水泡
一
浅瀬は好かない。明るくて気味が悪い。陽光が底まで射して砂がまたそれを反射するから辺り一面がびかびかと光りだして大変まぶしい。それから波が押し寄せて水中をかき廻すから、まぶしいのと温いのと身体がぐらぐらするのとでしばらくすると妙な気分になってくる。それを総合して一種の超自然的な体験として好く者もいるというが、普通の魚のいくところではない。
対して海底には分厚い闇が堆積していて音や光による騒々しい現象というものは締め出されてしまっている。しかし真っ暗なのも不便だから目印になるように一定の間隔で電灯を浮かして置いてある。丸くぼやぼやした光の球がどこまでも連なって見える様はとても奇麗で、微醺を帯びて泳いでみれば星星を蹴って旅する宇宙船のような気分がしてくる。
おれはいま先に見える一つの光の球に向かって猛然と突き進んでいる。しかし猛然とは気持ちの上でのみ、身体はというと思い通りに進まない。光の方は、こちらが近づけば近づくだけ、また近づきたいと思うほどに遠くへ逃げるように飛び去っていく。どんどん焦りは募り、手で漕ぎ足で漕ぎ、身体を総動員して水を掻くも前に進まず、その場でじたばたするだけで一向に埒が明かない。息苦しくなって、これはもう駄目になると思ったその時、おれは目を醒ました。
施術を終えて部屋を出ると身体は今にもぷかぷかと浮かび上がりそうになった。夢の後味は依然脳裡に残るものの気分は少しも悪くない。代金を支払うと受付台の向こうから女が領収書を寄こして来週の予約をどうするか訊いた。おれが要らないと答えると女は尖った口をぱくぱくさせた。
「毎週きまって来院されるのなら予約されたらいかがですか。そうすれば待ち時間も掛かりませんのに」
おれは受け取った領収書を折り畳んで診察券と一緒に財布のポケットに仕舞い込んだ。
「予約は要らない。もしかすると来週は身体の調子が良いかもしれない。少なくともそういう希望は持ちたいのさ。それに待つのも嫌いじゃないからね」
「週末は混みますのに」
女は露骨に迷惑そうな顔をした。
病院を出ると潮の流れが強くて身体をぐんぐん前方に引っ張られた。行く手には病院を起点として道が二股に伸びている。そのどちらを行っても家に着くのだが、一方は陰険な神社の脇をとおる近道で、もう一方はやや遠回りになるがハイグロフィラの繁茂した小奇麗な公園を通る道である。いつもなら軽くなった身体で公園のなかをぐるっと遊泳してから帰るのだが、今日はなんだか妙に眠たくて近道をして帰ることにした。
神社の前に差しかかると表の電灯に照らされて、か細い鳥居がおぼろに浮かび上がっていた。その奥にうす暗い光の集合が見えた。何かと思って鳥居をくぐると、境内の一角にぽつんと露店が開いてあった。
二
「こらええとこに来たでイカの旦那」
乱雑に積み上げられた檻や空気槽の陰になって香具師の姿は見えない。
「今日はええのがようけ揃ってるんや」
うねうねと陳列物の間から這い出てきたのは頭の妙に大きいタコであった。タコはさっそく腕を波打たせて手前にある一つの檻を指し示すような動きをした。
「これなんか珍しい」
時おり潮の流れを受けて伸びた腕が揺れる。その度に白い吸盤がちらちら見えてうす気味悪い。
「今朝仕入れたばかりの深海魚や。深海におる奴を捕まえてそのままこの辺りに引き揚げてきたらそら急に水圧さがって魚が爆発してしまいよる。でもこれ見てみ、ぴんぴんしとるやろ。深いとこからゆっくりゆっくり手間かけてこっちに運んできたんや」
檻の中には頭の部分だけが透け透けになって中身の丸見えになった何とも珍奇な魚が浮いていた。口は棒で突かれた痕のように開いたままになって、飛び出した両目はどちらも白濁している。
「檻に仕掛けがある訳やないで」
タコは鉄棒のあいだに腕の先を挿し入れると尖端をくるくると巻いたり伸ばしたりしてみせた。物憂げな深海魚にはひとつの反応もない。
「ほとんど動かないみたいだけど、これは弱ってるのと違うのかい」
「あほ言いな。旦那は深海魚っちゅうのを見たことないからそないな風に思うだけや。こいつらはこれで正常。深海におる連中いうのはみな鈍臭いし大体がめくらでほとんどが唖や。だから大人しいしとる。観賞には静かなのがええ」
「あんまり動かないやつを観賞用にしても面白くないだろう」
「いやそらごもっともで。そしたらこっちはどないで」
次にタコが提示したのは小さい球形の空気槽であった。
