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慟哭の魔法少女  作者: 黒飴 巴
11/11

第11話 この手を

 入浴を終えて椎名雪が二階の自室に戻ろうとした時、隣の部屋から妹の楓が出てきた。楓は雪の前に入浴を済ませており、既に寝間着姿だった。

「あ。お姉ちゃんお風呂終わったんだ」

「うん」

 雪の妹は今年で中学二年になった。昔ほど姉にべったりではないけれど、何かと気を遣ってくれたりと姉妹仲はかなり良い。あれこれ言いながら弁当まで作ってくれる楓は雪にとっては可愛い妹だった。

「今ジュース持ってくるけど、お姉ちゃんもいる?」

 雪とすれ違いに階段に行きながら、楓はそう訊ねた。雪は自室のドアノブに手をかけて首を振った。

「ううん、いらない」

「そう」

 階段を降り始めた妹を、雪は呼び止めた。

「そうだ、楓」

 手すりを掴んで、楓はこちらを振り向いた。

「なに?」

「お母さん何か言ってなかった?」

 楓は訝しそうに首を傾げた。

「何かって?」

「ほら、今日風強かったじゃん」

「ああ……。別に何も言ってなかったけど。家の物は何も飛ばされてないって」

「それなら良かった」

 ドアを少し開けて、雪は妹に言った。

「それと、楓」

「うん」

「明日ゆっくり寝てるから、起こさなくていいよ。あと掃除も自分でするね」

「え、うん……」

 楓はちょっと驚いた顔をしていた。

「どうしたの、珍しいね。ぼやぼや寝てるのはいつものことだけど、お姉ちゃん掃除あまりしないよね」

「うん。まあ、いつも楓にやってもらってるから」

 妹が嬉しそうに笑うのを見て、雪は若干罪悪感を感じた。本当は、自主性が目覚めたわけではないのである。

「そう。じゃあ明日朝は放っておくね」

「うん。それと少しの間、私の部屋入らないでおいて」

「え?」

「自分で掃除するっていうのもあるからさ」

「あ、そう……掃除以外で入るのは?」

「それもちょっとダメ。用事あったら呼んで? そっち行くから」

「うん。……ちなみに、理由とかあるの?」

「うーん。内緒」

「えー」

「もし入ったら、楓にアレなことする」

「アレって? アレって何?」

 ドアで開けた狭い隙間に滑り込むようにして、雪は部屋に入った。

「そうだなあ、じゃあエロいこと」

「はぁ? 妹に何する気してんの――」

 楓がセリフを言い切る途中で、雪はドアを閉めた。

 ああ、うちの妹は可愛いなあ。思春期でちょっと背伸びしたい気質があるところも面白い。楓は純粋だから、欲しい反応が返ってくる。

 今度どれだけ性知識がついたか何気に訊いてみよう。

 いずれ迎える妹のかけ引きを想像しながら雪は聞き耳を立て、楓が階段を下りたのを確かめた。こちらの様子が悟られない所まで楓が離れたことを確認すると、雪は部屋の中に目を向けた。

 ドアの正面に窓がある雪の部屋の角に置いてあるベッドに、長髪の美少女が座っていた。その美少女、リロット・アーブルは雪の寝間着を着ており、胸が少しきついのか第二ボタンまで開けていた。

