006:クヴェスト
第四話
「ん」
目を覚ますと、むせかえるような魚の匂いが鼻に突いた。揺れる視界に、木の天井。ここは一体どこだろう。
「ティハ、よかった……目を覚ましたのね」
「アレスタ?」
横に目を向けると、目を腫らしてせっかくの美少女が台無しに……はなっていないのが凄い。これでも絵になる美しさだ。
「ここは?」
「漁船よ。漁師の方に助けられたの」
そうか。助かったのか。怪我を負った手首には包帯が巻かれている。服装も庶民が着るようなセーターにジーンズだ。
「あ、着替えは私がしたから安心してね!」
「そっか。どれくらい寝ていた?」
「三日。三日間も気付かなかったんだよ……」
泣き出すアレスタに微笑みかけ、頭を撫でてやる。しばらくこのままでいると隣の部屋からすだれのような布をかき分けて、髭面の男性が入って来る。何か話しかけてくるが何を言っているか全く分からない。笑顔で話しかけているからきっと私の快方を喜んでくれているのだろう。その男性はその後すぐに出て行ってしまった。
「あの人はどなた?」
私の問いかけにアレスタは答えない。気が付くとアレスタは全身を震わせ、肩を抱いて床に丸くなっていた。
「男の方が怖いの?」
「……あの方は悪くないのは分かってるのだけど」
「ひどい体験をしたから仕方がありません。帰ってからゆっくり治療すればいいのよ」
ベッドから降り、ふらつく体で私は縮こまるアレスタを背後から抱きしめる。肩に置いた私の手にアレスタの手が重ねられ、その手はゆっくりと震えが収まっていった。
「落ち着いたようね。じゃあ、私があの方たちと話をしてくるから待ってて」
「ごめんね、ティハ」
汗の染みついたマットレスを敷いたベッドのある部屋の隣の、表面がささくれている木のテーブルのある部屋では四人の男たちがカードゲームに興じていた。丸窓からは海と蒼空が揺れて見える。
「あの、助けていただきありがとうございました」
私の話すアーニケイド王国語も通じないだろうが、お辞儀は万国共通で謝意を示す。私が頭を下げると、男たちは笑いながら手を横に振る。気にしなくていいと示してくれているのだろうか。男たちは立ち上がり、私を甲板に上がるよう促してきた。急角度のはしごを上ると、そこには陸地が見えてきていた。
「上陸ですか?」
私が陸を指して、ピョンとそこに降りるような仕草を何度かしてみせると男たちの一人が意味することに気づいてくれたのか頷いてくる。
「アーニケイド? フェイリン?」
私が適当に国家名を次々に発して陸地を指していると、男たちは口々にクヴェスト、クヴェストと連呼する。そうか、あそこはクヴェスト王国なのか。クヴェスト王国はアーニケイド王国の北東に位置する国家だ。私は自分を指し示してアーニケイドと何度も呟き、アーニケイド国民だと男たちに教える。すると男たちの一人が下から地図を持ってきてアーニケイド王国を指さす。それに頷くと、絵心のある一人の男がアーニケイドの国旗を書いた人の列がアーニケイドの国旗を指した建物に入り、そこで困っている人たちが笑顔になる絵を描く。そして、そこに困り顔の私とアレスタのデフォルメキャラが入ると笑顔になる。領事館か大使館だろうか。
「大使館?」
「大使館! 大使館!」
おお、イントネーションがまるで違うが単語単位となると似通った面もあるものか。そこで我々は単語単位の片言でお互い会話を開始する。互いに名前を伝え合い、私とアレスタの事情を伝え(悪い奴に拉致されそうになったから飛び降りて逃げたとだけ伝えた)、私たちを助けるのに被った被害・費用は払うと保障し(いらないと言ってくれたが一門の名誉にかかわるので納得してもらった)、私たちを首都にある大使館まで連れて行ってくれると約束してくれた。
船が港に到着すると、魚を水揚げする仲間と別れ、マーカスという最初に私が出会った髭面の中年男性が付き添ってくれることになった。港から少し離れた、小さな平屋の家に案内される。
