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聖女をクビになった日に書いた引き継ぎ書は二百枚。屑籠から拾って一晩で読んだ人が、夜明け前に馬で迎えに来ました

作者: 八咫烏葵
掲載日:2026/11/03


 夜明け前の四時、クラリッサは、王都の北の門の前に立っていた。


 石の門の足もとに、古い魔法陣が刻まれている。七重の円と、二百十六の小さな印。王都を魔物から守る結界の、北の要だ。


 クラリッサは膝をついて、両手を魔法陣の中心に置いた。


 息を吸う。祈りの言葉を一つずつ、正しい順番で唱える。北の門は三番目の円から始めて、外へそれから内へ。東の門は五番目から。南の門はいちばん外から。西の門は毎月七日だけ、逆回り。


 七年間、一日も欠かさずに続けてきた順番。


 手のひらの下で、魔法陣が、淡い金色に光った。二百十六の印が一つずつ、灯っていく。最後の一つが灯ったとき、門の上の空気が、かすかに震えて静まった。


 クラリッサは立ち上がって膝の土を払った。


 東の空がうっすらと白みはじめていた。


 ――次は東の門。それから、施療院。


 施療院の小さな病室では、六つの寝台に、熱病の子どもたちが眠っていた。


 いちばん奥の寝台の、五歳のポムが、真っ赤な顔で苦しそうに息をしている。クラリッサは寝台の脇に膝をついて、ポムの額に手を当てた。


 熱かった。


 祈りの言葉を小さく唱えた。手のひらから、淡い光が、ポムの額へ流れていく。強い光ではない。妹のように、部屋じゅうを照らすことはできない。そのかわり、熱の芯にまっすぐ届く。


 しばらくすると、ポムの息が少しだけ静かになった。


 ポムがうすく目を開けた。


「……せいじょさま」


「おはよう、ポム。お昼にもまた来るからね。真夜中にも」


「まよなかも? せいじょさま、ねないの?」


「寝てるわよ。少しだけ」


 ポムは熱でかすれた声でくすっと笑った。それから、また目を閉じた。


 クラリッサはその小さな手をそっと毛布の中にしまった。


 聖女になって七年。二十二歳。神殿で暮らす聖女の朝は、いつもこうして始まる。




 その日の昼過ぎ、神官長の部屋に呼ばれた。


 ゴドフロワ神官長は、金の刺繍の入った白い法衣を着て、大きな机の向こうに座っている。机の横に、妹のアマンディーヌが立っていた。


 アマンディーヌは十八歳。半年前に聖なる力に目覚めた。


 目覚めた日、神殿の大広間に、まばゆい光があふれた。祈りを捧げる妹の体から、金色の光の柱が天井まで立ちのぼった。居合わせた巡礼の人々が、ひれ伏して泣いた。


 クラリッサの光はそんなに強くない。結界の魔法陣を灯すのがやっとの、淡い光だ。


「クラリッサ」


 神官長は指先で机を叩いた。


「来月の大祭で新しい聖女を民に披露する。アマンディーヌだ」


 クラリッサはまばたきをした。


「妹君のほうが、聖女にふさわしい。光も強いし、見目もよい。民は聖女に華を求めている。……あなたの光は地味すぎる」


 アマンディーヌが、困ったように眉を下げた。


「お姉様、ごめんなさい。わたし、断ったのよ。でも神官長様が」


「アマンディーヌ、謙遜はいらない」


 神官長は妹の言葉を手でさえぎった。


「クラリッサ。あなたには、聖女の座を降りてもらう。神殿に残って、下働きをするなり、実家に帰るなり、好きにしなさい」


 七年。


 夜明け前の四時に、毎日、四つの門を回った。施療院で、熱にうなされる子どもの額に手を当てて朝まで祈った。冬の熱病の薬草を一束ずつ量って配合した。孤児院の子どもたちに読み書きを教えた。


