後日談005:静謐な夜にて
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アルマート学校の秋学期が始まってから一か月が経とうとしていた。ウェイルアドミナの創立祭は、あと一週間で開催されようとしている。調整役に任じられているアンが私たちと行動する機会が目に見えて少なくなってしまっていた。
「チュアは今日も会合に行ってしまったわね」
門限の第十五時が迫りすっかり夜も更けてきた頃、研究室で後片付けをしている最中アレスタが心配そうに呟く。会合ではクレアティウス一門と同席し、話し合いが行われているという。意地悪でもされていないか、私も他のみんなも不安で仕方がなかった。
「アン、最近元気ない」
「そうね。笑顔が少なくなった気がする。ティハはどう思う?」
一度クラリアと話した印象からすると、彼女はアンをそう酷い目に遭わせることはないと思っている。しかし、会合にはアルマート学校の他学科や男子学生も参加する。彼らがアンにどんな仕打ちをするのかは未知数で、それだけに不安が消え去ることはない。
アルマート学校は基本的に男子校だ。しかし、魔術科だけは魔法の扱える人間の絶対数が少ないことから女子の入校が古くから許されてきた。許されてはいるのだけれど、男女を同じ教室に入れる気はなかったらしく、魔術科の校舎は二分され、男女の行き来は許されていない。校舎を自由に歩き回れるのは教員のみである。
さらに言えばウェイルアドミナの町の端に魔術科だけが隔離されているかのように他の学科と離されて設置されているのも魔術科だけが女性の入校を認めたからなのだそうだ。
魔術科、それも女学部は特にアルマート学校の繋がりが薄く交流が疎遠だ。それだけに魔術科女学部で醸成されている、というか私が作り上げたアンを悪者に仕立て上げない空気があちら側には流れていない。世間の噂による、サトリオール家は悪であり責め立てて構わないサンドバッグという印象で彼らはアンにどういった態度で臨むのか。
一応、プロープリス一門に向けてはOBであるアルマス兄様に無理やりお願いして学校を訪問してもらった。アンを過度に責め立てないよう、フェニキア家が事態を悪化させることを望んでいないのだという意向を伝えてもらってはいるのだけれど所詮フェニキア家は勢力でいえばそれなりといったところ。プロープリス一門最大勢力であるエルギア家辺りのお坊ちゃまが主導して弾劾を主張されでもしたらフェニキア家の意見など消し飛んでしまう。
「あんまり醜い争いにならなければいいのだけれど」
「ちょっと、不穏な発言ねティハ」
「ごめんなさいアレスタ……何をしているのアレスタ」
ルァートリアを膝にのせて頭を撫でている。まるでアンみたいな真似だ。
「えへへ。一度どんな気分なのか試してみたくなっちゃって」
「ルァートリアはそれでいいの?」
「アレスタなら……あ、ティハもいいよ!」
アレスタの魅力は男女問わない。老若男女も問わない。流石だ。
ルァートリアはルァートリアで頭を撫でてもらうのに気持ちよさを覚えるようになってしまったようだ。これもアンが何度も何度もルァートリアの頭を撫で続けてきた成果なのだろうか。頬を緩めて眠そうにしているルァートリアを撫でてあげるアレスタへ、私はもう帰ろうと促した。
研究室を施錠し、先生に返却した私たちは寮へと歩いていく。
「アレスタ、ルァートリア。忘れ物したから先に帰ってて」
返事を聞かず、私は走って二人を振り払ってから物陰に立っていたアンの背中に立つ。
「アン、どうしたのこんなところで」
「気付いていたのね、でも二人を追い払ったのはどうして」
「アンこそ、話しかけてくれればよかったんじゃない」
「確かにそうね」
顔の作りが元々気だるげなアンの表情はいつにもまして気だるげで、今にも倒れてしまいそうなほどにか弱く見える。建物と建物を繋ぐ屋根のついた通路の手すりに寄りかかり、アンはため息を吐いた。
「サトリオール家はクレアティウス一門でも燦然と輝く有力家系だったのに、今では地に堕ちたものね。ジグノールが憎らしい」
「彼はもういないわ、私の前で自爆したもの」
「いい気味ね」
