SSS サドル
車庫の隅でサドルのない自転車を見つけた。
手入れのされた、それでもところどころ錆の浮いた自転車である。しばし思考が止まり、すぐに高校まで乗っていた自転車だと思い出す。
なぜサドルがないのかを訊こうとして、母と妹の忙しげな姿を見て止どまった。連れて来た妻は手伝いに回り、息子が一人所在無げに立っている。
彼もまた、父の葬式での居場所を見つけられずにいた。
息子と目が合い、ふいと逸らされる。早い思春期を迎えた息子との微妙な関係は、彼と死んだ父との関係に似ている。でも自分のあの年頃はまだ父とは不仲ではなかった、と独りごちる。
サドル、そうだ、あの自転車。
父がサドルのない自転車をもらって来たのは、彼に自転車の乗り方を教えるためだった。サドルがないものでまずバランス感覚を養うのだ、と父はどこからか聞き及んだ知識を語った。しかし彼は易々と自転車を乗りこなし、父から教えを受けることもなかった。
それからかもしれない。父との間に微妙な空気が流れたのは。
あのとき傾いたバランスを直すことなく、父は逝った。
サドルを隠したのは誰だろう、と彼は思いながら息子とのバランスの取り方について考えている。