 それを地味すぎる、の一言で。


 膝の上で両手を握った。


 悔しかった。でも、それと同じくらい、どこかでほっとしている自分がいた。


 七年間、一日も休んでいない。熱を出した日も、母が亡くなった日も、夜明け前の四時には北の門の前にいた。


「……承知いたしました」


 クラリッサは深く頭を下げた。


「では、三日だけ、時間をください。妹に、聖女の仕事を引き継ぎます」


 神官長は鼻で笑った。


「引き継ぎ? そんなものはいらない。アマンディーヌの光があれば、聖女の務めなど、どうとでもなる」


「三日だけで結構です」


 クラリッサは顔を上げなかった。


 神官長はしばらく黙っていた。それから、面倒くさそうに手を振った。


「好きにしなさい」


 部屋を出てから、クラリッサは、神殿の回廊の柱にもたれて目を閉じた。


 母のことを思い出していた。


 母も聖女だった。光の弱い聖女だった。クラリッサが十五で聖なる力に目覚めたとき、その光があまりに淡いのを見て神官たちは顔を見合わせた。こんな光で、結界が守れるのか、と。


 その夜、母は、クラリッサを北の門に連れていった。夜明け前の四時に。


 ――光は弱くてもいいの、クラリッサ。門を守るのは光の強さではなくて順番を知っていることよ。


 母は三番目の円に手を置いて、祈りの順番をひとつずつ教えてくれた。


 ――毎朝、同じ順番で同じ時間に。誰も見ていなくても。それがわたしたちの務め。


 母が亡くなったのはその二年後だった。それから五年、クラリッサは、母に教わった順番を一日も欠かさずに守ってきた。


 誰も見ていなくても。


 回廊の向こうで、大広間から、アマンディーヌの祈りの光が、まばゆく漏れていた。




 三日間、クラリッサは、ほとんど眠らなかった。


 自分の部屋の小さな机でペンを動かし続けた。


 一日目は結界のこと。


 四つの門の魔法陣の、祈りの順番。北は三番目の円から。東は五番目から。南はいちばん外から。西は月の七日だけ逆回り。順番をまちがえると、魔法陣は灯るけれど、昼過ぎに一つずつ消えていく。そのとき、どの印から消えるのか。消えたときにどう直すのか。


 門ごとに図を描いた。二百十六の印を一つずつ。


 二日目は施療院と薬草のこと。


 今、施療院にいる患者、四十三人。名前と、病と、癒やしの祈りを当てる時間。熱病の子には、夜明けと、正午と、真夜中。骨折の老人には朝と夕。祈るだけでは治らない病には薬草を使う。冬の熱病には、柳の皮を二、蜂蜜を一、白い花の根を半分。量をまちがえると、子どもは吐く。


 薬草園のどの畝に何が植えてあるか。いつ摘むか。どこに干すか。


 三日目はそれ以外のこと。


 孤児院の子どもたちの名前と、読み書きの進み具合。字の苦手な子に、どの絵本から始めるか。王宮への毎日の報告。結界の様子と、施療院の様子を毎晩、短く書いて、王太子殿下の執務室に届けること。巡礼の人々の相談を受ける時間。葬儀の祈り。


