からそう思っています。本当にありがとうございました……」
彼女は黙ってリロットが何度も頭を下げるのを見守っていた。まっすぐリロットを見据え、眉一つ動かさない。そんな表情が変わらない彼女に、それでも心の底から優しい彼女に、リロットは最後に詫びを言った。
「本当は、何かちゃんとお礼をしたいんですけど……でも、すみません。今はそんな暇が無くて……本当にすみません。それから……巻き込んで、ごめんなさい」
リロットは人差し指と中指の二本を恩人の、名も知らぬ少女の顔の前に突き出した。
最後にもう一度「ごめんなさい」と謝り、リロットは自分や〝叛逆者〟に関する記憶を消す魔法を唱えた。
突き出した二本の指先が光り、無表情の少女の目を一瞬だけ明るく照らした。魔法の光は一度だけ放たれるとすぐにしぼみ、指先から消え失せた。
この光は眼球そのものには直接影響を与えないので、この女の子の体に悪影響はない。ただ光を見て一瞬視界を遮られると、気がついた時には特定の記憶が失われている。
これで、彼女からはリロットについての記憶が無くなった。彼女の中ではもう、リロットは会ったことのない人物に戻っている。記憶の片隅にぼんやりすらも残ってはいない。
この魔法をかけられると数分間放心してしまうので、その間にリロットはこの場を立ち去る。
本当に優しい人よ、感謝を何かの形で残していきたいけれど、そうするわけにはいかない。これ以上貴女をこちらの世界に関わらせてはいけない。ありったけの感謝だけを込めて、痕跡を残さずリロットはこの場を去る。それが、今リロットにできる最善のことだった。
目尻に浮かんだ涙を指で拭って、リロットは顔を上げた。足の傷はまだ回復し切れていないけど、歩くくらいはできそうだ。ああそうだ、このジャージも返さないと。
上手く立てるかな。
最後にもう一度彼女の顔を見ようと、リロットは顔を向けた。今は放心していてもっとぼんやりした無表情になっていることだろうけれど。
彼女の方を向いて――リロットは絶句した。
そこに座る彼女は確かに無表情だった――だが、それはリロットと話している時に向けられていた無表情と全く同じで、意識が無いという風ではなく、その目はしっかりと、強い眼差しを保ったままリロットを見ていたのだった。
「……は?」
と、声を漏らし、彼女は首を傾げた。
…………え?
「………」
「……え」
リロットも一緒になって首を傾げた。
あれぇ?
放心するどころか、彼女は声まで出し――それまで変化しなかったその顔が今、初めて訝しげに眉をひそめた。
「…………」
言葉が出なかった。何を言ったらいいかわからない。
「……………」
「…………………」
気まずい沈黙に沈んだ。
あまりのことに信じられずリロットは言葉が出ず、彼女も何と言ったらいいかわからないようだった。
あれれ、おかしいな。
この魔法って放心もするよね?
記憶だけ無くして放心だけしてないとかかな?
いや、彼女はリロットのことを忘れた風でもなかった。
あれぇ、私この魔法失敗したことないのに。
呪文間違えたかな?
きょろきょろと困ったように目を逸らしてから、彼女はぎこちなく立ち上がった。びくっとしてリロットは背筋をぴんと張った。
「あ、あー……えっと、食べやすい方がいいよね、多分」
うなじの辺りを撫でながら彼女はリロットの顔を見下ろした。不自然なくらい潔くリロットはこくこくと頷いた。
「あ、は、はい」
「じゃあ、お粥作ってくるね」
「は、はい。よろしくお願いします」
というか会話そのものが不自然だった。
ルールも目的もわからないでボールを投げ合ってどうにか繋げたみたいだった。無言で会話したのとほぼ変わらない気持ちになった。
彼女は椅子を回ってドアに向かうと、一旦引き返してスポーツドリンクのペットボトルを取って椅子に置き、リロットのすぐ横に寄せてくれた。
「これ、好きに飲んでいいから」
「はい。ありがとうございます」
妙に早足で彼女は部屋から出て行った。それでも最後まで親切だった。
階段を降りていく音が聞こえた。
一人ぽつんと取り残されて、リロットは頭を働かせた。
びっくりした。
なんとか平常心を取り繕った、つもりだけど、上手くいっていたかはわからない。
あの人……さっきみたいな時は表情変えるんだなぁ。いや、誰でも困った顔くらいするか。
それにしても、あれは一体どういうことだ?
リロットが魔法を間違えたのか? いや、それはまずない。
あの記憶改ざん魔法だって何度も練習した。それでからじゃないと使ってはいけない代物だ。リロットが間違える筈がなかった。
正しく呪文を唱えた。彼女は間違いなく指先の光を見た筈だった。瞼を閉じていても、たとえ相手が眠っていても効き目がある魔法だ。いくらリロットの魔力が今は弱っているとしても、この程度の魔法なら満足に使いこなせる。
魔法がかからないわけがなかった。完璧に魔法は作動していた。なのに、彼女にはまるで効いていなかった。彼女はリロットのことを、憶えていたのだ。
ただ目の前で急に指先が光って、びっくりさせられただけ、とでも言うかのように。反応に困って言葉が出ない、さっきの彼女の顔はそういう顔だった。
何故だ? 何故魔法がかからなかった?
そんなことありえない。
ありえるわけ―――………
「………!」
ありえない――わけではなかった。ありえなくはない。だがそれはあまりにも稀有なことだった。そしてその稀有なことこそ、「ありえないこと」だった。
だが要因があるとすれば、それは一つだけ。
魔法は魔力によって発せられる。魔力とはつまり、使用者の精神力だ。魔法とは精神力を源として発動し、外部に影響を与える。
魔法の優劣を左右するのは精神力の強さだ。
精神力が強い者は強い魔法を、相応の者は相応の魔法による効果しか得られない。
魔法を使えるだけの精神力を持つ者は、たいていの場合、ほぼ全ての外部環境に影響を及ぼすことができる。
けれど、中には例外がある。
もしリロットの魔法が本当にあの少女に効かなかったのだとしたら。
それはつまり。
あの少女が――リロットを上回る精神力の持ち主だということを意味する。
リロットは目を見開いた。
まさか。
そんなの、信じられない。
彼女は、どう見ても普通の女の子だ。一般的な、ただの女子高生だ。
そんなあの子が、私よりも――魔法を扱うことのできるリロットよりも、精神力が高いだなんて。
しかし現に、彼女にはリロットの記憶改ざん魔法が通用しなかった。効力が完全に無かったのだ。
もし、そうだとしたら――本当にそうなら―――………
「………」
リロットはがらんとした室内を見回した。音が無かった。窓の外からも、何も聞こえない。ただただ静かだった。
変だな――さっきまで一人だったのに。あの人がいなくなったら、突然、寂しくなった。
もぞもぞっと、リロットはベッドの上に伸ばした足を、歩けるかどうか確かめてみた。