第10話 戦闘
粉塵が立ち込める。上から砂か何かが落ちてくる。化け物の触手に捕らえられ、床を突き抜けて下の階にまで叩きつけられた椎名雪は、顔に降りかかる塵を手で払っていた。
ある程度予想はしていたけれど、叛逆者と呼ばれる化け物のパワーは想像以上に強かった。まさか床を破壊してこんな所にまで叩きつけられるとは。驚きを通り越して感服すら覚えた。
「痛って……」
苦言を吐いて雪は首を起こした。どうやら振り落とされたのは下の五階の、病室の中のようだった。どうやら床から壁を突き抜けて斜め下の病室に落とされたようだ。雪が寝ているのはベッドの上で、このベッドがいくらか衝撃を和らげてくれたかもしれなかった。もっとも、そのベッドは雪が落下した衝撃を受けて、くの時に折れ曲がっているのだけれど。
本来なら大惨事だが、雪の体にはどこにも傷はついていないみたいだった。背中や頭には、少しばかり打撲のような痛みがある。それも精々氷道の上を滑って転んだ程度の鈍痛で、大したことはない。
魔法少女の装甲は丈夫だ、とリロット・アーブルが言っていた。
なるほど、確かに防御力はこちらの方が遥かに高いようだ。叩きつけられた衝撃こそ強かったが傷一つついていない。魔法少女というのはすごい。
起き上がろうとした時、雪はあるものを見た。足にはまだ化け物の触手が絡みついていた。咄嗟に右足に巻き付いていた触手は斬り落としたが、左足は間に合わなかった。触手に持ち上げられて体が浮き、刃が触手を掠りはするが切断できなかった。
天井の穴から引き上げられ六階に戻ってきた。逆さまに吊るされ、反転した廊下と植物型の化け物が現れた。化け物は持ち上げた雪を自分に引き寄せていく。頭の下が穴から外れたのを見計らって、雪は腹筋で状態を持ち上げ左足を掴む触手を切断した。
空中でくるっと反転して穴の前の床に降り立つ。化け物が言葉にならない奇声を上げて触手を続け様二本、槍のように振り下ろした。
前進して槍二本を躱し、右前方から殴りかかってきた太い触手を斬りつけた。
刀は非常に切れ味がよく、ほとんど抵抗なく物体を斬れる。ミミズのようにうねる触手を斬り刻むことなど造作もなかった。
切断された触手の切り口から透明な液体が血のように流れ出た。水だった。
「ギヤアアアアァァァァァァァァッ!」
こいつ、痛覚とかあるのか?
水が出るのはこいつが植物の形をしているからだろう。それなら多分痛覚は無さそうだが、未知の化け物のことだからわからない。
痛がろうがどうだろうが――倒すことに変わりはないけど!
左から来た触手を斬り、右から来た弦を薙ぎ払い、下から蹴り上げてきた木の根の足を躱して、雪は高く跳び上がった。
外から病院に飛び込んだ時よりは遥かに力を制御して床を蹴った。天井に頭がつきそうなくらいの高さまでジャンプした。空中で前に進み、肩の上で刀を構えた。
すると化け物が雪を捕らえるための触手を数本構え、上を向いて大口を開け待ち構えた。まさに食虫植物が虫を捕食する瞬間の開口だった。
落下してくる雪を、そのまま食べてやろうとしているのだった。
だが――それくらいの手なら、雪にも予想がつく。
なかなか狙い通りに雪が落ちてこず、化け物は大口を開けたまま天井を仰いだ。
天井に突き刺した刀に掴まり、雪は天井に足をつけて、今度は自ら逆さに待機していたのだった。忍者の如く天井に張りついた雪を目にし、化け物は呆然とする。
雪は天井を蹴って化け物の口の上を飛翔した。そして前のめりに回転した拍子に刀を横に一閃し、化け物の上顎――巨大な口の眼球がついていた側を斬り落とした。
「キイイイアアアアァァァァァァァァァァァッッッ―――!!??」
人体でいうと口から上が無くなったようなものだ、これは流石にこたえただろう。化け物はいよいよ言語ですらない悲鳴を上げて暴れ狂った。
でたらめに触手をぶんぶん振り回し、壁やら蛍光灯やらを好き放題に破壊する。
雪に当たりそうになった触手を反射的に斬り払った。すると雪の居場所に検討をつけたのか、化け物は太い触手の強い一撃をこちら目掛けて放つようになった。
寸でのところで腰を低くして躱した触手が、雪の背後のカートを砕いた。次に尖った触手が飛んでくる。斜め前にずれて躱し、刀で斬り裂いた。
「―――!」
また足に化け物の腕が巻き付いた。細長い弦が雪の右足首を掴んでいた。視覚を失った化け物が力任せに雪を振り回し、壁、天井、床、病室のドアにめちゃくちゃにぶち当てる。その中で頭が天井と壁の角に激突した。全身が丈夫になっているとはいえ、これは流石に痛かった。
化け物の左側の床に雪は叩きつけられた。強い衝撃が体に走ったが、先程ほど強くはなく床は抜けなかった。
ぶんぶん振り回されたのと、あちこちに頭や背中をぶつけられたのとで、流石に雪の顔もかすかに歪む。苛立ちも僅かに混じっていた。
起き上がろうとした瞬間、再び化け物が雪を振り上げた。勢いが強い。雪は舌打ちしながら刀を振るい、弦が中ほどで切れる。
振り上げられた勢いのまま、雪は化け物に飛びかかった。重力と遠心力と全体重を乗せて両手で刀を振り下ろし、化け物の左肩を斬り落とした。
数十分の触手が肩ごと束になって床に落ちた。大量の水が傷口から溢れ出す。
「アアアエエエエエェェェェェェェェェェェッ!!」
と、声にならない悲鳴を上げ、化け物は小刻みに痙攣し出した。
核は、胴体の心臓の辺り――!