 最後の頁を書き終えたのは、三日目の夜明け前だった。


 紙は二百枚を超えている。


 クラリッサはそれを紐で綴じて表紙に書いた。


 ――聖女の務め 引き継ぎ書


 それから、窓の外を見た。東の空がうっすらと白みはじめていた。


 四時を過ぎていた。


 北の門に行かなければ。


 ――ちがう。今日からはわたしの務めではない。


 そう思ったら、急に手がふるえた。


 七年間の夜明けが、二百枚の紙になった。それを渡したら、わたしには何も残らない。


 クラリッサは綴った紙の束を胸に抱きしめた。少しだけ、泣いた。




 その朝、神官長の部屋で、クラリッサは引き継ぎ書を差し出した。


 神官長は紙の束を受け取って、表紙を見て、ぱらぱらと三頁だけめくった。


「……何だ、これは。門の印の数え方、薬草の分量、孤児の名前。こんな細かいことを聖女がやっていたのか」


「はい。毎日」


「下の神官にやらせればいい仕事ばかりだ」


 神官長は紙の束を机の横の屑籠にぽいと放りこんだ。


 どさり、と、重い音がした。


 クラリッサは屑籠の中の紙の束を見下ろした。七年間の夜明け。


 何も言えなかった。


 うしろで、アマンディーヌが、小さく息をのむ音がした。


「アマンディーヌは、明日の朝から、大広間で民に祈りを捧げる。それで十分だ」


 神官長はもう、クラリッサを見ていなかった。


「ご苦労だった。下がりなさい」


 クラリッサは深く頭を下げて部屋を出た。


 廊下で、アマンディーヌが追いかけてきた。


「お姉様! 待って」


 振り向くと、妹は、泣きそうな顔で、クラリッサの袖をつかんでいた。


「あれ……屑籠から、わたし、拾っておく。ちゃんと読むから」


「……ありがとう、アマンディーヌ」


 クラリッサは妹の手をそっとほどいた。


「北の門は三番目の円から。それだけは明日の朝、忘れないで」


 その日の午後、クラリッサは、小さな鞄一つで神殿を出た。


 行き先は亡くなった母の生まれた村。王都から馬車で半日の、薬草園のある小さな村だった。




 一日目。


 村の薬草園の小屋で、クラリッサは、七年ぶりに、夜明け前に起きなかった。


 目が覚めたら、もう、日が高かった。


 寝台の上でしばらく天井を見ていた。




 四時に、北の門に行かなかった。施療院の熱病の子の額に手を当てなかった。




 ――大丈夫。アマンディーヌがいる。光はわたしよりずっと強い。




 そう思いながら、胸の奥が、ざわざわした。


 小屋の戸を開けると、母の生まれた村は、秋の光の中で静かだった。


 薬草園の畝には柳の苗と、白い花と、名前も知らない草が、整然と並んでいた。母が子どものころ、ここで摘んだ草だ。


 昼過ぎ、小屋の戸が叩かれた。


 腰の曲がったおばあさんが、小さな男の子の手を引いて立っていた。男の子は真っ赤な顔をしてぐったりしていた。


「あんた、王都の聖女さまだったんだろう。村じゅう、噂だよ。……孫が、ゆうべから熱が下がらないんだ」


 クラリッサは男の子を寝台に寝かせて額に手を当てた。


 熱病だった。王都の施療院の子たちと、同じ。


 祈りを当てた。淡い光がまっすぐ熱の芯に届いた。それから、薬草園で柳の皮と白い花の根を摘んで蜂蜜と合わせて煎じた。白い花の根は半分。


 夕方、男の子の熱が下がりはじめた。


 おばあさんが、何度も頭を下げて帰っていったあと、クラリッサは小屋の戸口に座りこんで、自分の手のひらを見下ろした。


 聖女の座を降りても、手のひらの光は消えていなかった。


 ――わたしはまだ、聖女なんだ。


 王都の方角の空を見た。夕焼けが北のほうだけ、少しだけ暗く見えた気がした。


 同じ日の昼過ぎ、王都の北の門で、魔法陣の印が、一つずつ消えはじめた。


 アマンディーヌは、夜明けに門の前で祈った。光はまばゆかった。二百十六の印は一度にすべて灯った。


 でも、祈りの順番を知らなかった。いちばん内の円から、力いっぱい光を注いだ。


 昼過ぎ、外側の円から、印が、ひとつ、またひとつと、ろうそくのように消えていった。


 二日目。


 施療院で、熱病の子どもたちの熱が下がらなかった。


 アマンディーヌは、大広間で民の前で祈りを捧げていた。施療院には昼に一度だけ来た。まばゆい光で子どもたちを包んだ。でも熱病は夜明けと、正午と、真夜中に祈りを当てなければ、ぶり返す。


