008:帰還への道002
第六話
私が目を覚ますと、鼻がくっつくほど傍にアレスタの顔が飛び込んでくる。アレスタが私の上に覆いかぶさっているのだ。
「よかった、気が付いた」
荒れた呼吸に額から垂れる汗。アレスタの疲弊が目に見えるほど伝わって来る。事情を聴くと、私を担いであの場を逃げ出したらしい。アレスタに人を担ぐだけの力があるとは驚きだ。それだけ必死だったのか。
「重いでしょう? ごめんなさい、でも足が震えて動かないの」
「ううん。アレスタなら平気」
それにしても、あの男は何故私たちを始末せずに去っていったのだろうか。殺さないにしても、捕縛すらもしなかったのはどういう訳だ。一回私は殺されかけたのに、二回目は何故殺さず気絶させるに留めたのだろう。おまけにアレスタには手出しすらしていない。始末しない、したくない理由があったのだろうか。
いや、今はもっと距離を取らなくては。アレスタの話によるとここは現場から百メートル離れているかどうかの窪地だ。どんな魔法を使ったのか知らないが私の必殺の一撃とアレスタの人を殺傷するには十分な威力の雷撃を耐えきったあの男は戦うにはリスクが大きい。
「アレスタ、私に掴まって」
「また飛ぶの?」
「ええ、ここは安全とは言えない」
日が暮れるまでの二時間ほど飛翔と着地を繰り返し、少なくとも直線距離で四十キロは稼いで私とアレスタは誰も使っていないコテージを無断で使わせてもらう。
湖畔に設けられた二階建てのコテージは誰も使っていないがよく手入れされていて、食糧こそなかったが調味料は保存されていたので私がアーニケイドでも食べられている川魚を湖から採ってきて塩焼きにして食べた。地球でいうマスの一種で体長三十糎にもなる魚を焼いただけで食べるのはアレスタにとって初めての経験だったようで、おっかなびっくりナイフで身を切り取っていたが一度口に入れてしまえば美味しいと呟いて普通に食べていた。
私の魔法で服も体も洗って身を清めた私たちは明日の準備を終えた後に夫婦用のベッドへ一緒に入り、就寝する。迂闊にも二人とも寝入ってしまい起きたのは日が窓から差し込んでからだった。
「おはよう、ティハ」
下着姿で寝ぼけ眼をこするアレスタは、肩から上をシーツから露出させて地図を見る私に挨拶する。
「何を見ているの?」
「ここから何処に行こうか見てるの」
どうもここはクヴェスト王国の王都より北西百二十キロ地点にある保養地のようだ。私はここから真西二百キロ地点にあるヴェイレードまで行こうかと考えている。ヴェイレードは豊かな漁場が近場にあるほか、他国の船がよく寄港するのだという。特にアーニケイド籍船舶が訪れては金を落とすためアーニケイドの通貨であるグラード貨がそのまま使える……とコテージにある書斎の本には書いていた。他にもいくつかグラード貨がそのまま使える街があるらしいし、認識阻害魔法も使えば何日かは持つだろう。
「さ、アレスタ。借り物の家を荒らす訳にはいかないから早く起きなさい」
「はーい」
山の果実と魚の朝食を取ってから、私は服装を変えることをアレスタに告げる。
「このままだと目立って仕方がないわ。アレスタは亜空間に衣装を保管していたでしょう。その中から市井に紛れても違和感のない服装を選びましょう」
「分かったわ」
先天なき者に時空魔法は初歩の初歩までしか扱うことは出来ない。アレスタは数少ない、というかアーニケイド王国唯一の時空魔法の先天者の家系に生まれその才を受け継いでいる。
「これはどう?」
アレスタが歪んだ空間に手を突っ込んで引っ張り出したのは藍色のワンピースだった。装飾も少ないし、庶民が奮発して買えないこともなさそうな見た目だ。実際は生地の質が段違いだから見る人が見れば分かってしまうだろうが。
「中々ね。他にもっと質素な服はある?」
「そうね……これとか?」
次に出したのは少しほつれている水玉模様のワンピースだ。アレスタとサイズが合っていないように見えると聞いてみると使用人の衣服を預かってあげていたりしたらしい。
「それなら、使用人の方の服を中心に見せてもらおうかしら」
アレスタは衣服をとっかえひっかえ出しているうちに私が要求する服の基準を把握したようだ。数十着と色々な服を出してサイズと色合いを自分と私に重ね品評を始める。
「うーん、これはティハには過激かも……こっちならお淑やかね。でも地味かもしれないわ……」
「アレスタ。今はあまり目立ってはいけないのよ」
「あ、そうね。じゃあ素朴で可愛らしいものにしましょう」
立つ鳥跡を濁さず。勝手に家を借りているのだから出来る限り綺麗にしてから、私たちはコテージを後にした。