「何も入っていないじゃないか。死んだ魚の次は空気を売るつもりかい」
「そんな人聞きの悪い。よう見なはれ」
目を凝らすと薄汚れたガラスの向こうに二三の黒い粒がせわしく動き回っているのが見えた。
「このなか元気よく飛び回ってるのがハエいう動物や。陸棲の昆虫でなかなか出回らん。というのも仕入れをカエルがやっとって、あの意地汚い半魚がだいたい捕獲した先から食べてまいよるいう話ですわ。ああいう理財の才のない阿呆な連中はこの世の中じきに食いっぱぐれて藻屑になるのが目にみえとる。ところで旦那、これなら見飽きへんのと違いますか」
「よく動くのはいいけど小さすぎて見飽きるよりも先に目が疲れてしまうよ。それに聞くところによるとハエというのは大便や死骸に群がる習性があるというではないか。いくら陸棲のものだといっても、どこの馬の骨の上を舞っていたかも知れぬような不気味な動物を飼う気にはなれないね」
「旦那にはかなわんわ」
タコは顔の上の広い額の皺を余った腕のうちの二本を使って掻き毟った。
「一体こんなものが売れるのかい」
「売れんと商売にならんがな。ハエを知っとるいうことはチョウチョウいうのも知っとるやろうけど、あれは馬鹿に高い。標本でも高いのに生きてるのとあらば尚更で、値段を訊いたサケの婦人がその場で筋子飛ばしたいう話もあるぐらいや」
そんなことがあるのかという顔をするとタコの漏斗から泡がすこし漏れた。
「まあま所詮そこらの連中には手が出ん贅沢品やわな。チョウチョウが欲しくても金がない。ガはどうかと言えばこれもまだまだ高い。でもハエなら手が届く。そういう奴らが、これおかしな話やけど、同じ空中を飛びまわる昆虫やからいうてハエで手を打とうとするわけや」
「ハエとチョウチョウじゃ大違いだ。わざわざハエを欲しがるとは物好きもいるもんだね」
「せやから欲望っちゅうのは恐ろしい。欲しい欲しいと思てるうちに何を求めてるかさぱり判らんようになる。それはそうと物好きでいえば」
タコは眠そうな眼をさらに細めてこちらを試すような口ぶりをした。
「旦那、とっておきのがあるんですわ」
「なに見せてくれないか」
「それが表には出せん。こっちですわ」
おれはタコの後を追って陳列物のあいだをうねうね這って店の裏へと抜け出した。
三
店の奥は表と違って随分と暗い。どこか水も薄汚れているような気持ちがした。裏側にも大小さまざまな檻や空気槽が置かれてあるが肝心の中身が無かったり、得体の知れぬ桃色の塊が浮いていたり、明らかに死骸が入っていたりして居心地が悪い。タコはなかでもひと際大きな何かを覆い隠している布切れの端をつまみあげておれの方へと向き直った。
「これですわ」
その異様な大きさから考えると、とんでもないものが入っているに違いなく、おれは急に恐ろしくなって全身が緊張した。
「なんだか大きいね」
タコはおれをじろじろと眺めたあとに何も言わず布きれをするりと取り払った。おれはとたんに拍子抜けした。大きいと思っていたのは実は長方形をした薄目の空気槽が四五本平積みにされていただけだったのである。
「それならそうと言ってくれてもいいだろう」
おれはタコに驚かされた気分がしてむかむかした。近づいて一番上になっている空気槽のなかを覗き込むとそんな気分は吹き飛んだ。ヒトが入っていたのである。
しかしそれはおれが聞いていたヒトの姿とはまるで別物であった。まず身体の表面に奇態な模様がある。それ自体で光っているような真白い皮膚のうえを鮮やかな赤色をした太い筋が縦横に這いまわっている。そうして表れたパターンには自然の造形とも人為のものとも判別のつかない妙な規則性への志向がある。じっと眺めているとその強大な美しさにこちらの意味世界がおびやかされるような感覚がした。
「いい縞が出てますやろ」
タコの声にはっとして我に返った。
「それに欠けも少ない」
「欠けというのは何だ」と訊くとタコはガラス表面の一点に腕を垂らした。
「よう見てもろたらわかる」
示された箇所を検分してようやく気がついた。右腕の先端が無いのである。左腕の先の部分は五つに枝分かれしてそれぞれが繊細に伸びているのに対して右腕にはそれがない。先端部が丸くなったまま寸足らずになって格好がつかない。
「こっちの腕の先にはヒトデが付いていないね」
「いかにもおっしゃるとおり」
タコは腕を伸ばしてヒトの脚の上のあたりでガラスをとんとんと叩いた。
