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いらっしゃいませ、久遠様  作者: 篠原皐月


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10/21

(10)夫婦喧嘩は犬も食わない

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 反射的に三好が声をかけると、その男性は幾分躊躇してから言葉を返してくる。


「その……、私は筑紫努と申します。こちらで妻が勤務していると聞いているのですが」

「筑紫さんのご主人ですか! 初めまして、ここの経営者の三好と申します。お見知り置きください」

 相手が久美の夫だと分かった三好は、慌ててカウンター越しに頭を下げた。


「丁寧なご挨拶、痛み入ります。ところで妻は」

「あなた!? ここで何をしているのよ!!」

 そこで二つのプリンをトレーで運んできた久美が、奥から戻って来て驚いたように声を上げた。久美を認めた努は、僅かに不愉快そうに言い返す。


「ご挨拶だな。仮にも接客業なら、職場で声を荒らげるなどもってのほかだ」

「一々偉そうにするのは、家の中だけにしてくれない? ここは私の職場なのよ?」

 すると努は、如何にも忌々しそうに言い出した。


「全く……。退職して家で大人しくしているかと思いきや、いきなり働きに出るとか言い出すとはな。年金と手持ちの現金で働かなくても余裕で暮らせるのに、お前は何を好き好んで喫茶店でパート勤務なんかをしている。実際に見に来てみたら大して流行っていないようだし、即刻辞めろ」

 そんな一方的な通告に、カウンターに持ってきたトレーを置いた久美はいきり立った。


「今は偶々お客が引けただけよ!! 今の発言は、マスターと私の双方に失礼よね!? 都市銀行の頭取に上り詰めたのが、そんなに偉いわけ! はっ、馬鹿馬鹿しい!! 定年退職したならただの人でしょうが! 第一、そんな他人を見下す年寄りなんて、老害そのものじゃない! 偉そうに御託を垂れているんじゃないわよ!」

「なんだと! 言うに事欠いて、なんて事をほざく!」

「先に失礼な事を口にしたのはそっちよね!!」

 目の前で激しい舌戦が始まってしまったことで、新見と三好は困ってしまった。


「うわ……、何もここで揉めなくても……。マスター、どうします?」

「どうしようと言われましても……、夫婦間のことに第三者が口を挟むのはいかがなものかと」

「全くだな。夫婦喧嘩は犬も食わないとは、良く言ったものだ」

 久遠も交えてコソコソと話し合っていると、いきなり久美が語気強く宣言しながら歩き出した。


「私はこの店を絶対に辞めませんからね! ここには久遠様がいらっしゃるんですから!」

 そして郁の隣の席、努から見て店の奥に位置するカウンター席にいた久遠を両手で持ち上げた。


「え? 筑紫さん!」

「何を!」

「さあ、あなた! この神々しいお姿を見て感動しなさい!」

「…………」

 完全に我を忘れているらしい久美が、久遠を掴んだ両手を夫に向けて突き出した。そんな妻の様子を見た彼が、無言で固まる。それと同時に、郁と三好は脳内で悲鳴を上げた。


(筑紫さん、何を言ってるんですか! それを突き出して見せても、ご主人には見えませんから!)

(あああ、どうしよう!? 『妻が変な事を言い出したのは、ここに勤務し始めたからだ』とか、難癖をつけられたら!?)

(相変わらず予想外の行動をする女だな……)

 しかしここで、事態は予想外の展開を見せた。


「……その狐は何だ?」

「ここの久遠様よ!」

「久遠様だと? まさか、ここのマスターが飼っているのか?」

 何故か努は眉根を寄せながら久美の手元を凝視しながら、不審そうに尋ねてきたのである。その反応に、郁達は先程以上に狼狽する羽目になった。


(嘘! まさかご主人にも、久遠様が狐に見えているの! そんな馬鹿な!?)

(ちょっと待ってください! 久遠様! これは一体、どういうことですか!)

(我にも分からん。要はこの夫は久美と同様にそれなりに信心があって、同様に狐が好きだとしか思えないのだが……)

(ところで新見さんには、どんな風に見えているんですか? 確か新見さんには、久遠様は成人男性に見えているんですよね? どう考えても筑紫さんにぶら下げられているようには見えないと思うのですが?)

(良く分からないけど、見た目はそのままで縮小サイズになってます。もう色々な意味で、考えるのを放棄したところです)

(そうですか……)

 そんな周囲とは裏腹に、努は極めて冷静に主張を繰り出す。


「狐は狐でもフェネックならペットショップで流通しているだろうが、その外見はどう見てもキタキツネだ。しかし野生の狐を捕獲するなど言語道断だし、流通しているとしてもエキノコックス感染のリスクも高い。そんな生き物を、飲食店内に放置しているなど衛生上問題がありすぎる。保健所に即刻通報するレベルだぞ? しかもお前は動物アレルギー持ちなのに、命に関わるだろうが。こんな店など即刻辞めろ」

 どこからどう聞いても正論であるそれを聞いて、郁達は本気で頭を抱えた。


(真っ向から理詰めで来た! これはちょっと反論できそうにないんですけど!?)

(勘弁してください! 保健所に通報なんかされたら、営業許可に関わります!)

(我は生身の狐ではないし、どうにでもなるのではないか?)

(確かにそうかもしれないけど、変な噂が流れたらどのみち拙いじゃない!)

(うわぁああぁ! 開店直後に閉店の危機にぃぃぃ!)

(二人とも落ち着かんか。そんな噂が立ったら働き口がなくなるのを久美も分かっておるだろう。あれはなかなか聡い女だから、夫の一人や二人、簡単に言い含められるのではないか?)

(幾らなんでも、そんな無茶な! この事態をどうやって収拾するって言うんですか!?)

(でもこうなったら、本当にそれしかないかも! 筑紫さん、頼みます! 上手く誤魔化してください!)

 そんな切なる願いを秘めた眼差しを郁と三好が送る中、久美が傍目には落ち着き払った状態で口を開いた。




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