 下の神官たちが薬草を煎じた。分量を知らなかった。白い花の根を多く入れすぎた。三人の子が吐いた。


 北の門では夜までに、三十の印が消えていた。結界に、目に見えないほどの小さな穴があいた。夜、その穴から、羽虫ほどの小さな魔物が、いくつか王都に入りこんだ。人を傷つけるほどのものではなかった。それでも、北の下町の人々は、夜通し、戸口に火を焚いて眠れなかった。


 三日目。


 東の門の魔法陣にひびが入った。


 孤児院の子どもたちは、読み書きの時間に、誰も来ない教室でじっと待っていた。


 そして、王太子殿下の執務室に、毎晩届いていた報告が、三日、届かなかった。




 三日目の夜、クラリッサは、薬草園の小屋で干した柳の皮を刻んでいた。


 眠れなかった。


 村の人から、王都の噂を聞いていた。北の下町で、夜に羽虫の魔物が出たらしい。施療院の子どもが、吐いたらしい。


 包丁を持つ手が止まった。


 ――わたしのせいだ。


 ちがう。わたしは二百枚の引き継ぎ書を書いた。屑籠に捨てたのは神官長だ。


 でも、あの子たちの熱が下がらないのは本当だ。


 クラリッサは包丁を置いた。


 戻るべきだろうか。でも、戻って何と言えばいい。神官長はわたしを聖女の座から降ろした。勝手に門で祈ったら、神殿の決まりに背く。


 膝の上で両手を握った。


 そのとき、小屋の外で馬の蹄の音がした。


 夜なのに。この村に、夜に馬で来る人などいない。


 扉が強く叩かれた。


「――夜分に失礼する。元聖女の、クラリッサ殿の住まいはこちらか」


 低い、よく通る声だった。


 扉を開けると、背の高い男の人が立っていた。


 濃い紺の上着に、王家の紋章の入った銀の留め具。黒い髪が夜風に乱れていた。片腕に、紐で綴じた分厚い紙の束を抱えていた。


 見覚えのある、紙の束だった。


「……それ」


「神官長の部屋の屑籠から、妹君が拾ったそうだ。妹君が、ゆうべ、王太子殿下の執務室に、泣きながら持ってきた」


 男の人は紙の束を少しだけ持ち上げてみせた。


「王太子殿下の側近の、エーリッヒ・ハイデンだ。……昨夜、ひと晩かけて全部読んだ」


 クラリッサは言葉が出なかった。


 エーリッヒ様は小屋の中を見回して、それから、作業台の上の、刻みかけの柳の皮を見た。


「柳の皮を二、蜂蜜を一、白い花の根を半分」


 引き継ぎ書の、二日目の頁の文句だった。


「施療院の下の神官たちは、白い花の根を一と読みまちがえていた。……あなたの字は、半分の『半』の点が、少し小さい」


 クラリッサは思わず、口に手を当てた。


 それは知っていた。母に、何度も直された癖だった。




「中へどうぞ」


 クラリッサはエーリッヒ様を小屋に通して炉に火を足した。湯を沸かして薬草のお茶を淹れた。


 エーリッヒ様は作業台の前の丸椅子に座って、紙の束を台の上に置いた。


「北の門の印が、三十消えた。東の門にはひびが入った。施療院の熱病の子は、三人が吐いて、まだ熱が下がらない」


 エーリッヒ様は短く、ひとつずつ言った。


「妹君は、この三日、ほとんど眠らずに祈っている。光は強い。だが順番を知らない。引き継ぎ書を読みはじめたが、二百枚を三日で覚えるのは無理だと、泣いていた」


 クラリッサの胸が、ぎゅっと痛んだ。


 アマンディーヌ。


「神官長は、どうしているんですか」


「大広間で、民の前で、妹君の光を見せびらかしている。結界のことは妹君の祈りが足りないからだと」


 エーリッヒ様の声が少しだけ低くなった。


「王太子殿下が、今朝、神官長を呼び出した。引き継ぎ書を見せてこれを読んだかと訊いた。神官長は三頁しか読んでいなかった」


 エーリッヒ様は引き継ぎ書の表紙に手を置いた。


「神官長は、今朝の時点でその座を解かれた。殿下の命だ」


 クラリッサは息をのんだ。


「……ではわたしは」


「殿下からの伝言を預かっている」


 エーリッヒ様は上着の内側から、封蝋の押された手紙を一通、取り出した。


「聖女の座に戻ってほしい、とは言わない。神殿の決まりより先に、まず、北と東の門を救ってほしい。そのあとのことは、あなたが決めていい、と」


 クラリッサは手紙を受け取った。


 封蝋の、王太子殿下の紋章。


 七年間、毎晩、殿下の執務室に報告を届けてきた。返事が来たことは一度もなかった。読まれているのかどうかも分からなかった。


「……殿下は、わたしの報告を読んでくださっていたんですか」


「読んでいたのは私だ」


 エーリッヒ様は炉の火を見ながら、言った。


「殿下の執務室に届く書類はまず、私が全部読む。三年前から、そういう役目だ」


 クラリッサは手紙を持ったまま、エーリッヒ様を見た。


「毎晩、結界と施療院のことが、短く書いてあった。北の門の印は今日も二百十六すべて灯った。施療院の熱病の子が、一人、熱が下がった。孤児院の何とかという子が、自分の名前を初めて書けた」