 リリィが着ていたワンピースはドア脇のフックに掛けてあった。裾が破けたり血が染み込んでいたりするので、雪の服を譲るからワンピースは処分しないかと相談していた。

 リリィは背筋を伸ばして座り、態度が何だか遠慮気味だった。

「もっと楽にしていいよ、リリィ」

「はい……」

 気持ちだけリリィは姿勢を楽にした。もともと礼儀正しい子だし、これが素なのかもしれない。

 雪が入ってきたドアにリリィは目をやった。先程の廊下での会話は聞こえていたみたいだ。

「妹さんですか?」

 雪は机から引いた椅子に、腰を下ろした。

「うん。暫く部屋に入らないでおいてって言っといた」

「……私も早く住む場所をどうにかしなきゃいけませんね」

 机の上の、ペン立ての隣にある置時計を雪は見た。午後七時四十五分、既に日が暮れていた。

「まあ、とりあえず今夜はいいんじゃない。後のことはまた後から考えよ」

 リリィの手荷物は叛逆者に奇襲を受けた際になくしてしまったのだと言う。

 話を聞くと、リリィが日本に入国したのはつい昨夜のことだ。一夜ホテルに泊まって今朝街を歩いている時に、叛逆者に襲われたのだそうだ。魔法少女でない生身の状態だったので、重傷を負ってしまったのだと言う。それから変身して応戦するも、負傷が響いて苦闘していたのだ。

「雪さんのお母様やお父様にも、気づかれていないでしょうか」

 心配そうな顔をリリィがするので、雪は軽い口調で答えた。

「大丈夫だよ、多分。あんまり神経質な人たちじゃないし。でも知らない子を急に泊めてって言うのも無理があるから。事情を説明しても理解できないだろうし」

 だから今日一晩は雪の部屋に隠れて過ごすことにした。叛逆者を倒して家に帰ってから、リリィには入浴と食事を早めに済ませてもらった。家族が帰ってくると自由に家の中を動けなくなるからだ。

 雪はあくまで普段通りに過ごし、生活リズムも家族に合わせた。雪が今日学校をサボったことも母にはバレていないようだった。

 リリィの左足の切り傷は大分良くなっていた。なんでも、傷を治癒する魔法があるそうで、まだ魔力が本調子ではないけれど、徐々に回復しているらしい。

 驚いたことに、明日には全快するそうだ。

 どうやら魔法は本当に魔法であるようだ。

「他の所に暮らすって言っても、私から離れるわけにもいかないんだよね?」

 雪は袖をまくり上げ、魔法少女の紋様を表に出した。雪は今日をもって代理魔法少女となったのだった。

 それはつまりリリィに協力して、今度も叛逆者を撃退しなければならない責務を負ったことを意味する。成り行きとはいえ普通の女子高生から随分と飛躍したものだ。

 変な話だけど、雪はこのことをさほど深刻に捉えてはいない。嫌だとも思わないし、リリィがいることで、むしろ今までとは違う世界がこれから広がるような予感すら抱いている。

 ――私って少し変かなあ。

「できるだけ近くに住めるといいですね。細目に連絡も取り合えると便利ですし」

 ならいっそここに住むのが手っ取り早い、なんてことを雪は思った。

「諸々のことはとりあえず置いといて、明日は休みだから、ゆっくり休もう。なんだか今日は疲れた気がする」

 首に巻いていたタオルを取って、雪は椅子の背凭れにかけた。そうですね、とリリィは頷いた。

「魔法少女に変身すると、精神をかなり消耗しますからね。本当はもっと疲れている筈なんですけど……雪さんはむしろ元気そうですね」

「……そうなの?」

「はい。初めて魔法少女になった人は、ほとんどの場合変身が解けると倒れてしまうんです。それまで使ったことのないような精神力を消耗したことになりますから、精神的な疲労がとてつもないんです」

