第3話 目覚め
ドクン、ドクン。
音が聞こえる。
ドクン、ドクン、ドクン。
すぐ耳元から、脈打つような音が聞こえる。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
一定のリズムで、頭に直接響いてくるかのようで、心地がいい。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
全く乱れることのない定期的なリズム。ぶれることなく一定の間隔を刻んでいる。
ドクン、ドクン、ドクン―――
それが心音だと気づいた。誰かの鼓動がすぐ顔の下で響ているのだとわかった。誰の心臓の音だ? この完璧な、平静に脈打つ鼓動は誰のものだ?
途切れそうになる意識の中で、誰かにしがみつくようにして何かを訴えた。ほとんど無意識だった。ただ誰も巻き込みたくなくて、夢中で「逃げて」と言った。
鼓動のリズムは一定のままだった。その鼓動の主がぎゅっと体を引き寄せた。抱きしめられているのだと悟った。抱えられるようにして何とか立ち上がったが、足はふらふらだった。その鼓動の主は強く肩を抱き留めてくれた。すぐ近くに強い脈動を感じながら、頭の上にいる誰かの顔を見上げた。
こちらを見下ろしていたのは、強い眼差しだった。燃えているようで冷めている。凪いでいるようで揺れ動いている。有無を言わさない強い瞳。ドクン、ドクン。落ち着いた心音を刻みながらその人は言った。
「逃げるよ」
強引に肩を引っ張り、その人は脅威の向こうへと連れ出してくれた。遠くで脅威の叫びと、硬い何かを破損する音がしていた。その人は肩を抱きしめたまま止まることなく強く強く歩いた。
ドクン、ドクン、ドクン。
鼓動を刻む。乱れることのない拍動が心を安心させる。
ドクン、ドクン、ドクン―――
どうしてこの鼓動は、こんなにも穏やかなんだろう――……
見えない手に、突然背中を押されて夢の外に追い出されたかのように、リロット・アーブルは目を覚ました。
夢の中での自分はとても息苦しそうにしていて、今にも崩れ落ちそうだった。体中が痛くて、目を開くのも億劫なくらい怠かった。
だが今は呼吸も落ち着いていた。これ以上ないほどに平和な息遣いだった。汗もかいていない。怠さは少し残るが、気持ちも落ち着いていた。胸の奥にあった不安と焦燥も静まっていた。
目の前にあったのは、見たことのない天井だった。木目までがよく見える。自分は今仰向けに寝ていて、柔らかい寝具に全身を包まれていて、枕に頭を乗せていることを知り、今まで眠っていたんだと気がついた。枕もシーツも乾いていて清潔だった。
頭を動かして身の周辺に目をやった。枕と同じ向きの壁に机が寄せてある。その横にクローゼットがあって、足元の方を見てみると棚が立っていた。どうやらこのベッドは部屋の角に合わせて設置されているようで、対角線にドアがあった。ベッドと机の間に窓があり、そこから差した日の光が室内を明るくしていた。
知らない場所だった。見覚えのない壁と、床のカーペット。ベッドの傍に寄り添うように椅子が置いてあった。勉強机からそこに移動させられたようだった。
誰か人が生活している部屋だ。知らない人様のプライベートな空間だった。そこのその人のベッドに自分が寝ていることが奇妙で、でもそのシーツの爽やかさも枕の柔らかさも非常に心地よかった。
何故か、久し振りに――安心できたような気がした。
久し振りに?
はっとリロットは思い出した。全ての記憶が甦った。ついさっきまでの――どれだけ時間が経ったかはわからないが――自分が置かれていた危機的状況と、それを助けてくれた誰かの存在。あの時リロットを引き連れて、安全な場所まで非難させてくれた人がいた。名も知らない女の子だった。うろ覚えだが表情だけは落ち着いていて大人っぽかった、リロットの怪我を心配してくれた優しい人だった。
ということは、ここはその人の家ということだろうか。あそこから何とか逃がしてくれて、それでここに匿ってくれているのだろうか。
ああ、なんていい人だろう。
夢の中で絶えることなく聞いていたあの心音――あれはあの人の心臓の鼓動だったのか。一糸乱れない波のような鼓動。なんでかとても――とても心地が良かった。
〝叛逆者〟の姿はここにはない。気配もしない。とりあえずはあの危機的状況から逃れられたということだ。今更ながら、しかも見ず知らずの他人のおかげであることを、リロットはほっと胸を撫で下ろした。
部屋の中は静かだった。物音は自分が動いた時に布がこすれる音と、ベッドが軋む小さい音だけだった。それだけであとは、息を止めてじっとすると室内はしぃんとした静寂に包まれた。
ちょっと体を起こしてみようとした。すると左足に鋭い痛みが走った。
ちょうど足の傷を覆うように包帯が巻かれていた。不意に動くと痛みが走る。リロットはそうっと肘で起き上がり、足は動かさないでおいたまま、どうにかベッドの上に座った。
この包帯も、あの人が手当てしてくれたものだろうか。本当に、何と礼を言ったらいいだろう。何度か巻き直してくれたのか、深かった筈の傷口の回りの包帯には血も染みていなかった。
体を起こしてみて改めて自分のことを見回してみると、着ている服も変わっていた。肩から手首にかけてラインが走った赤色のジャージを着ていた。チャックは胸の所まで閉められている。そして下は下着一枚だった。これは自分が元から穿いていたパンツだった。着ていた服は脱がされて、別の綺麗な衣服を着せられているのだった。
おそらくこのジャージも、あの人の物だ。自分の服を貸してくれたんだ。袖を鼻につけると、良い匂いがした。ついさっきまでも嗅いでいたような匂いで、癒される香りだ。