 エーリッヒ様は少しだけ言葉を切った。


「たまに、余白に、小さな字で書き足してあった。今朝の北の門は霜が降りて、魔法陣が白く光ってきれいでした、とか。薬草園の猫がまた子を産みました、とか」


 クラリッサの顔がかあっと熱くなった。


 書いた。たしかに書いた。誰にも読まれていないと思っていたから。


「三年間、毎晩、それを読んでから、眠っていた」


 エーリッヒ様は炉の火から、クラリッサに目を移した。




「三日前、報告が届かなかった。次の日も。その次の日も。……眠れなかった」


 クラリッサは手紙を握ったまま、炉の火を見つめた。


「……でも、わたしが戻ったら、神殿の決まりに背くことになります。聖女の座を降りた者が、勝手に門で祈るなんて」


「決まりは殿下が変える」


「それにアマンディーヌが。妹の立場がなくなってしまいます。民の前で、新しい聖女として披露されたばかりなのに」


 エーリッヒ様は少しだけ黙った。


 それから、引き継ぎ書の、いちばん最後の頁を開いて、クラリッサの前に置いた。


 三日目の夜明け前に最後に書いた一行。


 ――アマンディーヌの光は、わたしよりずっと強い。順番さえ覚えれば、四つの門は、今よりもっと明るく灯ります。どうか、妹を責めないでください。


「二百枚の最後に、妹君のことを書いた人が、妹君の立場を気にしないはずがない」


 エーリッヒ様の声は静かだった。


「だから、迎えに来た。あなたが一人で戻るのではなく、私が連れて戻る。責めを受けるなら、私が受ける」


 炉の火がぱち、とはぜた。


 クラリッサは手紙を胸に当てた。


 七年間、誰かに、迎えに来てもらったことなど、一度もなかった。夜明け前の四時、北の門へ向かう道はいつも一人だった。


「……北の門は四時です」


 クラリッサは立ち上がった。


「今から出れば、間に合います」


 エーリッヒ様がすぐに立ち上がって扉を開けた。夜の冷たい風が小屋の中に流れこんできた。




 夜明け前の三時、クラリッサは、エーリッヒ様の馬の後ろに乗って王都へ向かっていた。


 夜風が頬に冷たかった。エーリッヒ様の背中の、紺の上着を両手でつかんでいた。


 北の門に着いたのは四時の少し前だった。


 門の前に、小さな人影が、うずくまっていた。


 アマンディーヌだった。


 白い聖女の衣が土で汚れていた。魔法陣の前に膝をついて、両手を中心に置いたまま、肩を震わせていた。


「アマンディーヌ」


 クラリッサが呼ぶと、妹が、顔を上げた。


 目が真っ赤に腫れていた。


「お姉様……」


 アマンディーヌは、立ち上がろうとしてよろけた。クラリッサは駆け寄って妹を抱きとめた。


「ごめんなさい……わたし、できなかった……光は出るのに、印が消えていくの。読んでも、読んでも、順番が頭に入らなくて」


「いいの」


「お姉様、これ、七年間、毎日、ひとりでやってたの? 四つの門も施療院も孤児院も報告も? わたし、知らなかった。お姉様はいつも、ただ静かに祈ってるだけだと思ってた」


 アマンディーヌが、クラリッサの胸で子どものように泣いた。


 クラリッサは妹の背中をゆっくりさすった。


 七年間、誰にも知られていないと思っていた。妹にさえ。


「アマンディーヌ。一緒にやろう」


 クラリッサは妹の手を取って魔法陣の前に膝をつかせた。自分もその隣に膝をついた。


「わたしが、順番を唱える。あなたは光を注いで。わたしの光は弱いから、あなたの光が要るの」


 アマンディーヌが、目を見開いた。


「三番目の円から。……さあ」


 クラリッサは祈りの言葉をひとつずつ唱えた。アマンディーヌが、その言葉に合わせて両手から光を注いだ。


 まばゆい金色の光が、三番目の円から、外へ、それから内へ、正しい順番で流れていった。


 二百十六の印がひとつずつ、灯っていった。


 消えていた三十の印も。


 最後の一つが灯ったとき、門の上の空気が、大きく震えて静まった。いつもよりずっと強く、ずっと明るく。


 東の空が白みはじめていた。


 アマンディーヌが、光の灯った魔法陣を見下ろしてぽかんと口を開けていた。


「……できた」


「できたわね」


「お姉様の順番と、わたしの光で」


 アマンディーヌは泣きながら、笑った。


 門の脇で、エーリッヒ様が、手提げの灯りを掲げて黙って二人を見ていた。




 その日のうちに、東の門のひびを直した。施療院の熱病の子たちに、正しい分量の薬草を飲ませて、夜明けと正午と真夜中に祈りを当てた。三日目の朝、いちばん小さな子の熱が下がった。