「へえ……」

 それほど疲労が溜まるとは感じなかった。少しだるさというか、疲労感はあるが、倒れるような消耗ではない。今日は早めに就寝したいなあくらいだった。

「だから雪さんの精神力は……その、正直信じられないくらい強いものなんです。初戦であれだけ平気に戦えるのは、正規の魔法少女でも、そういないくらいで……」

「うん、まあ、少しは痛かったり怖かったりもしたけど……」

「あ、平気、っていうのはそういう意味ではなくて、あの……」

「わかってるって。実際思ってたより上手く立ち回れたし、結果的には勝てたんだし。リリィが見守っててくれたおかげかな」

「そうな……私は何もできませんでした。雪さんが一人で倒したんです。私は、見てただけで」

 申し訳なさそうに目を伏せたリリィの顔を雪は覗き込んだ。顔の近さに驚いてリリィがばっと顔を上げた。

「それは違うよ。リリィがいてくれたから戦えたんだ。一人だけじゃとても立ち向かえなかったよ、あんなの」

「そう……ですか」

 かすかに頬を赤く染めてリリィはちらっと雪を見上げる。

「うん。流石に単身であれに挑むのは無理かな。キモいしデカいし強かったし」

 背凭れに寄りかかって、雪はカーテンで閉じられた窓の方を向いた。この窓の方角に、叛逆者と戦った神埼市立病院がある。

「だから、今日の戦いは私だけじゃなくて、リリィと私二人で勝ち取った勝利だよ。リリィが後ろにいると思えたから頑張れたの。まあ、途中から下の階に落とされたりあっちこっち振り回されたりしたけど」

 雪はほほ笑んだ。

「ねっ」

「………」

 リリィが目を丸くしてじっと雪を見つめていた。何だ、と雪は疑問符を浮かべた。

「雪さんが、笑った……」

「は?」

「雪さん……その、笑うんですね……」

「そりゃまあ、ね」

 表情薄いとかならいつも言われるけど、そんなに愛想ないかな。今日会ったばかりのリリィにこんなことを言われるほどなのか? 自分ではもっと笑ったりしてると思ってたけど……今度からはもっと意識した方がいいかな。

「雪さん、笑った顔可愛いです」

「え、なんて?」

 はっとした顔で、リリィは首を振った。

「な、なんでもありません」

「なんて言ったの、今?」

「なんでもありません、忘れてください」

「えぇ? なにー、言いなってー」

「な、なんでもありませんから。もう、あんまり騒いだらお家の人に見つかっちゃいますよっ」

 リリィが大人しく何て言ったか教えてくれればいいのに、と言おうとした時、誰かが階段を上がってくる音が聞こえた。楓だ。雪とリリィは二人して息を静めた。

 ドアの前を横切って行って、楓が隣の部屋に入るのを待った。妹の部屋とは壁一枚だから、気をつけてリリィと会話しなくてはいけない。

「妹さん、お勉強ですか?」

 小さな声でリリィは囁いた。雪はリリィの耳に近づいて話した。

「うん、多分。あいつ真面目だから」

「雪さんは今日は疲れてますもんね」

「まあ、疲れてなくてもしないけどね、勉強」

 だが今は本当に、言いようのない疲れがあった。まだ遅い時間でもないというのに眠気があった。リリィが言った通り、魔法少女になるのは多少なりとも疲労を伴うようだ。

 雪は特別自分のメンタルが優れているとは思ったことはない。他人から称賛されたり、評価されたりすることはあるが、そのメンタル面の丈夫さを自覚する機会はそう無いものだ。

 それに、メンタルが強いからと言って何か得することがあるかと言えば、弱いよりは確かにいいだろうけど、特に有効的に活用できる場面は少ないのではないか。

 だから今日みたいに――今までそんなに自覚することのなかった雪が有しているらしいメンタルの強さが、褒められて、感謝されて、誰かの役に立てたことは、ありきたりな言葉でしか言えないけど、嬉しかった。

 夜の九時くらいに、一回リビングに降りて、親にもう寝るからという旨を伝えた。随分早いね、と言われたが、今日は疲れてて眠いんだ、と雪は言った。明日起こさなくてもいいということも言っておいた。