「私、家。妻、子供、いる」
鍵のかかっていない扉を開け、マーカスさんは大きな声で妻の名を叫ぶ。すると、マーカス! と大きく叫び家の奥から小走りで駆け寄って来る中年女性が現れる。
「マーカス!」
「エイラ!」
二人は頬に熱烈なキスの雨を浴びせた後、その場でマーカスさんがエイラさんを抱えてくるりと回って見せる。エイラさんはここでようやく長身のマーカスさんの陰に隠れている私たちに気が付いたようだ。
「マーカス?」
私と話すときと一転した流暢な口ぶりでエイラさんに事情を説明するマーカスさん。猜疑心の垣間見えたエイラさんの表情は途中から同情を含んだ暖かなものへと変わっていった。
「オー、ティハー二ア! アレースター!」
どこか調子の外れたイントネーションで私たちの名を叫んだエイラさんは目に涙を浮かべ私たちを纏めて抱きしめる。だがそこでアレスタが怯えて震え出したのでエイラさんも抱擁をやめて夫へ目を向ける。男の人というより、人全般に恐怖を抱いてしまっているのか。困惑した顔のエイラさんに、マーカスさんがアレスタの名を上げて何らかの説明を加えると、エイラさんは泣き出しマーカスさんに抱き付いた。
しばらくしてエイラさんが泣き止むと、私たちは家の中に案内される。暖炉の前に置かれた擦り切れたソファの上に座らされ、変な味のする白い飲み物を飲まされる。酸っぱいような甘いような……乳製品らしいがよく分からない。口に入れた最初は拒絶感に苛まされたが、飲んでいるうちに癖になる不思議な味だった。
私の隣に座ったエイラさんは片言でマーカスさんが汽車の汽車の切符を予約しに行ったことを告げる。その後何か話しかけていたようだが、私は久しぶりの栄養を腹に入れ睡眠を欲していたようだ。
「ん」
目を覚ますと、灰褐色の髪をした男の子がこちらを見下ろしていた。私が目を覚ましたのに驚いて後ろに下がる。
「あなたは?」
あ、何も言わずに隣の部屋に消えてしまった。ここは寝室、か。二台のベッドが並んでいる、粗末ながらも清潔な部屋だ。既に格子窓からは闇のとばりがやってきている。もう夜になってしまったようだ。私の隣にはアレスタが眠っている。私の腕を抱き枕のようにしているせいで、私は身動きが取れない。
「ティハー二ア」
エイラさんが暗い室内に入ってきて、お盆に乗ったスープを見せる。匂いを嗅ぐと急に空腹が私の腹を悩ませる。ああ、そういえば三日何も食べてないんだもの。お腹も空いているに決まっている。
感謝の言葉を述べてありがたくスープを頂こうと身を乗り出したらアレスタに腕を掴まれていて中途半端にしか体を起こせなかった。苦笑してみせると、エイラさんも笑って匙を私の口元に伸ばしてくる。食べさせるというのだろうか。
「ありがとう」
未だ疲労の取れない体が遠慮を投げ捨てる。鼻先にスープの匂いがして、我慢ができなかったのだ。口を空けてスープを飲んだ。魚スープか。ちょっと生臭いが、気にならなかった。エイラが匙を差し出す度に私はスープへ顔を突き出して平らげていく。具はほとんど入っていないスープだが、それでも私は満足して再び強烈な眠気に負けて寝てしまった。
再び起床すると、アレスタの顔が私を見下ろしていた。
「ティハ、起きたのね」
「アレスタ」
窓からは昇ったばかりの青い空の輝きが差し込んでいる。まだ朝早いらしい。
「その子は?」
「ここの子で、ジュノースっていうのよ」
椅子に座るアレスタの膝に座って寝息を立てている灰褐色の髪の男の子には、見覚えがある。昨日私を見下ろしていた子だ。
「その子は大丈夫なの?」
「流石に子供相手に震える私じゃないわ」
アレスタの豊かな胸に後頭部を埋め眠るジュノース君は六、七歳といったところだろうか。アレスタも着替えて薄いシャツを着ていた上に、下着は着てないのでちょっと危なっかしいな。外を歩かないようにさせないと。
「マーカスさんは明日の汽車を予約してくださったそうよ。それで大使館まで行って帰りましょう」