 孤児院の子どもたちは、クラリッサが教室に入っていくと、わあっと声を上げて飛びついてきた。


 その夜、神殿の、小さな聖女の部屋に戻ると、机の上に、湯気の立つ杯が一つ置いてあった。


 薬草のお茶ではなかった。焙じた豆の、黒い、香ばしい飲み物。王宮の文官たちが、夜通し書類を読むときに飲むものだと聞いたことがある。


 杯の横に、小さな紙が添えてあった。角ばった、きちんとした字で一行だけ。


 ――今夜の報告は要らない。早く寝ること。


 クラリッサは紙を持ったまま、しばらく立ちつくしていた。


 それから、窓辺の机に座って杯をひと口飲んだ。苦かった。でも、そのあとに、ほんの少し、甘さが残った。


 報告は要らない、と書いてあった。


 クラリッサはペンを取って、いつもの報告の紙の余白に一行だけ書いた。


 ――黒いお茶、ありがとうございました。苦かったです。


 翌朝、執務室から、また一行だけの紙が返ってきた。


 ――次は蜂蜜を入れる。


 そのひと月のあいだ、クラリッサは毎日、アマンディーヌと一緒に四つの門を回った。


 妹は引き継ぎ書を毎晩寝る前に読んでいた。頁の端が指の脂で黒くなっていた。


「お姉様。わたしね、ずっと、お姉様がうらやましかったの」


 ある朝、東の門の帰り道で、アマンディーヌがぽつりと言った。


「お姉様は、いつも静かでいつも落ち着いてて。わたしが光を出せるようになったとき、これでやっとお姉様に追いつけるって思った。……追いついてなんか、なかった」


 クラリッサは妹の手を握った。


「わたしも、あなたの光が、うらやましかったわ」


「うそ」


「本当。北の門の印が一度に全部灯ったのを見たとき、わたし、少しだけ悔しかった」


 アマンディーヌが、目をまるくした。それから、声を上げて笑った。夜明けの東の空に、妹の笑い声が、明るく響いた。


 ひと月後、王太子殿下が、神殿に新しい決まりを出した。


 聖女は一人とは限らない。結界の光を注ぐ聖女と、祈りの順番と癒やしを司る聖女。二人の聖女が並んで務める。


 アマンディーヌは、光の聖女として大祭で民の前に立った。クラリッサはその隣に立った。民は二人の聖女に、同じように頭を下げた。


 新しい神官長は引き継ぎ書を神殿の大書庫のいちばん目立つ棚に置いた。下の神官たちが毎朝、交代でそれを読むようになった。


 ゴドフロワ元神官長は、北の国境の、小さな祠の番人になったと聞いた。結界の魔法陣が一つだけある祠で、祈りの順番を毎朝、正しく唱えなければならない務めだという。




 大祭の夜、神殿の裏の薬草園で、クラリッサは夜空を見上げていた。