 部屋に戻ると、リリィが既にうとうとしていた。雪はクローゼットから厚手の毛布を引っ張り出した。

「ふあ……」

 眠りに落ちかけたリリィが目を覚ました。床に毛布を敷いている雪を見て不思議そうに訊ねた。

「何をしているんですか?」

 毛布の上に薄手の肌掛けを被せて雪は言った。

「寝るとこつくってるの。今日は私ここで寝るから」

 ぼんやりしていたリリィの意識が急に覚醒した。

「だ、だめですよ雪さんっ」

 思いのほかリリィが大きな声を出してしまったので、雪は口の前に人差し指を立てた。

「しー」

「す、すみません」

 リリィは肩を縮めた。楓に今の聞こえたかな? 怪しまれても多分部屋を覗きに来ることはないだろうけど。

 雪の思惑とは裏腹にリリィは弁論に熱を出していた。こそこそとした小さい声で抗議を飛ばしてくる。

「私が床で寝ます。雪さんはここに寝てください」

 ベッドを手でぽん、と叩く。ほほ笑ましい動作だった。

「いや、別にいいよ。リリィは怪我人だし。私はこれでも十分寝れるから」

「だ、だめですってば、ここは雪さんの部屋なんですから。私がここに寝て雪さんには床に寝かせるなんてできません。雪さんはベッドに寝てください」

 そうは言っても、おそらく雪以上に疲労があるリリィをこんな即席の寝床に寝かせるのは心苦しい。しかしリリィもなかなか引き下がってくれそうになさそうだ。

 少し考えて、雪は「あっ」と思いついた。ベッドを指さし、きょとんとするリリィに提案する。

「じゃあ、ベッドに一緒に寝ようか」

「えっ………ええぇっ?」

 囁き声でリリィは驚嘆した。

「な、何でですか?」

「何でって、それが二人の意見が納得する解決策だからでしょ」

「そうなんですか?」

「うん。私が床に寝ずにリリィもベッドに寝られる。これがベストだ。よし、そうしよう」

「え、そ、そんなあ……」

「別に私がリリィと一緒に寝たいわけじゃないよ?」

 せっせと雪は床に広げた毛布をクローゼットに戻した。携帯のアラーム機能で明日起きる時間を設定する。ゆっくり寝たいし、八時くらいでいいか。

「い、いやあ、でも、あの……私邪魔じゃないですか?」

「ん? 別にそんなことないけど」

 雪はリリィの隣に座った。ベッドがきぃ、と軋む音を鳴らした。

「あ、リリィが嫌だって言うなら他の寝方考えるけど……」

「い、いえ、そういうことじゃないんです」

 リリィは激しく否定した。心なしか赤面している。

「雪さんと寝るのは嫌ではないんですけど……お邪魔にならないかと……」

 俯いてごにょごにょとぼやく。雪はリリィの脚をベッドに乗せさせて奥に押しやった。

「全然邪魔じゃないよ、と」

「わ、わっ、雪さん?」

 リリィを壁側に移動させて、雪は机に携帯を置いた。ベッドから身を乗り出してぎりぎり届くか否かの位置だ。

「あの、雪さん……」

「二人で寝るでも別にいいんでしょ? 少し狭いけど、詰めれば大丈夫だから」

 雪は掛け布団を整えた。明日着る服は、明日出せばいいか。

「電気消すよ?」

「あ、えっと、雪さん」

「なに。暗いとこ苦手?」

「いえ、そんなことは」

「じゃあ消します」

 部屋の電気を消して、雪はベッドに横になった。枕はリリィの側に譲った。掛け布団を独占しないように半分だけ自分にかかるように気を配る。

「雪さん……」

「なに、リリィ。寝ないの?」

「いいんですか?」

 全く、と雪は息を吐いた。暗闇の中でリリィの囁き声がする方向に顔を向けた。

「いいって言ってるでしょ? 私がそうしたいの。リリィも変に遠慮しなくていいんだよ」

 闇の中でリリィが黙った。真っ暗で何も見えない。リリィがどんな顔をしているかわからなかった。また顔を赤くしているか、もしかしたらむくれているかもしれなかった。いっそのこと顔を真っ赤にさせてやろう、と雪は思った。