今日の風は具合がよく、五時間ちょっとの飛行でヴェイレードの町が見えてくる。白い壁に大きな窓、朱色に塗られた三角屋根の家々が立ち並ぶ美しい町だ。人口は八万を少し超える程度だと本には書かれていた。半島中央部の平野部にヴェイレードはあり、半島先端と奥には山がそびえたっている。町一つ分で一杯になる平野を目いっぱい使い、左右の港湾には煙を立てて船が動き回っている。
「可愛らしい町ね」
アレスタの評した言葉に私も同意する。まるでおとぎ話に出てくるミニチュアみたいな町だ。
認識阻害魔法で着地を擬装し、私たちは人目の付かない路地に降り立った。ヴェールのようにチュールを垂らした帽子を被ったアレスタは人を惹きつける髪の毛も顔も極力見えないようにしている。私はというと、黒髪はありふれているので見えても構わないけれど顔が見られるのは手がかりを残してしまうので顔が見えそうで見えないバランスでチュールを垂らしている。
顔を隠す行為自体が目立つのは承知の上だ。この街にそう長く滞在するつもりはない。人の多い道へ出た私たちは歩き回り、アーニケイド語が聞こえる方へと足を進めていく。すると予想通りあった。人の往来が多い通りから一本外れた静かな街並みに、アクセントの強調加減が出鱈目なアーニケイド語を話す連中の話し声が聞こえてくる。ビールやワインの絵が描かれた看板を掲げたバーの前に設置されたテーブルで粗野に笑い食事を摂る船員たちの姿を見つけた。
あの中にアーニケイド行きの船乗りがいればいいが……。通信が傍受されるのならば、自分たちで帰還するのみ。そう決意した私たちはアーニケイド行の船に乗り込むことにしたのだった。
「アレスタは何も話さないで。何か喋るときは私が話すから」
「本当にあの中に入っていくの?」
「帰るためよ、それにいざとなったら私が守るわ」
「だ、大丈夫。私だってティハを……とまでは言えないけれど自分の身くらい守れるわ」
物怖じしていたアレスタが逆に私の手を引いてバーへ歩き始める。さて、どうなるだろうか。私たちの接近は案の定目立ったようで、いち早く船員たちの目に留まってしまった。
「へい! 嬢ちゃんたち! 二人連れかい?」
「そうよ、あなた方は船乗りかい?」
びくっとして私を見つめるアレスタの気持ちは分かる。何しろ今の私は軍隊でよく聞いたヴェルヴィ―ズ方言とかいう、聞いていて虫唾の走る口調を自ら発しているのだ。貴族の言葉を始めに覚えた私からすればネット用語をリアルで発するような気恥ずかしさがあった。だがここで気後れして貴族らしさなんて出してしまったら台無しだ。どうにか演じ切ってみせるぞ。
「そうさ! 俺らはここで缶詰を積んでアーニケイドに運んでいるのよ!」
「お、嬢ちゃんヴェルヴィ―ズの出かよ! こんな場所で珍しいねぇ!」
「ヒュウ! 綺麗な声だねえ! もっと喋っておくれ!」
「ちょっと! いきなり何人も話し出したって聞き取れないやしないわ。一人ずつ話せないかい?」
おっと、いきなりビンゴだ。こいつらの船に何とかして乗り込んでやろう。
「じゃあ俺が! 嬢ちゃんたち名前は何て言うんだ」
「あたいはキュナリア。こっちのは親友でミーテアってんだ」
ヴェルヴィ―ズはネウカレド二ア地方の港湾の一つで人口も多いが、女性の名前で人気なものは限られている。キュナリアもミーテアもヴェルヴィ―ズに行けば十人に一人はいる名前だ。
「次は俺さね。どうしてこんな場所にあんたらみたいな別嬪さんがいるんだい?」
「それがね……」
しばらく会話をして船員たちと別れる、つもりだったのだが酔いの回った酔っ払いの絡みを振りほどくのは難しく席に座らされ山のように盛られたソーセージやら魚のスープやらを奢られる。
「しかし酷い男もいたもんだなあ! 俺たちみてえな男に会えてよかったなあ!」
「ほら食え食え。ここは俺らインヅズトーラ船舶運送の穴場の居酒屋なんだ。味は保証するぜ」
かなりぼかして話した誘拐からの殺害未遂という境遇を真に受けてしまったのか、涙を流す船員たちの強引な誘いを断るのも悪いと思ったが同時に私とアレスタの体に向けられた目線にも気が付いていた。二日後の朝にルーアデア号という船で出港すること、アーニケイド南部のポルト・アディで荷物を積み下ろすこと、港のどこに船が停泊しているか。もう必要な情報は手に入れたのだ。お暇するとしよう。
「話を聞いてもらえてあたいも嬉しかったよ。でも今日はここまで」
「おいおい俺たちの飯が食えねえってんかあ!?」
「そういう訳じゃないけどね。さ、帰るよミーテア」
連れ立って立ち上がる私たちの周りを船員たちが取り囲む。
「まあ待てよ。もうちょっとお話しようぜえっへっへっへってぇ!」
あー、これだから酔っ払いは。肩に手を置いた酔っ払いの手首を軽く捻ってから額に凸ピンをして席に座らせる。
「あたいたちにもやることはあるんだよ。じゃあね」
耳元で別れを囁き、私はアレスタの手を取って駆けだした。いくつかの路地を曲がり、少し離れた大通りでやっと私たちは止まった。