 大広間からは祝いの楽の音が、かすかに聞こえていた。


「ここにいたか」


 振り向くと、エーリッヒ様が立っていた。手に、手提げの灯りを一つ持っていた。


「エーリッヒ様。大広間に、いらっしゃらなくていいんですか」


「殿下に、少しだけ抜けると言ってきた」


 エーリッヒ様はクラリッサの隣に立って同じように夜空を見上げた。


「あなたに、一つ、言っておかなければならないことがある」


「……はい」


「引き継ぎ書をもう一度、全部読んだ。二百十二枚。一枚も、抜けていなかった」


 エーリッヒ様は灯りを少しだけ持ち上げた。


「だが、一つだけ、書かれていない項目があった」


 クラリッサは眉を寄せた。


「何でしょう。四つの門も施療院も孤児院も報告も全部……」


「聖女が疲れたとき、誰が、その肩をもむのか」


 クラリッサはまばたきをした。


 エーリッヒ様は夜空を見上げたまま、言った。


「七年間、夜明け前の四時に、四つの門を回った人の肩を誰ももんでいない。それは引き継ぐ相手がいない務めだ。……だから、私が引き受けたい」


 エーリッヒ様がこちらを向いた。


 灯りの光の中で、黒い目が、まっすぐにクラリッサを見ていた。


「三年間、毎晩、あなたの報告を読んでから眠った。北の門の霜の話も薬草園の猫の話も。これから先は報告ではなく、あなたの口から聞きたい。……毎晩、隣で」


 クラリッサの胸が、痛いくらいに鳴った。


 七年間、誰にも見られていないと思っていた。


 毎晩、書いた余白の一行をこの人は三年間、読んでいた。


「……エーリッヒ様」


「何だ」


「わたし、明日の朝も、四時に北の門に行きます。アマンディーヌと二人で。それから、施療院と、孤児院と」


「知っている。引き継ぎ書に書いてあった」


「夜明け前の四時です。とても、眠いです」


「では、灯りを持っていく」


 エーリッヒ様は手提げの灯りを少しだけ持ち上げてみせた。


「毎朝、北の門までこの灯りで足もとを照らす。帰りに肩をもむ。……それで、引き受けさせてもらえるだろうか」


 クラリッサは笑ってしまった。笑いながら、目の端に涙がにじんだ。


 それから、エーリッヒ様の手の中の灯りに自分の手を重ねた。


「……北の門は三番目の円からです。覚えていてくださいね」


「二百十二枚、全部覚えた」


 エーリッヒ様がほんの少しだけ、口の端を上げた。


 薬草園の奥で、猫が一匹、にゃあ、と鳴いた。灯りの光が二人の重ねた手の上で小さく揺れていた。




(完)


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