「それに、もう隣で寝るとかどうとか言う仲じゃないしね」

「え?」

「だって魔法少女になる儀式であんなことしたんだから。もう一度寝たも同然だよ」

「~~~~っ!」

 喋らなくなったリリィが、すぐ隣に横になるのを感じた。肩と肩が触れた。リリィが布団を引いて体の上に被せた。

「リリィ?」

「…………」

 一人用ベッドだから、二人で寝るには若干窮屈だった。けど、一緒に寝るのがリリィだったので少しも不快ではなかった。

「そう、いう……」

 すぐ傍の暗闇からリリィの声がした。

「そういうのじゃありません、あれは儀式でやったことなので、し、仕方ないんです」

「ううん、そうは言ってもやっぱり刺激的だったしなあ」

 リリィの出す声もかなりエロかったし。と、これは言わないでおこう。

「だ、だから違うんですぅ」

「はいはい、わかったわかった。でもそういうよしみだから、ほんとに遠慮とかもうしなくていいよ。私あんまり自分からこういうこと言わないけど、ほら……もう友達だから」

「トモダチ……」

 横でもぞもぞっとリリィが動いた。ベッドがそちらに凹むのが雪にも伝わった。リリィが体をこちらに向けたのだ。

「日本で、初めてトモダチできました……嬉しいです」

 本当に嬉しそうな声で言ってくれる。雪も顔をそちらに向けた。

「私でよろしければ」

「はいっ。雪さんが日本に来て初めてのおトモダチで……本当に良かったです」

 暗闇に少しずつ目が慣れてきた。うっすらとリリィのシルエットが目に映った。

「あ、雪さん。枕いいんですか?」

「うん、いいよ」

「でも……」

「二人で頭乗せるには、小さいでしょ?」

「えっ。二人で……」

 肩と腕とかリリィと触れ合った。互いに互いの体温を感じる。すぐ傍に相手の呼吸を感じる。隣に誰かがいて、人と一緒に寝ることがこんなに心が休まるとは思わなかった。

 それとも……。

 つと、雪の手がリリィの手に触れた。雪は右に足を延ばしてリリィの左足にぶつけないよう気をつけた。

 ……誰かが隣にいるからじゃなくて。

 リリィだから、かな。

「……っ」

 指先に触れたリリィの手を、雪は握った。徐々にリリィの手が雪の手を握り返した。雪とリリィは互いの手を強く握り合った。

「…………」

 雪は目を閉じていなかった。ぼんやりとした暗い天井を見上げ、眠気はある筈なのに寝る気になれないでいた。どうしてだろう。

「……雪さん」

 すぐ傍でリリィが呼んだ。天井を見たまま雪は返事した。隣に響かない小さな声だった。

「なに」

 かすかな間を置いて、静寂を破るようにリリィはぽそっと言った。

「……本当に、ありがとうございました」

 雪の手を握るリリィの手がぴくっと動いた。雪は強く握った。

「だからいいよ、礼なんて」

「いえ、これだけは言わせてください」

 声の方向からして、リリィも上を見ているようだ。隣り合って同じ星空を見上げているみたいだった。実際に見てるのは雪の部屋の、暗い天井だけれど。

「出会ってから、今まで。叛逆者と戦ったことも。お話したことも。全部今日一日の出来事でしたけど……私の代わりに、魔法少女になってくれて……叛逆者を倒してくれて……私を助けてくれて、本当に、ありがとうございました……」