しばらく何をするでもなく夜の中庭を眺めていた。四方を建物に囲われた中庭には数本の木と僅かばかりの花々を除いて芝生が広がっている。ただ秋の到来を感じさせる涼風が通り過ぎ、夏服で丈の短い制服を着る私たちの体を冷やしていく。
「もうすぐ門限よ、帰りましょうアン」
「ティハ」
何も言わず抱き付いてきたアンは静かに涙を流す。私も何も言わずに背中に手を回し泣き止むのを待った。私より背の高いアンの目から零れ落ちた涙は私の前髪を濡らし、やがて額を伝い眉、そして睫毛を伝う。睫毛に乗った涙滴が目に入ろうかといったところでアンは私から離れ、ハンカチで私の額から目にかけてを拭ってくれた。
「あなたに何て言っていいか分からないわ。感謝もしているし、憎んでもいる」
「私がいなければよかった?」
「ほんの僅かばかり、そう思ってしまうの。そうしたらこんな目に遭わなかったんじゃって思ってしまうチュアニク・クレアティウス・サトリオールという人物に嫌気が刺すわ」
アンが私の頬に口づけする。アーニケイド王国において握手やハグは一般的な挨拶習慣だけれど口づけは違う。もっと親密な関係を意味している。頬への口づけは家族にするものだ。
「でも、もうそう思わないわ。あなたは私の身内、家族、私の一部」
「ありがとうアン。私もアンのことを家族同然に大切にします」
日本人として常識を前世の記憶と言う形で僅かに残す私には抵抗があるけれど、今の雰囲気ならそう抵抗なく行動に移すことが出来た。アンの頬に口づけを返し、家族の契が交わされた。といっても、家族そのものではなくて家族同然という意味だけれど。
「帰りましょうかティハ」
「ええ、帰りましょう」
元気を取り戻し、意気揚々と闊歩するアンは私の手を引いて歩き出した。表情も明るい。今日のところは大丈夫だろう。私も安心してアンと寮で別れることが出来る。
寮の前ではアレスタとルァートリアが私を待ってくれていた。
「ティハ! 遅かったよ!」
「ごめんなさいアレスタ。でも忘れ物はこの手にあるわ」
「忘れ物って、チュアのことだったの? だったら私とルァートリアも付いていったのに。ねえ?」
こくこく頷くルァートリアとアレスタに謝ってから私たちは寮に入っていく。
「あの……ティハにチュア。どうして手を繋いでいるのかしら」
「あらあ、好きでやっているのだから気にしないで」
アレスタに見せつけるように私を抱きしめ頬に口づけをしたアンは、それではまた明日と言い残し去っていった。以前の空元気とは違う。確かに精神的に力強く足を踏みしめてアンは自室へ戻っていった。私は思わず微笑んだ。
「ティハ。今のは何?」
微笑んでいた口元が強張る。どうしてだろう、アレスタの顔を見たくない。
「わ、私、もう、行くから。おやすみっ!」
ルァートリア、逃げないで。
自室に戻った私はアレスタに始終を話す羽目に陥った。
「ふうん。へええ」
詰問されている妙な緊張した雰囲気は、アレスタがふっと笑ったことで溶けてなくなった。どうも冗談で怒る振りをしていたようだ。はあ……もう、勘弁して。
「チュア、きっとうまくやっていけるわよ」
「そう願っているわ」
「ティハが口づけまでしたんだから、うまくやってくれなきゃ困るわ。私にだってまだしていないじゃない、私はただの友達に過ぎなかったのかしら」
やっぱり嫉妬しているのかな。頬への口づけは家族同士なら普通だけれど家族同然の相手にとなれば相当信頼していないとするものじゃない。本当の家族と同じくらい大事にしている証なのだから易々とするものじゃない。
「アレスタのことは家族と同じ、ある面ではそれ以上に大切に思っているわ」
「ティハ、だったら分かるでしょう」
微笑むアレスタは自分の頬を指さして顔を私に突き出してくる。うーん、アレスタ相手だと緊張するけれどアンに出来てアレスタに出来ないのは気分が悪い。意を決しアレスタの頬に軽く唇を当てた。
「これでアンと一緒ね」
アレスタがお返しに口づけしたのは先ほどアンの唇が当たった場所で、何故か上書きという単語が頭をよぎった。
「さあ、寝ましょうティハ。明日も講義がたくさんあるわ」
「そうねアレスタ」
心なしかアレスタは浮かれ、いつもよりも綺麗に見えた。