「脚の方もよく見れば枝が二三欠けとる。といっても少ない方ですわ。縞の具合と合わせれば一級品に違いない」
脚のことなどどうでもよかった。おれはヒトの見事な球形をした頭部に魅入っていた。前に沈んでいるヒトの死骸を見たという奴が、ヒトの頭には海草が生えていると吹聴して回っていたが、あれはたまたま海草が纏わりついたのを見ただけなのだろう。ここにあるヒトの頭はつるつるしていて異物のひとつも付着してはいない。そこに腕をぴしゃりと叩きつける心地を想像しておれは思わず生唾を飲み込んだ。
「ヒトというのは噂よりも随分と奇麗だね。まさか偽物じゃないだろうね」
「また阿呆なことを。ここにあるのは正真正銘の本物。この手で獲ってきたんやから間違いない」
言い切るとタコは胸を膨らませた。
「あんたが獲ってきたというのも本当か」
「ああ獲ってきた獲ってきた。と言っても地上に出て襲うわけにはいかんやろ。だから、もちろん何処とは言えんけど、ヒトが定期的にようけ捨てられる湾口いうのがあって、そこに出向いて獲ってきてるいうわけですわ」
おれはもの凄い数のヒトが海に打捨てられている様を想像してその凄まじい情味にしばらくの陶酔を免れ得なかった。四肢を互いに絡みつかせた大量のヒトが波の上をひと塊りになって揺動している。身体に這う赤い模様がどんどん他のヒトの模様と繋がって、ついに真白い肉体の素地の上に巨大な総意が浮かび上がる。
「ヒトが出回り始めたのもここ数年、なんでヒトが捨てられてるようになったかいうたら、これがさっぱり解らん。それに前までヒトの死骸が海に流れることはあったけれどもこんな縞や欠けは見当たらんかったいう話ですわ。偉い学者先生に言わせると戦争や何たらいう爆弾がどうたらで今みたいになったいうけど、ほんまかどうか知らん」
「そんなことはどうだっていいさ」おれはもうヒトが欲しくて堪らなかった。
「これで幾らになる」
「おや気に入ってもらえましたか。やっぱり旦那には眼識がおますな」
タコはさっそく数本の腕を使って器用に計算機をはじいた。ある程度値が張ることは予想していたが提示された金額を見ておれはひっくり返りそうになった。
「ここにあるので一番安いのはどれになる」
「安いの言うたってここあるのはどれも上等、値段もそない大して変わらん」
と言ってタコは新たに値段をはじき出したがそれでもとてもおれに払える額ではなかった。
「とてもじゃないが払えない。でもどうしても手に入れたいんだ。もう少しなんとかならないだろうか」
「無理を言わんといてください。こっちも商売でやっとるんですわ」
タコは呆れた様子で計算機を片付けた。
「どうにかならないか」
おれが駄目を押すとタコは布きれを手繰り寄せるのを止めて渋々という態度で応じた。
「実は売り物にならんようなヒトなら一体ある。縞の具合も悪くて欠けもひどい。それでもいいと言うなら」遮っておれは答えた。
「それを買うよ。見せてくれないか」
タコは一番下になった空気槽を大義そうに引っ張り出した。たしかにそれはタコの言う通り先に見たヒトよりも明らかに品質が悪かった。模様のつき方がまばらで脚の先の枝はちゃんと揃っているものの今度は両腕がごっそり欠けていたのである。しかしそんなことはヒトが手に入らないことに比べると大した問題ではなかった。
「これでいい。これをもらうよ」
「普通なら買い手のつかん商品や。空気槽代だけ払ってくれたらそれでええ」
とは言うもののタコが示した値段は十分に高かった。それでも払えないわけではない。タコはおれの予算をうまく把握していたのである。仕方なくおれは財布の底をはたいて代金を支払った。
「おおきに」タコは白々しくそう言って巨大な頭を揺さぶった。
おれはヒトを抱え込んで裏口から外に出た。どこかに落としたり、だれかに盗まれたりするのではないかという不安が急に立ち上がってきた。早く家に帰らなければならないという気がした。
「旦那も湾口に出ていっぺん探してみたらよろしいわ」
タコは店の裏口から顔を出して言った。
「おれは浅いところが大嫌いなんだよ。それとも本当にヒトが獲れる所を教えてくれるというのかい」と訊くとタコはもう何も言わなかった。おれは腕が塞がっているのと空気槽の抵抗とでふらふらしながら境内を進み、灯りを背に受けてぼやぼやした影だけになった鳥居の下を這いずるようにしてくぐり抜けた。
四