 あの時、記憶を消すのに失敗して、本当に良かった。と、リリィは穏やかな口調で言った。そうだね、と返す代わりに、雪はまた強くリリィの手を握った。

 すぐ傍にリリィを感じる。吐息と体温と、匂い。握ったリリィの手が熱かった。

「私も、良かったよ。リリィに会えて」

 精一杯の愛嬌だと思って、雪は言った。

 今日は一日が長かった。

 大変なことがあった。

 大変な目に遭った。

 登校する途中で偶然出会ったリリィを助けて。

 家で治療して。

 魔法少女になって戦って。

 自覚はないけど、色んな人を救った――らしい。

 驚くことの連続で。

 わけがわからないことばかりで。

 ちょっと怖くて。

 綺麗で可愛くて。

 痛くて、苦しくて。

 それでも雪は今日という日を、いい一日だったと言える。

 今日という日を後悔しない――そう断言できる。

 あの時リリィを助けたことを――

 今、彼女の手を握っていることを――

 雪は悔んだりなどしない。

 リリィの小さな声が、雪にだけ聞こえるように言った。

「これからよろしくお願いします。雪さん」

「私こそよろしく。リリィ」

 置時計の秒針を刻む音が、出し抜けに暗い部屋の中に響いた。二人が黙ると、周囲の音がよく聞こえた。静寂に混じった秒針の音や、隣の妹の部屋の音、外で車が走る音。

 互いの息遣いを聞くことは、鼓動を感じているかのようだった。

「そういえば、初め、どうして雪さんは私と叛逆者のことが見えたんでしょう?」

 唯一解明していなかった疑問を、リリィは口にした。専門的なことなので、こればっかりは雪は何も答えられない。

「さあ。変身が解けたから、とかじゃないの?」

 初めに雪の目に映ったリリィの姿は魔法少女の装備ではなく普通の私服だった。魔法少女の変身が解けたことで認識を誤魔化す魔法が切れた、というのが最もわかりやすい説明だ。

「はい。それもあり得ると思います。ですがそれだと、私は見えても叛逆者の姿は見えない筈なんです」

 なるほど、確かに。叛逆者は普通の人間には見えないのだそうだから。最初は雪にも叛逆者の姿は透明に見えていた。

「雪さんは私に『逃げるよ』と言いましたよね。あの時叛逆者が見えていたということですよね?」

「うん。リリィとぶつかる前は見えなかったんだけど、突然見えるようになったんだよね」

 うぅん、二人で悩んだ声を上げた。

「リリィに触れたから?」

「それだけでは叛逆者を視認できるようにはならないんです。こちら側に足を踏み入れることになりますから、そう簡単には……」

「どういう条件であいつは見えるようになれるの?」

「そうですねぇ……」

 記憶を手繰るようにリリィは返答した。

「魔法少女の体液が体内に混入すると、魔力が浸透する影響で見えるようになるかもしれません。ですけど、そういうことはありましたか……?」

 雪はリリィと出会った時の情景を頭の中に呼び起こした。

 民家の隙間で、透明だったリリィと衝突して転倒して……。

「うぅん、どうだったかな……」

 その時に確か――。

 ふと、雪は思い出した。リリィとぶつかって転んだあの時、そういえば……。

「唾液、かな?」

「唾液?」

「うん」

 雪はリリィに顔を向けた。枕の上で頭が動いて、リリィもこちらを向いたのがわかった。

「あの時リリィとぶつかった時、口に何かあたった気がしたんだよね」

 隣でリリィが黙った。

「もしかしたらその時に、口が触れ合ったかもしれない……リリィの唾液が、私の口の中に入ったんじゃないかな……」

「え、えええぇぇぇっ……~~~~~っ」

 がばっと、リリィが布団を頭まで被った。一緒の布団を被っているから、雪の顔にも布団が覆いかぶさる。

「そ、そんなこと……っ」

 リリィが上ずった声でわかりやすく恥ずかしがる。

 だが確かに、あの時雪の口には何かが触れた。総合的に考えて、あり得るのはその可能性だけだ。

「ねえ、リリィは初めてだった?」

「な、何言ってるんですか!?」

「私は初めてだったんだけど」

「私だって……」

「………」

「いや、えっと、そのっ、違います」

「何が違うの?」

「違いますからっ、そんなんじゃありませんからっ」

「ねえ何が? リリィ。ねえ、どうだった? 初めてだったの? お互いファーストキスだね」

「もうっ、寝ますよ雪さんっ」

「あんまり大きい声出したら……って、ちょっと布団取らないでよ、ねぇ、リリィっ」

 強く手を引き合うが――互いに手を離さない。

 雪はこの手を、強く、強く握り続ける。

 この日、椎名雪はその心を賭して、魔法少女となった。

 彼女たちは奇跡の出会いを果たした。

 その奇跡とは、まさしく運命と呼ばれるものだった。


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