雪は化け物の足に乗り、人の形をした胴体の前に立った。
そこへ残った右肩の触手が全て一気に雪に襲いかかり、全身を絡め取った。首が胸が腕が腰が尻が太腿が足が――触手と弦に巻き付かれた。
最後の力で化け物は雪の首を絞めた。
ガラスを割ったかのような手応えを、雪は感じていた。
「もう遅い――私の勝ちだ」
雪の白い刃は、化け物の胸を貫いていた。そこには今までとは別物の感触があった。
触手が雪の体を締め付ける力がはそれ以上強くならなかった。代わりに全身がびくびくと震えている。
雪は更に深く刃を食い込ませた。何かが割れる音が化け物の体内から響いた。
化け物の痙攣が止まった。
と思うと、化け物の体が黒ずみ始めた。雪が突き刺した胸の辺りから段々と全身が黒く変色していき、炭のようにぼろぼろと崩れ始めた。
雪の体を戒めていた触手がぱらぱらと崩れていく。炭は崩れて床に落ちると、更に細かい粒子に砕けて見えなくなった。存在そのものが消えたかのように。
化け物の胸の表面が炭となって崩れ落ち、内部の雪が貫いた〝核〟が露わになった。
本当に、人間の心臓くらいの大きさの水晶玉だった。中に何かの粒が入っている。雪の刀は粒の脇を貫通していた。
刃が突き刺さった箇所から亀裂が広がり、水晶が真っ二つに割れた。水晶が粉々に砕け散り、瞬く間に灰になって消えた。中に入っていた粒は炭になっていく体とともに床に落ちた。
化け物――叛逆者の全身が黒い炭となり崩壊していった。雪に切断された触手が消え、胴体が崩れると、木の根の足が最後に粉塵と化した。
細かな粒子となった黒い灰は、溶けていくように小さくなり、やがて完全に見えなくなった。叛逆者の体の全てが黒い炭となり、灰となり、見えない小さな粒子となって、この世から消え失せた。
気づけばそこに残された無残な破壊の跡だけだった。巨大な叛逆者の姿は、存在した痕跡すら完全になくなっていた。
――倒した。
叛逆者は消滅した。
雪が握っていた刀から刃が消え、柄だけになった。やがて柄も光の粒子となって手の中から消えた。戦いが終わったことを雪が自覚したからだ。役目を終えて、武器が消失したのだ。
「………ん?」
叛逆者の核である透明な球体に入っていた粒が、消えずに床に残っていた。雪は指先でそれを拾い上げ、目の上に掲げてみた。
何かの、植物の種だった。家庭菜園用に売られているような小さな種だ。
植物の化け物。叛逆者。核。すがる物。
リリィが言っていた叛逆者がすがる実在の物体――それがこれだったということか。
ただの、植物の種。
こんな物がこれだけの被害を呼ぶ怪物を作り出していた。
種を核にしたから、植物の形を成した化け物――か。
なんとまあ、単純で恐ろしいことだろう。
「雪さん」
リリィが呼ぶ声がした。雪は声のした方に振り向いた。
床に空いた大穴の向こうで、リリィがきゅっと胸の前で手を握りしめて、もう片方の手を振っていた。
リリィは目尻に涙を溜め、心の底から安堵したように、笑顔だった。
「雪さん。本当に――無事で良かった」
雪は片手を上げて応じた。リリィの方に歩き出した時、体が光に包まれ、衣装が元着ていた服に形を変えた。
魔法少女の変身が解け、雪は普通の少女に戻った。