浮かんだままどこかへ行ってしまわないように居間の床に空気槽を固定してようやくおれはじっくりとヒトの身体を観察する時間を持った。店の中ではわからなかったが明るいところで見てみると顔の造りの美しいことがよく分かった。優しく閉じられた眼を眺めているとその薄皮のまぶたを針でちょんと突いて今にもその下に透けて見えそうな大きな眼球を取り出してみたくなる。それからつんと立った鼻を分解してそれが複雑な曲線の単純な接合から成っていることを証明し、こぢんまりとした唇には墨を落としてそこに数限りなく刻まれた微細な皺のひとつひとつを浮かび上がらせてみたくなった。
おれはさまざまな衝動を覚えながらガラスの上に腕を押し付けてヒトの顔のそれぞれの部位を時間をかけて丁寧になぞっていった。最後に輪郭の線を結び終えると、まさか目を覚ますのではないかと思って真ん中の顔に
「おい」と話しかけてみた。
返事を待つ間におれはヒトの身体をもう一度確かめるように眺めまわした。胴体が異様に伸びて長く見えるのはおそらく両腕が欠けているせいなのだろう。その胴体の終わりから二股にするすると伸びた両脚だってなんだかその様子が急に気味悪く思えてきた。ヒトはこの脚を動かしてどんな格好をして地上を歩くというのだろうか。
「おい歩いてみせろ」
細長い脚をはたはたと前後させてヒトが歩いている姿を想像して、ふとおれも地上に出て歩くというのをしてみたくなり、その場で脚をぐるぐると回転させてみるのだった。これでどうやって地面を進むのかあれこれ思案していると脚の数がみるみるうちに手に余ってきて今にも縺れてしまいそうになった。大気に身を投じれば身体は浮力を失って自重のすべてを自身で支えなければならないから、そもそも立っているだけで相当苦しいに違いない。それでも地面を蹴り出して進まなければ歩くことにはならない。歩くとは実に勇猛な行為なのである。おれは自分が地上を勇ましく歩いているところを思い浮かべて気持ちを良くした。
「お前は脚しかないくせに歩けないというのか」
口に出してそう言ったかどうかは分からない。脚先に乾いた砂のさらさらした感じが伝わってくる。振り返ると遠くの方から砂のへしゃげた跡が点々と続いているのが見える。これがおれの足跡なのだ。そう思うと海から湿った風がふわりと吹き付けてきておれは眠りに落ちた。
先に見える一つの光の球に向かっておれはいま猛然と水中を突き進んでいる。近づきたいと思うほどに身体はぐんぐん速度を増して海里をあっという間に泳ぎ抜ける勢いである。それに応じて光の球もじわじわ半径を拡げていって、ある程度の大きさになると、そこから横に分散をし始めた。光の球は一つではなかったのである。この新たな発見に心は踊りますます全身が躍動した。そしておれはいよいよ光の温かみさえ感じられるようになった。
そのとき身体に強烈な浮遊感があった。おれが生み出している推進力とは別のもっと偉大な力が身体に加わったのである。おれは畏ろしくなって運動を止めた。それでも身体は進み続けた。きっとこれが光の力なのだ。おれはいま光に導かれているのだ。そう思うとあたり一面が急に眩しく輝きだした。さらに身体には不安定な力が加わり急にぐらぐら揺れだして気分が悪くなってきた。しまった浅瀬に来てしまったと思うが早いかおれは海面を突き抜けて空中に飛び上がっていた。
光は海の中には無かったのだ。全身を襲う虚脱感と寒さのなかでおれは海上に浮く一隻の漁船を見た。船橋の上からデッキの先に渡された白い鉄棒にいくつかのメタルハライド灯が吊り下がり刺すばかりの光線を放っている。デッキの上にはおびただしい量のヒトが立っている。どれもこれも薄皮のまぶたをひん剥いて大きな眼球の底でおれをじっと眺めている。ヒトの肉体は溶け合って一枚の真白い壁になる。境界が決して生まれないのはヒトのすべてに両腕がないせいだった。
おれは叫び声をあげて飛び起きた。部屋の明かりを点けておいたのにあたり一面真っ暗になっていた。夢から覚めたのかはっきりせず寒気がしてぶるぶる震えると目の前の闇が一段と深くなった。おれは恐怖のあまり気付かぬうちに墨を吐いていたのである。自分の醜態を知ってあわてて水をかき回すと黒いもやが剥がれて居間の面影が視界に戻ってきた。しかしそこにヒトの空気槽がなかった。それからおれは丹念に部屋を調べ上げたがついに空気槽が見つかることはなかった。しばらくしてふと水流にのまれて外に出ていったのではないかと思い窓辺に寄ると、はるか遠くの電光の元をヒトが砂煙も上げずに歩いているのが見えた。