何から何まで、どれだけ礼をし尽くしても足りない――寝ている間に沢山の恩を受けていた。心から礼を言って、何か一つでもお返ししたい。
だが、そんな暇は無い。
きっとまだこの近くに〝叛逆者〟はいる筈だ。放っておいたら大変なことになる。一刻も早く対処しに行かなくてはならない。
足を動かすと、まだ鋭い痛みがあった。傷を負わされた時に比べればいくらか痛みは和らいだものの、まだ動くのには厳しかった。
ゆっくり歩くのならともかく、走ることはとてもできそうにない。機敏に動けない上に傷が悪化するのは目に見えている。
立ち上がれないかともう一度頑張ってみて、やっぱり駄目だった。とてもじゃないが痛みに耐えられない。
この傷じゃだめだ。まずは足を治さないと。
そのためにはもう少しばかりここに居座るしかないようだった。この家の住人には迷惑をかけてしまうが、幸いリロットの魔力は弱まっているので奴に探知される危険性は少ない。体と並行して魔力の回復も図りながら、奴への対策を考えよう。歯がゆいが今はそれしかない、それしかできない。
包帯の下の切り傷に重点的に回復魔法を注ぎながら、リロットは再び横になり枕に頭を乗せた。
ふわっと香る他人の匂い。その香りに包まれると焦る心が安らいだ。傷口が徐々に回復の兆しに向かうのを感じながら、リロットは目を閉じた。
あと少し。あともう少しだけ、ここで。
ここで休ませて。
この優しさに包まれた場所で、私の体と心を。
※
部屋で謎の美少女を寝かせている間、学校は欠席したとはいえ他に何かする気にもなれず、テレビもすぐに消して、椎名雪はほとんど付っきりで少女を看病していた。看病と偉そうなことを言いはするものの、汗を拭いたり足に巻く包帯を代えたりするだけで、少女の眠る姿を傍に座って見守っているだけだったのだけれど。一応ドラッグストアで熱冷ましシートを買ってきたのだが、美少女が熱を出したりすることはなかった。足の傷以外に深刻な怪我は見受けられず、寝顔も安らいでいて大きな心配は無さそうだった。ただ問題はその足の傷で、本音を言えば早く医者に診てもらった方が良いことは間違いなかったのだけど、美少女本人にああも強く拒まれたので、勝手に病院に連れて行くのは気が引けてしまった。結局のところ雪は消毒とあと体を濡れタオルで拭くくらいしかできず、容態を傍観しているしかなかった。
暫くすると発汗も治まり、表情も随分と楽そうになった。
三度目の包帯交換を済ませて、少女の体を拭くのに使ったタオルを持って下の階に降りた。時刻は正午近くだった。今のところまだ少女は目を覚ましていない。気絶するように眠ってから四時間弱経った。寝返りもせずにじっと眠り続けている。相当疲労していたのか、雪に見抜けない症状があるのか。
そのうち気がつくだろうから、そうしたら話を聞いてみよう。外人さんだけど、住宅街で化け物から逃げている時に「逃げて」とか「お願い」とか実に自然に喋っていたから、言葉は通じる。全部何もかもわからないことだらけだから、事情を聞かないことにはどうしようもない。
リビングを通って脱衣所の所まで行って、洗濯が終わった少女のワンピースを取り出した。入れ替わりに持ってきたタオルを洗濯機に放り込んで、ハンガーを取ってワンピースを干した。リビングの除湿器の電源を入れてその真上にワンピースを吊るし、家族が帰って来そうな時間帯まではそうして乾かすことにした。
椎名家に一番早く帰宅するのはだいたい雪だ。雪は部活動に所属しておらず、放課後教室で友人と談笑して時間を潰すことも稀なので誰よりも早く帰ってこれる。次に早いのはパートの母で、だいたい午後四時を過ぎた頃に帰ってくる。買い物をしてからだともう少し遅れることもある。妹は手芸部に入っていて運動部ほどでないが若干帰りは遅れる。父はもっと遅い。
あのなんだかよくわからない化け物に追われていた女の子を匿っていること――雪の家族には何と説明しようか。妹は母はどんな反応を寄こすだろう?
想像に易いことだが、ほぼ間違いなく病院に行かせることを勧める。或いは警察に報せる。若しくはその両方だろう。断言できることだが雪のようにそのまま放ってはおかない。妹は丸め込めるが母はそうはいかない。父などもってのほかだ。
家族には黙っていようか。いや、それは流石に無理がある。午後四時くらいまでには目を覚ましてもらって、事情を聞いて別の場所に移動してもらうのが最善だ。もちろん病院を勧める気ではいるけれど。
あれ、妹は今日部活あったかな。
どうだったかなぁ。
妹が作った弁当は先程食べたので腹は空かなかった。あの子が起きたら何か食べさせて上げたいのでご飯と冷凍食品くらいの準備はしている。スポーツドリンクと飲むゼリータイプの栄養食も用意してある。あとはあの子が目を覚ましてくれるだけだった。
ソファに座ってテレビを観覧する気にも、やっぱりなれなかった。除湿器の稼働音がけたたましく鳴っている。除湿器が排気する風にあたってかすかに揺れるワンピースを一瞥してから、雪はリビングを出た。
女の子の様子を見に行こうと自分の部屋に戻った。ドアを開けて室内に足を踏み込んだ。その時、言葉ではどうにも表現できないような違和感が部屋の中に充満しているのを感じた。まるで無人の筈の部屋で人が動いていたみたいな。
まさか、と思って変わらない姿勢で寝ている美少女に目をやった。見て取れる異変は特になかった。部屋を出た時と同じ姿勢で寝ていた。周囲の環境も変化はない。
気のせいか、と思ったその時。
ぱちっと少女の目が開いた。
その少女の青い目と、雪の目が合った。