「その前に国際電信で無事を伝えたいところですけれど」
「あ、それもそうね……それよりティハ、例の魔法私に使ってくれない? 体を拭くだけじゃ落ち着かないわ」
「いいですよ。それじゃその子降ろしてください」
「ええ」
ジュノース君をベッドに寝かしつけたアレスタと私はくっつく。
「ティハ?」
「ついでに私もお湯に浸かりたいなと思いまして」
えへへと笑うアレスタに私も笑みを返す。
「そうね、湯あみができないのは辛いわ」
私は水と風の扱いが得意と知られている。その応用の一環として、どこでもお風呂を身に着けているのだ。我が敬愛なる王国には風呂に毎日浸かる習慣はない上に、浸かり過ぎはふしだらと見なされている。こっそりお風呂に入るにはこういった技術を身に着ける必要があったのだ。
椅子に座ったアレスタと対面で座っている私の二人を対象に、お湯を球体で生成し浸かる。まずは汚れを落としたいから洗濯機式に水流で汚れを落とす。頭から足先までお湯の中に入っているから目は見えない。でも呼吸は出来るから問題ないし、目も見えなくても開くことはできる。体から出た汚れは球体外縁部に溜まり、最終的に球体の真下に集まる。最後にこれを焼き払ってしまえば全てが終了だ。
体の芯まで温まったなと感じたら、お湯の球体を消滅させる。服には湯が残ってはいない。
魔力の関係で二分ちょっとしか浸かっていられないし、体表はちょっと妥協して湿り気が残っているが、それくらいは許してほしい。湯船にお湯を張るだけなら簡単なのだけれど、宙に浮かせたり呼吸を可能にしたりと手間がかかる魔法なのだ。
「はあ……久しぶりに疲れが取れた気がする」
「私もティハのおかげで元気になれそう」
火照った体でぼうっとした思考。窓を開き、朝の爽やかな空気を吸って気分を一新させる。
「よし、アレスタ。一緒に帰ろうね」
「うん」
「あ、そういえばその子はどうしてアレスタと一緒にいたの?」
「あ、この子? 私が夜明け前に起きたときにいたの。多分、私たちが心配だったのではないかしら」
あるいは警戒していたのか。さっきの光景を見る限り、アレスタに懐いたのならよかった。私たちがジュノース君を見ていると彼は少し体を震えさせ、目を覚ます。
「あーあ。ティハが窓を開けたから起きちゃったのね」
「それはごめんなさいね。ほら、毛布を掛けてあげましょう」
私が寝ぼけ眼をこするジュノース君のベッドに腰掛け、毛布を掛けてやると笑顔になる。
「ティハニア。元気。よかった」
「ありがとう、ジュノース」
どうやら心配してくれていたようだ。頭を撫でているうちにジュノース君は眠ってしまう。私の太ももを抱き枕にして眠るジュノース君を見て、アレスタと子供は可愛いねと微笑み、あえて拉致の件には触れずに会話を続ける。
やがてエイラさんがやってきてジュノース君を叩き起こし、マーカスさんも含め全員で朝食を取り、ジュノース君は学校へ行ってしまった。アレスタは依然エイラさんとマーカスさんの前では無口になってしまうが、二人の人柄が影響したのか二人の前で恐怖で震えるような真似はしなくなった。
「マーカス、電信、家族、連絡」
「電信、文字、これ」
紙と万年筆を渡されたので、アーニケイド語で“ティハ アレスタ 無事 現在クヴェスト 大使館 向かう”と表記し、マーカスさんに手渡す。
「私、マーカス、一緒、付いていく」
「分かった、遠くない、行こう」
「待って!」
Tシャツの裾を掴み、おびえたアレスタが遠慮がちにこちらに視線を向ける。
「ティハニア、待っていろ、行ってくる」
「……ごめんなさい。お願いする」
マーカスさんにアーニケイド王国ネウカレド二ア地方フェニクエ村ソキエディウス邸の住所の書いた紙を渡して、出かけてもらう。
「ごめんなさいティハ。でも、一人は無理なの」
「いいよ、辛い事があったんだもの。一緒にいましょう」
震えるアレスタを抱き寄せ、私はマーカスさんの好意が無事に成果を上げることを祈った。




