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いらっしゃいませ、久遠様  作者: 篠原皐月


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11/21

(11)割れ鍋に綴じ蓋

「あなた……。普段散々偉そうにしていても、時勢には疎いのね」

「どういう意味だ?」

「喫茶店のマスターとは、世を忍ぶ仮の姿。ここのマスターは、実は海外の某研究機関理事長の御曹司で、密かに実験動物に日常生活を送らせて支障がないかどうかの最終試験の真っ最中なの。それでこの狐は、各種感染症のリスクを完全に除いた上で、アレルギー症状も起こさないように遺伝子操作された超安全な、新時代最先端の狐なのよ。技術革新の日進月歩に取り残されているのに、訳知り顔で中途半端な知識を語るなんて、恥ずかしいにも程があるわね」

 荒唐無稽にも程がある内容を堂々と語り合えた久美は、ドヤ顔で夫と対峙した。しかしこの状況を目の当たりにした郁と三好は、脳内で絶望的な悲鳴を上げる。


(筑紫さんっ! 何を誇らしげに口走っているんですか!)

(もう駄目だ……。短かったな、私のマスター人生……)

(なかなか面白い女だとは思ったが、ここまでとは予想外だったな)

(元はと言えばあんたのせいでしょうが! さっさと消えなさいよ!)

(待ってください! ここで久遠様にいきなり消えられたりしたら、益々騒ぎが大きくなります!)

(確かにそうであろうな……)

 流石に久遠も処置なしといった感じで、久美の手でぶら下げられながら事態の推移を見守った。するとここで努が、予想外の反応を見せる。


「……そうなのか? それは知らなかったな」

「どう? 久遠様の偉大さを思い知った?」

「確かに、ある意味凄い狐だな」

 真顔で頷いた彼に対し、郁と三好は口には出せない突っ込みを入れるのを止められなかった。


(どうしてそんな荒唐無稽な話を信じるんですか! ありえないでしょう!)

(口から出まかせを丸ごと信じて貰えて安心しましたが、色々な意味で複雑なのですが!)

(妻も面白いが、夫も相当だな……。これはあれか? 世間でいう『割れ鍋に綴じ蓋』というものか?)

(ちょっと待って! この事態をそんな一言で片付けて良いの!?)

(いや、もうこうなったら、穏便に済むのなら何でも良いです!!)

 するとここで努が三好に向き直り、深々と頭を下げてくる。


「マスター。店内で騒ぎ立ててしまって、ご迷惑をおかけしました。知らぬ事とはいえ誤解してしまい、大変申し訳ありませんでした」

 その真摯な謝罪に、三好は恐縮しながら応じる。


「いっ、いえ! 確かに事情を知らない方から見たら、そのように考えるのは当然です。配慮に欠けていました。普段は店には入れていないのですが、今は他に客がいないので、ちょっとだけ上から連れて来ていまして。上の階の部屋を借りているものですから」

「そうだったのですね。良く分かりました」

 三好がダラダラと冷や汗を流しながら、引き攣った笑みで言葉を返した。そこで努が妻に視線を向けながら声をかける。


「ところで、お前の勤務時間はもう過ぎていると思うが?」

「え? ああ、そう言えば……」

「今日は魚吉の特売日だ」

 反射的に久美は店内の時計で時刻を確認したが、次の夫の台詞に苛立った様子を見せる。


「はぁ? 刺身でも買ってこいというわけ! まさか買い物についてくるつもりじゃないでしょうね!? 鬱陶しい!」

「そんなわけがあるか。私はここに珈琲を飲みに来ただけだ。さっさと上がれ。余計な超過勤務になると、マスターのご迷惑だ」

「分かりました! それではマスター、新見さん。そのプリンは遠慮なく食べてください。お疲れ様でした!」

「あ、はい。ご苦労様でした」

「すみません、いただきます」

 素っ気なく努が告げると、久美は憤慨した様子で三好と郁に声をかけ、久遠を慎重な手つきで元通り椅子に座らせて店の奥に消えていった。それを見送った努は、嘆息してから三好に声をかける。


「がさつな女で申し訳ない。あれで良く長年看護師としての勤務できたものだと、不思議に思っております」

「がさつだなんて、そんなことはありませんから。筑紫さんはとても細やかな気配りができる、優秀な方ですよ?」

「お世辞でもそう言っていただけるのなら良かったです。ところで、ブレンドを一杯お願いしてもよろしいでしょうか?」

「勿論です。それではテーブル席が空いておりますので、どうぞそちらに」

「いえ、カウンターで結構です」

「それではお好きな所にどうぞ」

 そんなやり取りを済ませた努は、ゆっくりと足を進めた。郁の左隣に久遠が座っている椅子があったが、努はそこを通り過ぎて彼がいる席の左隣に腰を下ろと、隣の席にいる久遠をしげしげと眺め始めた。その不穏な様子に、郁と三好は必死に動揺を押し隠す。


(え!? どうしてよりによってそこに座るんですか!?)

(やっぱり何か、久遠様について疑っているんじゃ!?)

(ふむ……、邪な感じはしないのだがな……)

 三好は最初にカウンター越しに水やおしぼりを渡し、ビクビクしながらもいつも通り珈琲を淹れ始めた。問題なく淹れ終わると、彼はカウンターを回り込み、努の前に静かにカップやシュガーポット、ミルクピッチャーを置く。


「どうぞ」

「それではいただきます」

 礼儀正しく会釈した努は、静かにカップを持ち上げた。そしてブラックのまま一口味わい、ソーサーに戻してからしみじみとした口調で語り出した。




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