「ねえティハ。あなた何を呟いたの?」
「え?」
人目に付かないよう小声で話しかけるアレスタから何故か嫉妬の気配を感じ、何故か後ずさりしてしまった。
「あの人たち追いかけようとしていたけれども、ティハが最後話した方だけ通せんぼしていたわ。一体何を呟けば一人の殿方をたぶらかせるのかしら。それにあの話しぶりは何処で覚えたの? 何てはしたない! 時々男言葉を呟いたり異国語を呟いたりして危ういなって思っていたのだけれど今日で確信しました。ティハは口調が貴族に属する人間にしては危なっかしすぎます!」
「落ち着いて、声が大きい」
「あ、ごめんなさい」
アレスタが私の腕を取ってくっついてくる。振りほどいても諦めないので、次第に私は諦めるようになっていた。出港が明後日ならば異様な格好をした二人組の女の噂が目立つ前に離れる事が可能だからきっと大丈夫だろう。
その後私は周囲への聞き込みを続け、一軒のホテルに泊まることにする。そこは比較的裕福な階層が宿泊する施設という噂通り、小奇麗な屋敷を改装したホテルだった。
「アレスタ。創魔空間お願い……あとお金の方も」
持ち合わせのない私に金銭関係は如何ともしがたい。時空魔法で自由に貯蓄を引き出せるアレスタが頼りだ。
「任せて!」
人が出払ったのを見計らってロビーのホテルマンの前に立ち、アレスタに創魔空間の生成を頼み、私はその中で認識阻害の魔法を使用する。
「こんにちは、宿泊でございますか」
「ああ、二泊頼みたい」
ホテルマンには裕福なアーニケイド人若夫婦が泊まるのだと誤認してもらう。
「部屋にご案内しましょう」
「いや、結構。先程の説明で分かったよ。それより新妻と二人きりにしてくれないか」
「畏まりました。それではよい一日であることを!」
「ありがとう」
途中でアレスタの創魔空間は消失してしまったが、私の魔力もホテルマンの前から姿を隠した瞬間に尽きてしまった。結構ぎりぎりの賭けだったな。
借りた部屋は夫婦用の大きなベッドが一つ据え付けられた部屋だ。この時分女が二人旅するなんて珍事であり、目立って仕方ない。適当な二人連れといったら夫婦だろうと騙ったのだがまずかったかな。
「ティハ、さっきのは何?」
「さっきのって?」
「夫婦って何よもう」
気恥ずかしいのか、照れて肩を叩いてくるアレスタだが力は籠っていない。
「それにティハが夫役なんて似合わないわ。私なら髪型と服装さえどうにかすれば男の振りだって出来るのに」
「どうかな。中性よりというだけで、十分に女に見えると思うけれど」
それにアレスタの体は凹凸が激しいから、余計に女性らしさが際立つような気もする。
「ありがとう。それよりお腹が空かない? 私たちまだ朝食しか取ってないわ」
「そうだね。だけど食事を外で取るのは難しいな」
食事するならばどうしても顔を見せる必要がある。流石に顔を明かすのはここにいますよと主張しているも同然だ。何か買って室内で食べるほかないだろう。
「私、記憶改ざんくらい出来るよ?」
「出来てもするべきじゃないと思うの」
翻訳魔法や記憶改ざんなどやろうと思えば出来る魔法はいくつかある。しかしどれも対象者に後遺症を残す危険がある。私たちのために無暗にリスクを背負わせる訳にはいかない。
「そっか。そうだね。じゃあ私が何か買ってくるよ」
「いや、別れるのは危ないわ。一緒に行きましょう」
「そうね」
ホテルを抜け出て人通りの多い道へと出ると、昼過ぎの市場へ繰り出す。力の弱い私たちは雑踏の隙間を抜けつつゆっくりと市場を歩いていく。野菜やら肉やら魚を見ながら身振り手振りだけで会話しながら、私たちはナンのような生地で燻製マスをクレープのように挟んだものと、ワッフルのような生地をクレープのように巻いて中にクリームを入れたお菓子、それに目の前で果物を絞ってくれるジュース店に寄ってホテルへと戻った。
「意外と言葉がなくても通じ合えるものね」
「そうね」
アレスタのお金で取った部屋は広々としていて、食事を取るテーブルも付いている。私たちは異国の食事に一々驚きながら美味しく頂いた。
「ティハ。今日は魚ばかり食べている気がするわ」
「クヴェストは魚類を多く食べるって聞いていたけれど、噂通りね」
「本当! 市場に魚がいっぱい並んでいたわ! 肉は端に追いやられているように思えたくらい」
しばらくはクヴェスト王国の食についてあーだこーだと話していたが、やがてアレスタは帰国の話を持ち出す。
「あの船……ルーアデア号に乗って帰るのよね」
「そうよ。あれで私たちは帰れる」
「今回こそ帰りましょう」
「ええ」
船に不法侵入してまで行動を秘匿しているのだ。きっと今回こそ何とかなる。窓際に立つ私の背後に寄り添うアレスタの手を握り、アーニケイドへ無事に帰国出来ることを祈った。